あの夏を忘れない

南雲 皋

***

問. 父が連れてきた再婚相手が、初恋の人だった時の心境を答えよ。


答. こんな漫画みたいなことあるんか



 彼女に出会ったのは、高校二年の夏だった。

 一学期の成績が芳しくなかったけれど塾に入る気はなく、ぐうたらした夏休みを送るつもりだった俺に余計な気を回した父が連れてきた家庭教師。


 父は大学で事務員として働いており、定員が埋まったにも拘らず掲示されたままになっていた家庭教師の募集を見て来た彼女を、一石二鳥だということで自分の息子にあてがったらしい。


「初めまして、三船みふね千春ちはるです。今日からよろしくね」

「あ……ッス、金山かなやまとおる、ス」


 差し出された右腕はすらりと白く、握った右手はふっくらと柔らかかった。


『美人家庭教師きた』

『嘘乙』

『嘘じゃねえって、とーちゃんが連れてきた』

『は?俺が塾でおっさんの授業受けてる間、お前は家できれいなお姉さんに授業してもらってるってこと?クソが』

『俺の時代来ちゃうな〜』

『もう連絡してくんなよ裏切りもんめ』

『まあガチな話、彼氏はいるってさ』

『そういうのは早く言えよ、ドンマイ童貞くん』

『しね』


 思春期真っ盛りの男である。綺麗な若い家庭教師なんて、期待するに決まっている。

 だから当然、すぐに気付いた。

 左手の薬指に嵌められた銀の指輪には。


「それって、結婚指輪スか」

「え? ああ、これ? ふふ、ただのお揃いの指輪だよ。まだ大学生だし」

「あ、へぇ……」

「透くんは彼女いないの?」

「えっ?! や、いないス、俺、女子とあんましゃべんねーし……」

「そうなの? 透くんカッコいいし、今みたいに喋ってたらモテると思うけどなぁ」

「……ッス」


 からからと笑う彼女の笑顔が、頭から離れない。


 彼女の教え方は丁寧で分かりやすく、一度聞いて理解できなかったとしても俺を責めることはなかった。夏休みの間ほとんど毎日教わっていれば、苦手だった数学も、問題を見ると公式が思い浮かぶくらいにはなっていた。


 幼い頃に母を亡くし、父だけが俺の家族だった。

 大学が休みの間も、父は休むことなく働いている。農家を営む知り合いを手伝って、お金ではなく野菜や米をもらうのだ。


 朝、というかまだ夜と言っても差し支えないくらいの時間に起きる父は、朝昼晩、三食の用意をしてから仕事に行く。

 よく聞く鍵っ子の話のように、お金とメモだけがテーブルに乗っているようなことは一度もなかった。

 それが普通でないことはある程度の年齢になるまで分からなかったが、気付いてしまってからはそんなに頑張らなくてもいいのにと思った。


 そう思いつつ、やめてもいいよとは言えなかったし、自分も一緒に早起きをして用意を手伝うこともしなかったのだが。

 ただ、食べた食器は絶対にそのままにはしておかなかったし、掃除や洗濯は積極的にした。買い物も、いつしか購入品リストとお金を託されるようになり、俺にできることはやっているつもりでいた。


「透くんのお父さんって、頑張りすぎじゃない?」

「え?」

「私の分のご飯まで、用意してくれなくてもいいのに……」


 千春さんが家に来るようになってから、昼と夜に用意されたご飯の量が増えた。

 それが彼女のためにと作られたものであることはすぐに分かったので、いつも彼女は二食を俺と一緒に食べている。


「ねえ、今度一緒にご飯作ってみない? 食材は私が用意するからさ」


 その言葉に胸が高鳴ったのは、彼女と共に台所に立てるからだっただろうか。父に何かをしてあげられることが嬉しかったからだろうか。

 きっと、そのどちらもだった。


 ちょうど、父の誕生日が八月の半ばにあった。

 そのため、その日は一緒に夕ご飯を食べようと誘った。父の誕生日なのだから、俺が準備をすると言い張り、少しだけ多めに食費をもらった。


 彼女が買ってきた食材を使って、サラダにスープ、ローストビーフにカップケーキを作った。足りない調理器具は彼女が持ってきてくれた。


 家庭科の調理実習でしか触れてこなかった料理に戸惑ったけれど、実際調理のほとんどは彼女がやったし、俺のしたことといえば盛り付けるくらいのものだった。


 それでも、テーブルの上に並ぶ料理の数々は、俺にとって輝かしいものだった。


 父は、きっと俺が出来合いのオードブルやケーキを用意すると思っていたはずだ。

 千春さんがいることも、想定外だったはず。


 帰宅した父が玄関を開けた瞬間、おめでとうとクラッカーを鳴らした俺たちを見て父は滝のように涙を流した。料理を一口食べる度に美味しい美味しいと泣いた。


 今まで俺と父、俺と千春さん、多くて二人しかいなかった食卓が、この日だけ、三人になった。

 それはとても、楽しいものだった。


 翌日からは、また日常に戻った。

 けれど一つだけ変わったことがあった。千春さんが、時々お菓子をもってくるようになったのだ。手作りの、お菓子を。


「今まではちょっと遠慮してたんだけど、もう大丈夫かなって思って」


 彼女の作るマドレーヌが、一番好きだった。

 その幸せは、夏休みが終わるまで、続いた。


 家庭教師最終日、夏休みの終わり。

 完璧に終わらせた宿題と、正答率のかなり上がった問題集とを眺め、俺は千春さんに頭を下げた。


「本当にありがとうございました」

「透くんが頑張ったからだよ。お父さんに負担かけたくないのかもしれないけど、透くん頭いいから、塾行った方が伸びると思う。いい大学行けたら、就職先の幅も広がるよ」

「うス」


 塾に行かないと言ったのは、月謝が高いと思ったからだ。

 けれど千春さんの言う通り、長期的に見れば今頑張った方が後々、父を楽にしてあげられるのだろう。


 父に相談すると、二つ返事で許可が出た。

 そうして俺は二学期から成績を伸ばし、模試でも結果を出した。


 第一希望の大学に入学し、就職活動も上手くいった。

 初任給で父に何をしてあげようと思っていた時だった。


 真剣な顔をした父から、話があると言われたのは。


「実は、再婚したいと思っている人がいるんだ」


 ほとんど一ヶ月ぶりに帰ってきた実家でテーブルを挟んで座った父は、開口一番そんなことを言った。


「は?」

「お前も家を出たし、いい機会かと思って」

「え、ちょっと待って、親父、いつからそんな」

「…………お前が大学に入学して、少ししてからかな」

「結構長いじゃん……まあ、俺が家にいたらあれか……」


 合格した大学は家から通えない距離ではなかったため、一人暮らしをした場合と通った場合の金銭的なシミュレートをして、四年間ここから通ったのだ。

 まさか父に恋人がいたとも知らず……っていうか俺は彼女まだ出来たことないのに……いや、今はそんなことを考えている場合ではない。


「や、父さんの人生だし、俺が口出すことじゃないよ。父さんも言ったけど、俺だってもう大人、だし」

「そうか……ありがとう」

「お相手ってどんな人なの?」

「お前も知ってる人だよ」

「え?」


 俺が知っている人、と言われ、思い浮かぶのはみな結婚しているおばちゃんばかり。父に限って不倫やら略奪婚はないだろうとハテナを飛ばしていると、父の口から驚きの単語が飛び出した。


「千春くんだよ。家庭教師にきてくれたの、覚えてるか?」

「えっ、え、は? えええええ?」

「あー……うん、そうなるよな、ははは」

「はははじゃねーし! は? 千春さん? えええ?!」


 忘れたくても忘れられない名前だった。

 あの夏のことは折に触れて思い出す。


 気になる女子ができる度、勝手に脳内で千春さんと比べてしまうくらいには、大きすぎる存在だった。

 それが、父と、再婚?


「え、マジ?」

「マジだ。呼ぼうか」

「ちょ、待って、飲み込めない、待って」

「あ、もしもし? うん、今伝えたんだけど……うん、混乱してる。ははは、透、代わりたいって」


 父から差し出されたスマホには、三船千春と表示されていた。


「も、しもし」

『もしもし、透くん? 久しぶり』

「……ッス、その、マジすか……」

『あはは! 変わらないね。うん、マジだよ。歳の差とか、色々あるけど……認めてくれたら嬉しいな』

「いや、認めるも認めないも……俺が言えることじゃないんで……千春さんなら、安心と言えば安心、だし」

『そう言ってもらえて嬉しいよ。ママって感じにはなれないかもしれないけど、仲良くしてね』

「あー…………ママにはならんでもろて……」


 電話の向こうで千春さんが吹き出すのと、目の前に座る父が吹き出すのは同時だった。

 ああ、本当に仲が良いんだな、と。なんだかすごく腑に落ちて。


「おめでとう、ふたりとも」


 俺は本心から、お祝いの言葉を贈れたのだった。

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