第5話 ツマミという猫

その頃。倉庫の片隅に、一匹の黒い毛色の野良猫が身を潜めていた。先ほどから聞こえる騒がしい音と、時折漂ってくる奇妙な匂いに、警戒心を募らせている。特に、先ほどまで漂っていた「おかか」の香りは、猫にとって抗いがたい魅力だったが、それと同時にデンジャーな気配も感じ取っていた。

咲川と湖(レイク)は、昆布との攻防を続けていた。咲川の剪定鋏が、昆布の放つ鞭のような攻撃を辛うじて捌く。その間にも、湖(レイク)は昆布の懐に飛び込もうとするが、昆布は自らの体の一部を鞭のようにしならせ、巧みに彼女を阻む。


「しぶといですね、昆布さん!まるで、お気に入りの毛布に爪とぎする猫みたいに、なかなか離れてくれない」


湖(レイク)が苛立ちまじりに言うと、昆布の動きがわずかに止まった。その隙を、咲川は見逃さない。


「猫、ねぇ。そういや昔、山田の家にいた猫がさ、やたらと逃げ出すのが得意だったんだよ。どんなに厳重な鍵をかけても、いつの間にか外にいる。しまいには、裏庭の向こうの、あのさびれた工場にまで出入りするようになってさ」


咲川は、昆布の隙をついて、剪定鋏の峰で昆布の頭部をかすめた。昆布は小さく唸る。


「その猫、名前はなんて言うにゃ?」


湖(レイク)は、昆布の動きが鈍ったのを見て、再び攻撃を仕掛けながら尋ねる。


「それがな、変な名前でさ。『ツマミ』っていうんだよ。山田が、いつも酒のツマミを狙って寄ってくるからって、つけたんだと。でも、そいつ、本当に賢くてさ。一度、俺が仕事で使ってたUSBメモリを、隠したはずの場所から引っ張り出してきて、俺のPCの脇にそっと置いてたことがあってな」


咲川の言葉に、湖(レイク)は目を見開いた。昆布もまた、微かに動きを止めている。猫の話が、彼らの意識をわずかにずらしていることを、二人は肌で感じ取っていた。


「そんなインテリ猫がいたんですね。もしかして、山田さんのUSBメモリの中身を嗅ぎつけたとか?」


湖(レイク)が楽しそうに言うと、咲川は肩をすくめた。


「さあ。だが、そいつがいなくなってから、山田の家のネズミが増えたのは確かだ。それに、山田自身も、どこか寂しそうにしていたな。ツマミがいた頃は、あんなにつまらなそうにしてたのに」


その言葉に、昆布の体が微かに揺れた。彼の脳裏に、かつてどこかで見た猫の姿がよぎったのだろうか。もしかしたら、山田の家のツマミは、彼らが過去に追い詰めた、あるいは見逃した猫の中にいたのかもしれない。


「結局、その"ツマミ"って猫は、どうなったんですか?」


湖(レイク)が尋ねると、咲川はどこか遠い目をして、答えた。


「ああ。ある日、パタリと姿を消したよ。どこかの工場に住み着いたまま、二度と戻らなかった。まあ、それが、ツマミにとってのフリーランスだったんだろうな」


その言葉が、昆布の心を揺さぶった。彼は、まるで自身の過去を重ね合わせるかのように、その場に立ち尽くす。その隙を、咲川と湖(レイク)は見逃さなかった。

咲川は、剪定鋏を昆布の背中に深く突き刺し、そのまま大きく切り裂いた。昆布は、呻き声を上げながら地面に崩れ落ちる。湖(レイク)もまた、ナイフを昆布の体に何度も突き刺し、その抵抗力を奪った。


「やれやれ、これで山田の百天王も、あと一人か。次は誰が出てくるんだか」


咲川は、倒れた昆布を見下ろしながら、ため息をついた。湖(レイク)は、ナイフについた昆布の粘液を拭いながら、にこやかに言った。


「さて、咲ちゃん。ディナーのサーブもできたことですし、そろそろ最後のスペシャルゲストをお迎えしましょうか」


倉庫の奥から、再び新たな影が姿を現す。その男は、全身を赤く染め、まるで血を浴びたかのように見えた。その手には、巨大なフォークのようなものが握られている。山田の百天王、最後の刺客。その名は、鱈子。


ふと見れば、倉庫の隅にいた黒猫が、開いたままのシャッターから、するりと外へ駆け出していくのが見えた。まるで、何かに導かれるかのように、迷うことなく。


窓開けば

猫小さき声で

鳴く

夜の底から呼ばわるように

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