咲川と猫

the memory2045

第1話 咲川


蝉時雨が降り注ぐ七月の午後。

咲川はいつものように裏庭の草花の手入れをしていた。額に汗が滲むが、そんなことは気にも留めなかった。陽光を浴びて生き生きと茂る紫陽花の青みがかった紫が、彼の心を穏やかにする。手入れの行き届いた庭には、色とりどりの花々が咲き乱れ、まるで絵画のようだった。傍らには使い込まれたオレンジ色の持ち手のドイツ製剪定鋏が置かれている。彼は眼鏡の奥の深い眼差しで、花弁についた小さな水滴を慈しむように見つめていた。


「咲川さん、そろそろおやつの時間ですよ」


裏庭に面した縁側から、近所の子供の声が聞こえる。咲川は顔を上げ、柔和な笑みを浮かべた。彫りの深い顔立ちと、鳶色の瞳は、よく日本人離れしていると言われる。時折、近所の老婆が


「あんた、本当に純粋な日本人かい?」


と訊ねてくるほどだ。しかし、彼自身はそんなことには頓着しなかった。ただ、この静かで穏やかな日々が、永遠に続くことを願っていた。

しかし、その願いは、脆くも崩れ去るのだ。

その日の夕刻、郵便受けに一通の奇妙な封筒が届いた。差出人の名前はなく、消印も不明。咲川は訝しげに封を開けた。中には、一枚の写真と、小さな紙片が入っていた。写真には、満開の桜の木の下で、満面の笑みを浮かべる男が写っている。見覚えのある顔だった。

紙片には、たった一言だけ、墨で書かれていた。


「おにぎり、食べたくなった」


咲川の表情から、一切の感情が消え失せていった。眼鏡の奥の瞳に、冷たい光が宿っていく。手にした写真の男は、かつての彼が所属していた集団「ONGR」のリーダー格、山田だった。山田は、甘いものが好きなくせに、なぜかおにぎりに異常な執着を見せる男だった。

写真の裏には、日付と、あるビルの住所が記されていた。今から一時間後、この日本から遠く離れた異国の地で、指定された時間と場所で会おうというメッセージ。咲川は、深く息を吐き出した。もう二度と触れることはないと思っていた、過去の悪夢が、再び彼の前に現れたのだ。

指定されたビルは、異国の街の歓楽街にひっそりと佇む廃墟だった。錆びついた鉄骨が剥き出しになり、ガラスはことごとく割れている。風が吹き込むたびに、不気味な音が響いた。咲川は、迷うことなくその廃墟の中へと足を踏み入れた。

内部は、想像以上に荒れ果てていた。埃とカビの臭いが鼻を突き、足元には瓦礫が散乱している。最上階へと続く階段を上りながら、咲川は過去の記憶を辿っていた。彼が「ONGR」にいた頃、山田は常に冷静沈着で、どんな状況でも感情を表に出すことがなかった。しかし、その内には、鋼のような意志と、仲間への深い愛情を秘めていた。

最上階に辿り着くと、広い空間の奥に、ぼんやりと人影が見えた。近づくと、そこには背の高い男が立っている。紛れもない、山田だった。筋肉質な身体は相変わらずで、以前よりもさらに厚みを増しているように見える。山田は、咲川に気づくと、ゆっくりと振り返った。その顔には、懐かしさと、そしてどこか諦めのような表情が浮かんでいた。


「········おお、久しぶりだなァ、咲川」


山田の声は、あの頃と変わらず、低く落ち着いていた。咲川は無言で山田を見つめる。彼らの間には、張り詰めた沈黙が流れた。数年ぶりの再会が、こんな形で訪れるとは、咲川は想像だにしていなかった。


「お前をここに俺が直々に呼んだということは、大体のところは、もう分かっているだろう···?」


山田の言葉に、咲川はわずかに眉をひそめた。山田は続ける。


「湖(レイク)が、裏切った」


その瞬間、咲川の全身に電流が走った。湖(レイク)。「ONGR」のエースと呼ばれた、19歳の仕事人。痩せ型で、いつも黒髪を三つ編みにし、重そうな、セルロイドの黒縁眼鏡をかけていた。そして、何よりも猫をこよなく愛する少女だった。あの、感情の薄い彼女が、なぜ?


「彼女は、我々の機密情報を持ち出し、行方をくらました。我々は、彼女を追っている。だが、彼女は…強すぎる」


山田の言葉に、咲川は過去の記憶を呼び覚ます。湖(レイク)の戦闘スタイルは、まるで水のように変幻自在で、相手の予測を裏切るものだった。ナイフ捌き、銃の扱い、体術。どれをとっても超一流だった。特に、その目は、獲物を捉える獣のように鋭く、一度狙いを定めれば決して外すことはなかった。


「だから、お前に頼みたい。湖(レイク)の反逆を…食い止めてほしい」


山田の言葉に、咲川は固く唇を結んだ。かつての仲間を、殺せというのか。しかし、彼の脳裏には、楽しそうに子猫を抱きしめる湖(レイク)の姿が浮かんだ。あの少女が、本当に組織を裏切ったというのか?

咲川は、ゆっくりと眼鏡を押し上げた。その瞳に、再び冷たい光が宿る。長らく封じ込めていた、血と硝煙の記憶が、鮮やかに蘇る。静かで穏やかな日々は、終わりを告げた。彼に残された選択肢は、一つしかなかった。


「良いだろう。報酬は弾んでくれよな···」

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