地獄変

のり

地獄変

序章 前夜


冷蔵庫のモーターが低く唸っていた。止まったあと、蛇口から落ちる水の音が耳についた。


部屋は、静かすぎた。


彼はベッドに横たわり、スマホを持ったまま微動だにしない。


その画面が、青白く顔を照らしていた。


時折、指が動いた。何かを送る動作。受け取るような気配。 クスッと、笑う声が漏れた。


私は、キッチンの戸棚を開けた。指先で包丁の柄に触れた。 そのまま、また閉めた。


眠っているように見える彼の背中を見つめた。


スマホの光だけが、部屋の中で生きていた。


再び、戸棚を開けた。今度は、閉めなかった。


第一章 通報


「こちら110番です。事件ですか、事故ですか?」


女の声がした。静かで、妙に落ち着いていた。


「事件です。人を刺しました」


空白が生まれた。電話の向こうの男が、一瞬、言葉を飲んだ気がした。


「刺したのはあなたですか?」 「はい」 「刺された方の容体は?」 「まだ息をしています。血がいっぱい出ています」


受話器越しの沈黙。無機質な確認が続く。


「わかりました。こちらで位置を確認しました。電話を切らず、その場を動かないでください」 「はい。わかりました」


それきり、通話の内容は終わっていた。


マンションの一階、タイル貼りのエントランス。 女は壁に寄りかかり、タバコを咥えたままスマホを耳に当てていた。


男が倒れている。腹部から血を流し、寝巻姿で呻いていた。


女は動かない。タバコの火が、白い煙をゆらす。 スマホの画面が青く光り、彼女の横顔を照らしていた。


誰もまだ、現場にいなかった。 ただ一つ、世界に穴が開いたような静けさがあった。


その穴の奥で、血が広がっていた。



第二章 報道


午前5時25分。テレビが始まった。


「おはようございます」


スタジオのキャスターが笑顔を作り、軽快な音楽が流れる。 いつもと変わらない朝の始まりだった。


天気予報。週末のイベント情報。簡単なレシピ紹介。 どれも、昨日と変わらない“日常”の繰り返し。


だが、空気が変わったのは数分後だった。


「続いて、今朝入ってきたニュースです」


画面の下に、細いテロップが流れる。 『ホスト刺傷事件 容疑者の女 現行犯逮捕』


スタジオの空気が少し重くなる。


画面が切り替わった。


白いマンションのエントランス。倒れた男。 血の海が床を這っている。 その横に、女がいた。


座り込んだ姿勢。くわえたタバコ。耳に当てたスマホ。 まるで何も起きていないような顔。


男の寝巻は赤黒く染まっていた。 包丁が床に落ちている。画面は無音。


「事件が発生したのは午前3時50分ごろ。新宿区内のマンションで、20代の男性が腹を刺され意識不明の重体。現場には交際相手の女がいて、その場で通報しました」


キャスターの声が少し低くなる。


「警察によると、女は“好きで好きで仕方がなかった”と供述しています」


動画は短く、何度も繰り返された。


血。煙。無表情。


SNSでは“リアルヤンデレ”の文字が飛び交い、再生回数だけが増えていく。


画面がスタジオに戻る。 キャスターは一瞬、言葉を探したように黙った。 だが、数秒後には笑顔に戻り、次のコーナーへと切り替えた。


番組は、またいつもの朝を装い始めた。



第三章 被害者


寝ていたはずだった。


寒さに目が覚めた。次の瞬間、腹が焼けるように痛んだ。 息が詰まる。声も出ない。目の前に、女がいた。


彼女だった。髪は乱れ、手には包丁。


「好き」


そう言った。小さな声だった。


わけがわからない。何が起きてる? なぜ? 血が滲むのがわかる。手を腹に当てると、生ぬるく濡れていた。


逃げなきゃ。そう思った。頭より先に体が動いた。 枕を投げ、足元が滑る。ドアへ這って向かう。背中が痛む。刺されたのかもしれない。


「行かないで…行かないで……」


泣いていた。女の声だった。


振り返る余裕はなかった。とにかく逃げる。エレベーターのボタンを何度も押した。手が震えていた。


扉が開いた。乗り込む。閉まるまでの数秒が永遠に感じた。


視界が揺れる。音が遠くなる。足が力を失っていく。


光の先にロビーが見えた。助かった、そう思った。


タイルが冷たかった。それが最後の記憶だった。



第四章 加害者


スマホに映ってた女の顔。彼の隣で、知らない笑い方をしていた。


全部、どうでもよかった。けど、それが頭から離れなかった。


包丁はキッチンの引き出しにあった。冷たい金属。軽くも、重くも感じた。


部屋に戻った。彼は寝ていた。寝巻きのまま、穏やかな顔だった。


それが気に入らなかった。


近づいて、見下ろした。動悸がうるさかった。右手が震えた。足も震えていた。


刃を押し込んだ瞬間、彼が跳ねるように目を開けた。息を詰まらせたまま、こちらを見た。


その顔を見て、言葉が漏れた。


「好き」


聞かせたかった。どうしても。


血が出た。彼の目が開いた。信じられないという顔だった。それを見て、涙が出た。


逃げようとした。追いかけた。


廊下を走る音。声。ドアの開閉音。背中に、もう一度包丁を入れた。「行かないで」


そう言いながら、抱きついた。泣いてた。


やがて彼はロビーに倒れた。私はその隣に座った。


タバコに火をつけた。細く揺れる煙が、空気に溶けていく。


スマホを耳に当てる。


「人を刺しました」


それだけ言った。何も考えられなかった。


タバコの火が消えかけていた。 吸い殻を唇から外し、そっと目を閉じた。


深く息を吐いた。肺の奥が冷えていく。 吐き出すように、今までのすべてが出ていった。


しばらくして目を開けた。 目の前の光景は何も変わっていなかった。


血。呻き。煙。静寂。


でも、私の中は変わっていた。 何かが終わっていた。


空っぽだった。けれど、どこか静かだった。


たぶん、これが私の地獄だったのだろう。


好き――その気持ちだけが、最後まで裏切らずに胸に残っていた。



第五章 撮影者


マンションの自動ドアをくぐった瞬間、空気が止まった。


鉄とタバコの匂いが混ざる。 男が倒れていた。血と寝巻。 隣には――彼女。


くわえたタバコから微かに立つ白い煙。 スマホの光が、彼女の顔を青く照らしている。


録画ボタンを押した。 手は震え、汗が流れた。 包丁がタイルに光っていた。


無言の中、唇が険しく動いたように見えた。


「人を刺しました」


そう読めた。


まるで、舞台のワンシーンだった。 誰も動かず、何も音がしない。 血の中に揺れる煙だけが、生きていた。


数時間後だった。 興奮は裂かれたように消えていた。 意識が、急に現実へと戻された。


部屋に戻ってモニターを見た。 再生数は数万を超え、「リアルヤンデレ」「狂気」などのタグが並んでいた。


目の前に映っているものは、自分が撮ったものだが、まるで他人が撮った動画だった。


――この光景は、美しかったのか? それとも、単なる惨劇か?


頭が痛い。 胸が重い。


言い訳を探した。 「記録者としての使命」? それとも「止めようとして止められなかった罪悪」?


だが、その両方とも真実じゃない。


目を閉じると、彼女の横顔が浮かぶ。 青い光。燃え尽きたタバコの火。 その中で、彼女の姿は――まるで美しかった。


背徳の果実を一口で噛み切り、あとに残されたのは、 灰と後悔と、自分の胸に染み込む“生々しさ”だった。


「仕方なかった」 それが唯一の言葉だった。


でも、それだけでいいのだろうか。



終章 後日


ニュースは、三日目の朝には別の話題に変わっていた。


SNSではまだ動画が回っていたが、コメントは止まっていた。


マンションのロビーには、血の跡がわずかに残っていた。


清掃のあとも消えきらなかった赤茶色が、タイルの目地に沈んでいた。


彼は助かった。 女は捕まった。


それだけが、事実として残った。


でも、あの夜の動画はまだ残っている。


再生すると、音もなく、彼女がタバコを吸っている。 スマホの光に照らされた横顔。


誰にも届かない表情。


それを撮った俺は、今でも思い出す。


あの時の彼女は、恐ろしく、そして――恍惚に満ちていた。


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