あの日 7.5

わんし

あの日の2025.7.5

本作品はフィクションであり、たつき諒氏の予言に基づく想像上の物語です。これらの説を流布する意図は一切ありません。登場する出来事や人物は、現実のものとは関係なく、娯楽目的で創作されたものです。冷静な判断のもと、ご鑑賞ください。










2025年7月。

日本の夏は、いつものように蒸し暑く、蝉の声が街角に響き合っていた。


東京の雑踏では、スーツ姿のサラリーマンが汗を拭い、渋谷のスクランブル交差点は観光客と若者で溢れていた。


京都の祇園では、浴衣姿の女性が石畳を歩き、祭りの提灯が夜を彩っていた。


北海道のラベンダー畑は紫に揺れ、沖縄の海はエメラルドグリーンに輝いていた。


この国は、平和と喧騒、伝統と革新が共存する、いつもの夏を迎えていた。


だが、その裏側で、静かな不安が広がり始めていた。


それは一冊の漫画だった。

漫画家・たつき諒氏の著書『私が見た未来 完全版』。


そこに記された「2025年7月5日、日本を未曾有の大津波が襲う」という予言。


その言葉は、SNSや動画投稿サイトを通じて、まるで野火のように広がっていた。


YouTube、TikTok、X(旧Twitter)、LINEニュース——あらゆる場所で、この「7月5日」が話題になった。


「本当に起きるのか」「単なる都市伝説か」「でも念のため準備しておこう」——。


中国語版も発売され、香港の有名な風水師も同様の予言をしたことから、海外でも影響は広がる。


香港では航空会社が日本便を減便し、観光客の予約が激減。


台湾では「中国の侵攻」と結びつけた噂まで飛び交い、防災グッズが飛ぶように売れた。


日本国内でも、コンビニの棚から水や缶詰が消え、ホームセンターでは懐中電灯やポータブル電源が品薄になっていた。


人々は皆、表面上は「まさか」と笑いながらも、どこかで「もしも」と考えていた。


6月下旬、東京——。

女子大生の咲良は、友人の美優とカフェでアイスコーヒーを飲みながら、スマホを見つめていた。


「ねえ、美優、7月5日のこと知ってる? なんかヤバいらしいよ。漫画家の予言なんだって」


「えー、またそういうの? 都市伝説じゃん。でも、ちょっと怖いね」


「私、昨日スーパーで水買いだめしちゃった。お母さんも同じこと言っててさ」


咲良たちのように、若い世代でもその噂は共有されていた。


半信半疑のまま、けれど何かが引っかかる。


気象庁は繰り返し警告を発した。

「科学的根拠はありません。デマです。冷静な行動を」


だがネットはその真逆だった。


「たつき諒の予知夢は当たってる!」

「3.11も予言してた!」

「今回は本物だ!」


YouTuberたちが動画を量産し、TikTokではカウントダウン動画がバズる。


日本は静かに、目に見えない不安と狂騒の中に引き込まれていた。


7月4日、夜。

東京タワーの展望台では、カップルたちが夜景を見下ろしていた。


「明日、なんか起きるって本当かな?」

「バカバカしいよ。こんな綺麗な夜に、災害なんて来るわけないだろ」


誰もがそう思っていた。

煌めく街の灯り、車のヘッドライト、ネオン。

夜は平穏で、風は心地よく、恋人たちは微笑んでいた。


だが、その遥か遠くの海で、何かが蠢いていた。

誰にも見えない深海の底で——。


2025年7月5日、午前4時。

日本のほとんどの人々が、まだ眠りについていたその時。


太平洋の深海で、膨大なエネルギーが解き放たれた。


フィリピン海プレートと太平洋プレートの境界。

数千メートルの海底。


まるで地球の鼓動が一瞬止まり、そして爆発したかのように——。


たつき諒が夢で見たという光景、「海底がボコンと破裂する」。


その瞬間は、現実のものとなった。


2025年7月5日 午前4時18分。

静かだった海面が、不気味に盛り上がり始めた。

深海から押し上げられた膨大な水の塊が、静かに、そして確実に巨大な波となり、日本列島に向かって走り出す。


気象庁の地震観測網は、かつてないレベルの異常を検知していた。


M9.2。


その数字は、誰もが忘れられない2011年の東日本大震災——M9.0を超えていた。


一斉に、緊急地震速報のアラームが鳴り響く。

スマートフォン、テレビ、ラジオ——あらゆる情報端末が一斉に警告を発し、人々は一瞬にして目覚める。


東京。

横浜。

千葉。

仙台。

鹿児島。

沖縄。


沿岸の都市は、まだ夜の静けさの中にあった。

だが、突如として建物は揺れ、ガラスが割れ、道が波打ち、空気が震える。


「地震だ!」

「逃げろ!」


叫び声が、闇の中で飛び交う。


ある者はパジャマ姿のまま裸足で外に飛び出し、ある者は大切なものだけを掴んで玄関の扉を開ける。

車は大渋滞し、信号機は停電で止まり、交差点は混乱の極みとなった。


しかし、それはまだ「序章」に過ぎなかった。

本当の脅威は——津波だった。


テレビのアナウンサーは、声を震わせながら警告を繰り返す。


「大津波警報が発令されました! 直ちに高台へ避難してください! 津波の高さは——推測不能です!」


「東日本大震災を思い出して下さい。」


画面には、真っ赤な警告色が点滅し、全ての視線を引きつける。


東日本大震災の記憶が脳裏に焼き付き、誰もが恐怖に突き動かされた。


——千葉県 鴨川市。


海岸沿いの小さな住宅街。

漁師の老人・佐々木直治は、妻を急かし、必死に車に乗り込んでいた。


「早く! 海が来るぞ!」


直治は、2011年の津波で仲間を失っていた。

あの日の悪夢は、いまだ彼の胸に残っていた。


だが、その時の波とは——比べものにならない。

遠くの闇の中、ゴウンゴウンと、低い唸り声のような海鳴りが聞こえてくる。


それは、見えざる死の足音だった。


「間に合ってくれ…!」


車の列は大渋滞し、誰もが不安に顔を歪めていた。


遠くの海は、真っ黒だった。


——午前4時30分。


最初の津波が、沖縄を襲った。

高さ30メートルを超える水の壁が、糸満、那覇、与那原といった街を一瞬で飲み込む。


港の船は粉砕され、住宅は木の葉のように流される。


大地は泥の海に変わり、車は玩具のように転がり、悲鳴が夜空を裂いた。


続いて、九州、四国、そして本州——。


東京湾では、波が押し寄せ、羽田空港の滑走路が水没。


お台場の高層ビル群のガラスが砕け、観覧車が不気味に揺れ続ける。


横浜港では、巨大コンテナが次々と波に飲まれ、港の防波堤は無力だった。


——宮城県 仙台市。


沿岸部の住宅街では、若い母親・高梨愛が、幼い息子を抱え、必死に高台へと走っていた。


「ママ、こわいよ!」

「大丈夫! 絶対、守るから!」


地面は激しく揺れ、背後では黒い波が街を飲み込んでいく。


彼女は息を切らしながら、泥の中を進んだ。


だが——津波はあまりにも速く、あまりにも冷酷だった。


次々と、街は消えていった。

田畑、住宅、学校、商店街。

人の営みのすべてを、無慈悲な水が奪っていく。


——午前6時。


東北地方——岩手、宮城、福島——。

東日本大震災の傷跡が、再び深く抉られた。


防波堤は破壊され、街は消えた。

誰もが、あの2011年3月11日の悪夢を思い出していた。


「まただ……」

「なぜ、またなんだ……」


呻く声が、泥の中から響く。


だが——この災厄は、日本だけに留まらなかった。


——太平洋全域。


津波は、台湾、フィリピン、ハワイへも到達した。


マニラの沿岸部は水没し、ホノルルのビーチは波に洗われた。


サモア、トンガ、ミクロネシア——広大な太平洋のすべてが、この「予言の波」に飲み込まれた。


世界中のニュースは、この災害一色となった。

CNN、BBC、NHK、CCTV。


「JAPAN SINKS AGAIN(日本沈没再び)」


その見出しが、各国メディアを飾った。


——東京 首相官邸。


総理大臣・村上尚人は、震える手で緊急閣議を招集した。

「自衛隊を総動員しろ!」

「海外からの支援を受け入れろ!」

「被災状況の把握を急げ!」


官邸内は、怒号と混乱の嵐だった。

テレビでは、涙ぐむアナウンサーが叫ぶ。


「皆さん、落ち着いて、冷静に避難を……!」


だが、停電で真っ暗な街、寸断された通信網、寸断された道路——


誰もが孤立し、情報は限られ、救助は絶望的に遅れていた。


SNSでは「#助けて」「#津波」がトレンドを埋め尽くし、無数の命が、画面越しに助けを求めていた。


助けを求む人のカキコが相次いだが、その一方で偽情報やフェイク動画が錯綜していた。


——午前10時。


朝日が昇り、やがて被害の全貌が明らかになり始める。


NHKのカメラが映し出したのは——

壊滅した街、流された家、泥まみれの人々。


あの日——3.11と同じ光景。

いや、それを遥かに超えた「終末の光景」


人々は、テレビの前で息を呑み、祈り、泣いた。


「もう、終わりだ……」

「どうして、こんな……」


2025年7月5日 午前11時。

太陽はすでに高く昇り、空は青く澄んでいた。


だが、その美しい空の下、日本列島の太平洋沿岸は、かつてない地獄と化していた。


空から見下ろせば、そこに広がっているのは、泥の海、瓦礫の山、そして沈黙。


気象庁の最終発表によれば、今回の地震の規模はマグニチュード9.2。


津波の最大波高は、観測史上最高の20メートルに達した。


死者・行方不明者は、すでに数万人を超えると見られていた。


災害対策本部は急ピッチで動き始めたが、被害のあまりの広範さに、救助は後手に回っていた。

情報は錯綜し、道路は寸断され、ライフラインは途絶。


国全体が「機能停止」に陥っていた。


——岩手県 大船渡市——。


かつて漁港として栄えたこの街も、無残な姿を晒していた。


濁流はすべてを押し流し、残ったのは、瓦礫と泥、そして絶望の匂いだけだった。


その中に、佐藤和男(73)の姿があった。

彼は2011年、東日本大震災でも家族と家を失い、10年かけてようやく再建したばかりだった。


だが、その全てが、再び一夜にして消え去った。


「またか……また、全部、流された……」


和男は泥まみれの瓦礫の上に腰を下ろし、涙を流すでもなく、ただ呆然と海の方を見つめていた。

その視線の先では、かつての町が、濁った水の中に朽ち果てている。


彼は小さく呟いた。


「でも……生きてる。それだけで十分かもしれねぇな……」


その言葉は、自分自身を奮い立たせるためでもあり、消えた家族への祈りでもあった。


——東京——。


首都圏でも混乱は続いていた。

津波こそ、東京湾の防潮堤である程度食い止められたものの、沿岸部の工場や物流施設は壊滅。


地震によるインフラの損傷は大きく、都市機能は麻痺していた。


渋谷のスクランブル交差点は、人影もなく、瓦礫と割れたガラスが風に舞っていた。


停電により信号は消え、静まり返った街を、自衛隊のトラックが黙々と進む。


その中を、自転車を押して歩く若者——山下悠真(24)がいた。


彼は災害ボランティアとして、近隣の避難所に水と食料を届けていた。


バックパックには、レトルト食品、ペットボトル、医薬品。


SNSで救援要請を目にした瞬間、彼はいてもたってもいられなくなり、動き始めたのだ。


「誰かがやらなきゃ、誰も助からない」


その思いだけで、崩れた道を歩き続けた。

空には、自衛隊のヘリの音。

遠くには、火災で上がる煙。


それでも——彼は歩いた。


——午後2時——


避難所となった体育館には、多くの人が集まっていた。


都内のある小学校の体育館。

毛布にくるまる高齢者、子どもを抱く母親、スマホを握りしめたまま放心する若者。


その中で、看護師の高橋美咲(28)は、必死に負傷者の手当てに追われていた。


包帯も薬も足りない。

彼女自身、家族の安否もわからない。


それでも——目の前の命を、ただ守りたかった。


「大丈夫、すぐに医者が来るから」


そう言いながら、美咲は笑顔を絶やさなかった。

震える手でガーゼを押さえながら、彼女は何度も自分に言い聞かせる。


「私は、まだやれる」


体育館の片隅では、スマホの僅かな電波を探し、必死にSNSにメッセージを打ち込む人々がいた。


「仙台の〇〇地区、誰か無事ですか?」

「母と連絡が取れません。どなたか知りませんか?」


その投稿は、電波の海を越え、どこかの誰かの心に届くことを願っていた。


——午後4時——


政府は、全国規模の「緊急事態宣言」を発令。

被害のあまりの大きさに、国際社会も動き始めた。


アメリカ海軍の空母が日本に向かって出航。


カナダ、オーストラリア、EU各国が支援物資を積んだ航空機を派遣。


国連は、緊急特別会合を開き、支援体制を発表した。


「世界は日本を見捨てない」


その言葉は、世界中のニュースで繰り返された。


——しかし、日本列島には新たな脅威が迫っていた——。


余震。


気象庁は、再三にわたり警告を発していた。


「余震の可能性が非常に高い。津波警戒を継続してください」


7月6日 午前5時。

その不安は現実となる。


——M7.8の余震——。


日本各地で激しい揺れが再び人々を襲い、すでに傾いていた家屋が次々と倒壊。


救助活動中の消防士が瓦礫に飲み込まれ、二次災害が続発。


SNSには、「#余震」「#今すぐ逃げて」の文字が溢れ、再び国民の間に緊張と恐怖が走った。


——渋谷——。


悠真は、崩れかけたビルの下で泣く子どもを発見した。


「大丈夫だ、すぐ助ける!」


彼は手で瓦礫を掘り、救出し、子どもを抱き上げた。


「もう大丈夫。お母さんのところに戻ろう」


子どもの小さな手が、彼の服をぎゅっと掴んだ。

その温もりに、悠真は胸が熱くなった。


——7月6日 夜——


日本の空は、暗闇と静けさに包まれていた。

停電で星も見えず、ただ黒い夜が支配していた。


だが、その闇の中で——小さな光が生まれていた。


避難所の焚き火。

ボランティアの懐中電灯。

スマホの灯り。


人々の「希望」が、ひとつ、またひとつと、静かに灯っていた。


たつき諒の「予言」は、たしかに当たった。

だが——それは絶望の終わりではなかった。


2025年7月6日 午後。

日本列島は、かつてないほどの沈黙に包まれていた。


その沈黙は、決して静寂などではなかった。

それは、奪われた命の重み、破壊された街の傷跡、


そして、生き残った者たちの心の奥底に響く「喪失」の音だった。


被災地には、瓦礫の山と、泥の海、そして仮設の避難所だけがあった。


生き残った者たちは、誰もが目を虚ろにしていた。


誰もが——「また、こんなことが起きるなんて」と言葉を失っていた。


——岩手県 大船渡市——


佐藤和男は、泥に足を取られながら、かつて自宅があった場所に戻っていた。


海が引いた跡には、歪んだ鉄骨、砕けたガラス、そして家具の破片が散乱していた。


その中から、彼は慎重に手を伸ばし、泥の中から濡れたアルバムを拾い上げた。

表紙は破れ、中の写真もほとんどが黒く滲んでいた。


だが、一枚だけ——奇跡のように、かろうじて残っていた家族写真があった。


それは、震災前の幸せな日々。

孫の笑顔、妻の優しい表情、そして自分の姿。


「……また、やり直すか」


和男は小さく笑った。

その声は、どこかで消えていった海の音に、微かに重なっていた。


彼は一歩一歩、瓦礫の上を歩き始めた。

そこには、絶望の光景しかなかった。

だが、その歩みは、確かに「生きる」ための一歩だった。



——東京——


午後3時。

首相官邸では、政府の緊急対策本部が新たな声明を発表していた。


「今回の災害は、国難と呼ぶべき規模です。国民の皆さま、互いに助け合い、冷静に行動してください」


総理の声は、やや震えていた。

テレビ各局は、繰り返しその映像を流し続けた。


停電が続く東京では、道路に設置された非常用の電光掲示板が、赤字でこう点滅していた。


「高台へ避難せよ」

「津波警戒中」

「余震注意」


だが、もはや津波は遠ざかり、余震の恐怖だけが支配していた。


渋谷の交差点は、なお静まり返っていた。

自衛隊の大型車両が、瓦礫を避けながら進み、時折、ヘリの音が空を切り裂く。


山下悠真は、その中を自転車で走っていた。

額には汗、両手には震え。


背中のリュックはもう空っぽだった。


「それでも、届けなきゃいけない」


彼は次の避難所を目指していた。

バッテリー切れのスマホを握りしめ、「助けを待つ人」がいる限り、自分は止まらないと決めていた。


途中、彼は、道端に座り込んだ老女に声をかけた。


「大丈夫ですか? 水は?」

「……ありがとう。でも、もう動けないの。ここでいいよ……」


老女はそう微笑んだ。

悠真は、一瞬だけ迷ったが、自分のポケットに残っていた最後の水を差し出した。


「絶対、助かりますから」


老女の手が震えながらボトルを受け取り、その瞳に光が戻るのを、彼は見た。


「行かなきゃ」


彼は再びペダルを踏み、走り出した。


——避難所——


東京都内、避難所の体育館。

高橋美咲は、ようやく少しだけ手が空いた。


目の前には、安堵と疲労が混ざった表情の人々。

泣き止まない子供、食事を待つ人、手当てを待つ怪我人、怒鳴る人。


彼女は息をつき、体育館の隅でスマホを確認した。


アンテナは微かに立っている。


不安定な回線の中で、家族からのメッセージが、ようやく届いていた。


『無事です。心配しないで。こちらも避難できています』


その瞬間、美咲の目から涙が溢れた。


「良かった……」


しばらく泣き続けた後、彼女は顔を上げ、再び歩き出した。


「まだ、できることがある」


——太平洋沿岸の被災地——


7月6日 午後5時。

空には、不穏な雲が漂っていた。


気象庁は、断続的な余震と、再び小規模な津波の可能性を警告。


被災地では、すでに高台へ避難していた人々が、新たな不安に震えていた。


だが、そんな中でも、人々は手を取り合い始めていた。


岩手県の漁師たちは、焼け残った小さな小屋で、瓦礫から見つけた魚を焼き、避難者に分け与えていた。


ボランティアの高校生たちは、泥だらけになりながらも、笑顔で配給を手伝っていた。


海外から届いた支援物資には、「がんばれ日本」「あなたたちは一人じゃない」というメッセージが添えられていた。


そしてSNSでは、

「#日本は負けない」

「#助け合おう」

「#命をつなごう」


そんなハッシュタグが、画面の海を埋め尽くしていた。


——夜——


7月6日 夜。

日本の夜は、闇の中にあった。


停電の街、静まり返った被災地。

月すらも雲に隠れ、見えるのは懐中電灯の光と、遠くの非常灯だけだった。


だが、その闇の中に、人々は「希望の光」を灯し始めていた。


避難所では、焚き火を囲み、互いの無事を喜び合う人々の笑顔があった。


子どもたちが「また学校行けるかな」と語り合い、大人たちが「街をもう一度作ろう」と肩を叩き合った。


——たつき諒の予言は、たしかに当たった。


だが、それは——「終わり」ではなかった。

人々の「未来」は、確かにここにあった。


悠真は、最後の物資を届け終えた後、夜空を見上げた。


その空には、微かに、雲の切れ間から星が一つだけ瞬いていた。


「負けない——俺たちは」


彼は小さく呟き、目を閉じた。


2025年7月7日 午前6時。

災厄の嵐が過ぎ去った後の、静けさが日本を包み込んでいた。


夜が明け、東の空には微かな朝焼けが広がっていた。


だが、その朝の光は、まるで色を失ったかのように淡く、冷たかった。


——岩手県・大船渡市——


和男は、足元の泥を踏みしめながら、もう一度、瓦礫と化した自宅跡を見渡していた。


海から戻ってきた潮の匂いと、焼けた木材の臭いが入り混じっていた。


彼は、泥に埋もれた家族の写真を胸にしまい込み、傍らに立つボランティアの若者に声をかけた。


「若いの、悪いが手を貸してくれんか。大事なものが、まだこの下にあるんだ」


「はい! わかりました!」


少年は顔を泥まみれにしながら、重機も使わず、素手で瓦礫をどかし始めた。


いつの間にか、他の避難者も集まり、手伝いの輪が広がる。


老いた手と若い手が交わり、瓦礫の山が、少しずつ動いていく。


それは、失われた「過去」を掘り返す行為であり、同時に「未来」を掘り起こす行為でもあった。


やがて、泥にまみれた古いオルゴールが出てきた。

和男はそれを、胸元で優しく撫でた。



「これは、妻が若い頃に好きだった歌のオルゴールなんだ……。震災でなくなったと思ってた」


彼は、ゆっくりゼンマイを巻いた。

かすれた音色が、瓦礫の中に流れ始める。


「きっと、もう一度やり直せるさ」


誰かがそう言った。

その言葉に、誰もが微笑んだ。


——東京・代々木公園——


7月7日、午前8時。

都内では依然として大規模停電が続き、ライフラインは麻痺したままだった。


悠真は、自転車を押しながら、公園内の臨時避難所にたどり着いた。

彼の顔は疲労にまみれ、足元は泥で重くなっていた。


それでも——彼は微かに笑っていた。


そこには、炊き出しの煙が立ち上り、子どもたちが段ボールで作った「秘密基地」に集まっていた。


ボランティアの大学生が、子どもたちに読み聞かせをしていた。


「よし、もう少し水を運ぼう」


悠真は再びリュックを背負い直し、立ち上がった。

そこに、彼の母親と妹の姿があった。


「悠真!」

「お兄ちゃん!」


涙に濡れた母と妹が、彼に抱きつく。

それは、生きて再会できた奇跡だった。


「大丈夫だ。俺、生きてる。家族みんな、生きてる」


彼はその言葉を何度も呟いた。

そして、固く、家族の手を握った。


——岩手・釜石市——


午後1時。

被災地には、次々と支援物資が届き始めていた。


自衛隊のトラックが泥道を越え、各地の避難所へ医療物資や食料を運ぶ。

アメリカ、オーストラリア、台湾、韓国——国境を越えた支援が続々と日本に届けられていた。


だが、被災地の空気はまだ重かった。


情報が錯綜し、生死の確認が追いつかず、街の再建はまるで見えない。


それでも、人々は「今やれること」を積み重ねていた。


高校生たちは瓦礫撤去に汗を流し、消防団は行方不明者の捜索を続け、看護師たちは不眠不休で手当てを行っていた。


釜石の海沿いでは、津波で流された小舟が砂浜に打ち上げられた。


その船を、地元の漁師たちが「また海に出よう」と押し戻そうとしていた。


「海は、俺たちを奪う。でも、海がないと、俺たちは生きられねえ」


涙をこらえながら、漁師は言った。

誰もがその言葉に頷き、共に船を押し続けた。


——首都圏——


7月7日 午後5時。

政府は「第二次緊急事態宣言」を発令し、被災地域の完全封鎖を決定。


それでも、停電中の都心では、誰もが自発的に助け合っていた。


スーパーでは「一人三点まで」と貼り紙がされ、行列に並ぶ人たちは互いに励まし合った。


近隣の住民同士が、非常食や水を分け合い、安否を確認し合った。


街角では「無料充電スポット」が作られ、見知らぬ人々がスマホの電源を分け合った。


「知らない人だけど、みんな、今は“仲間”だからね」


誰かがそう言った。

それは、心からの言葉だった。


——夜——


7月7日 夜。

日本列島は、静かに夜の帳に包まれた。


しかし、停電の闇の中には、希望の灯りがともっていた。


避難所の小さなランタンの灯り。


炊き出しの鍋の湯気。


子どもたちが描いた「未来の街」の絵。


誰もが、いつかこの闇が明けることを信じていた。


和男は、再びオルゴールのゼンマイを回した。

かすかな音色が、澄んだ夜空に響いた。


悠真は、妹と母の間で、眠りについた。

彼の腕の中には、家族の温もりがあった。


美咲は、満天の星空を見上げ、胸の前で手を合わせた。


その手は、確かに、祈りの形をしていた。


——それでも、生きる。

——それでも、希望を捨てない。


それが、日本という国の答えだった。


2025年7月8日。

日本列島を襲った未曾有の大災害から、三日が経過していた。


だが、人々はまだ「日常」を取り戻せずにいた。

沿岸部の街は壊滅し、通信と交通は断たれ、あちこちで救助活動が続く。


しかし——その一方で、被災地の空気には、わずかだが確かな「希望の兆し」が芽生え始めていた。



——岩手県・大船渡市——


朝6時。

和男は、ふたたび家の跡地に立っていた。


「また、一からだな」


彼は、泥まみれの大地をじっと見つめる。

誰もいない海を背に、波の音だけが静かに響いていた。


だが、そこに、一人の少年がやってきた。

避難所で出会ったボランティアの高校生だった。


「おじいさん、また手伝いに来ました」


彼は泥だらけの軍手をはめ、笑顔で言った。

和男は驚き、そして静かに微笑んだ。


「礼を言うよ。……だが、これは俺たち年寄りがやることだ」


「違います。僕らは未来をつくる世代です。だから、今を作る手伝いをさせてください」


その言葉に、和男は一瞬、胸が熱くなった。

震災を、津波を、何度も経験したこの土地の人々が失わなかったもの。


それは「人と人をつなぐ温もり」だった。


二人は、言葉少なに作業を始めた。

破れた畳を運び、流された家の土台を掘り起こす。


すると、瓦礫の隙間から、小さな陶器の人形が現れた。


ひび割れたそれは、かつて和男の孫が「お守り」として大事にしていたものだった。


和男はそれを両手で包み込み、目を細めた。


「……まだ、終わってねえな」


そう呟いた時、遠くからボランティアたちの歌声が聞こえてきた。


「負けるな日本」——そのメッセージは、風に乗って空に広がっていく。


——東京・渋谷——


午前8時。

停電が続く都心。


だが、渋谷の街角では、復旧の動きが始まっていた。


民間の組織が、倒れた標識を撤去し、道路を確保。ボランティアがビルのガラス片を片付け、負傷者を救出。


小さなカフェが、無料で温かいコーヒーを振る舞い、冷え切った人々の心を温めた。


悠真も、その一人だった。


「届けます!」


彼は、避難所に向かう途中、倒れたお年寄りを見つけた。


迷わず自転車を降り、荷物を降ろし、その人を背負って歩き始める。


「大丈夫です。絶対、助けますから」


疲労で足は震え、汗が滝のように流れた。

だが——「生きている」ことの意味が、彼の心に確かに刻まれていた。


やがて、避難所にたどり着いたとき、彼は大きな歓声に迎えられた。


「おかえり!」

「ありがとう!」


人々の声に包まれ、悠真は思わず涙がこぼれた。

それは、生きることの痛みと喜び、その両方が入り混じった涙だった。


——北海道・函館——


7月8日 午前11時。


被害が比較的少なかった北の街でも、支援物資の受け入れが始まっていた。

北海道新幹線は止まり、物流も遮断されたままだ。


だが、地元の漁師たちは、自ら小型船を出し、支援物資を本州から運ぶ役目を買って出ていた。


「ほっとけねえべ。人が困ってんなら、助けるのが当たり前だべや」


方言混じりの声に、誰もが笑顔を浮かべる。

この日、函館港には、各地から届いた物資が次々と運び込まれ、災害支援のハブとなっていった。



——国会議事堂——


7月8日 午後3時。


政府は、緊急閣議を開き、今後の復興計画を協議していた。


■ 被災者への義援金支給。

■ 仮設住宅の迅速な設置。

■ 電力・水道・通信の早期復旧。

■ 海外からの支援受け入れ拡大。


首相は、涙をこらえながら、国民に向けた記者会見を開いた。


「我が国は、未曾有の災厄に襲われました。しかし——私たちは、立ち上がります。必ず復興し、未来を築きます。どうか、どうか、希望を失わないでください」


その言葉は、全国に生中継された。


——岩手・三陸沿岸——


夜。


避難所では、子どもたちが輪になり、地元の教員が読み聞かせをしていた。


「むかしむかし、海の向こうに小さな村がありました——」


子どもたちの笑顔が戻り、焚き火の灯りが彼らを優しく照らしていた。


その光景を見守る和男は、ふと口ずさんだ。


「……七転び八起き、だな」


その言葉に、隣の少年がにっこり笑う。


「また、町を作りましょうよ」


「そうだな。もう一度、町を作るんだ」


夜空には、無数の星が輝き始めていた。


——7月9日——


新しい朝が来た。

太陽が、再び日本を照らし出す。


破壊された街は、まだ荒れ果てたままだった。

しかし、そこには確かに——人々の歩みがあった。


学校の校庭に設けられた臨時市場。

子どもたちが泥の中から救い出したランドセル。

教会で鳴らされた鐘の音。


誰もが「未来」を口にし始めていた。


——「もう一度、町を」

——「必ず、生き抜こう」

——「一緒に乗り越えよう」


その声は、SNSの海を越え、世界中から届く応援の声と重なっていった。







——エピローグ——


7月15日。


被害の全貌が判明し、復興への歩みが本格的に始まった。


数万人の命が失われ、多くの町が地図から消えた。

しかし——「人の心」は消えなかった。


たつき諒の予言は、確かに現実となった。

だが、それを乗り越えた人々は、新たな歴史を刻み始めていた。


瓦礫の上に咲く一輪の花。

それは、絶望の中の希望だった。


「また、笑える日が来るよね」


その子どもの言葉は、やがて日本中の人々の心に根付いていく。


——私たちは、また歩き出す。

——何度でも。


2025年7月20日。

災厄から15日が経った。


日本列島の傷は、いまだ深い。

だが、そこには確かに「生きる者たちの歩み」があった。


——岩手県・大船渡市——


朝5時。

和男は、日の出を見つめていた。


海から昇る太陽は、あの日と変わらぬ美しさだった。

だが、その静けさの裏には、数え切れない命が失われた現実があった。


彼は、手にしていた土のついた写真をそっと胸元にしまい込む。

——泥の中から見つけた、亡くなった妻と孫の写真だった。


「……また、笑ってくれよ」


和男は、誰にともなくそう呟いた。


瓦礫の山の中で、若いボランティアたちが作業を続けている。


泥だらけになりながら、笑顔を絶やさず、励まし合い、共に汗を流していた。


「おじいちゃん、今日は仮設の場所、見に行こうよ!」


その声に、和男は顔を上げた。

少年が、泥だらけの手を振っている。


「ほら! これから、みんなで“新しい町”作るんだよ!」


和男は、ふっと笑った。

誰よりも絶望していたはずの自分が、今、胸の奥から湧き上がる何かに突き動かされていた。


「そうだな……行くか」


彼は、ゆっくりと歩き出した。


——東京・渋谷——


都心も、ようやく復旧の兆しを見せていた。


信号は戻り、電車は間引き運転を再開し、コンビニには僅かながらも商品が並び始めた。

それでも、かつての活気はまだ遠い。


悠真は、自転車を押しながら、静かなスクランブル交差点を歩いていた。


「……変わっちゃったな」


彼は呟いた。


——だが、変わったのは「街」だけじゃない。


自分も、変わっていた。

災害の中で、助けを必要とする人を目の前にし、「自分にできること」を見つけた。


「……まだ、終わっちゃいない」


悠真は、リュックから折れた地図を取り出し、次の支援先を確認する。


周りでは、飲食店やカフェが再開し始め、通勤客たちも少しずつ戻っていた。


だが、その目には、どこか「祈り」のような静けさが宿っていた。


「誰かのために」


——それが、この国を動かす「新しい空気」になりつつあった。


——大阪・梅田——


関西も、支援の拠点として動き出していた。


各地から集まったボランティア、海外からの支援部隊、企業の復旧チームが一丸となり、物資を送り続ける。


災害に巻き込まれなかった都市が「心」を寄せる姿に、人々は静かに希望を取り戻しつつあった。


「できることを、できるだけ」


その言葉が、大阪の街に溢れていた。


——国際社会——


7月20日。

国連本部では、日本への支援が正式決議され、各国からの支援物資と復興資金が加速していた。


アメリカ、ヨーロッパ、中国、韓国——

かつての敵味方も関係なく、人道支援が続々と届く。


インターネットでは「Pray for Japan」のタグが世界中を駆け巡り、子どもたちの手紙や支援動画が拡散されていた。


「We stand with Japan」

「一緒に乗り越えよう」


その言葉は、海を越えた絆の証となった。


——未来へ——


2025年8月1日。


大船渡の仮設住宅が完成し、最初の入居者が入った。

東京では、被災者支援のチャリティコンサートが開かれ、涙と笑顔が溢れた。


政府は「希望再生プラン」として、10年間での完全復興を目指すと宣言。


そして——誰もが「次」を考え始めていた。


防災、環境、教育、街づくり——

この国が「再生」するために、あらゆる分野で議論が始まっていた。


——最後の記憶——


8月15日。

お盆の夜。


和男は、海を背に、家族の写真を胸に抱き、静かに手を合わせていた。


隣には、少年たちが花火をしている。

悠真も、被災地支援を終えて、一緒に手伝っていた。


夜空に咲く花火が、瓦礫の町を照らし出す。


「また、ここに人が集まって、笑い合える日が来る」


和男は、確信していた。

どれほどの災厄がこの国を襲おうとも、人は必ず立ち上がる。


それは、戦争を乗り越え、震災を乗り越え、生きてきた人々の記憶が示していた。


「俺たちは……大丈夫だ」


空を見上げる彼の目には、希望の光が映っていた。


——そして、物語は終わりではなく、未来へと続いていく——

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あの日 7.5 わんし @wansi

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