幕引き
葉の色が変わりだす秋の訪れを無感動に眺める。窓の外から頬杖を突いて葉を落とす木を見て、もう何度ため息をついただろうか。体育の持久走より物理の試験よりも憂鬱な日が近づいていることに陽菜乃は机に突っ伏すしかできなかった。教室の喧騒が小さくなって、担任が教室に入ったことを耳で察する。今日の振り返りは爆速で過ぎ、担任は今週のお知らせを淡々と告げた。
「明後日水曜は早帰りの日だ。五限終了後には速やかにSHRを行う。十五時半が最終下校だから早めに帰れよ。そんで木曜日は……」
明後日の水曜日はレッドムーンの日だった。早帰りという響きに一瞬生徒たちが湧き立った。先生のアナウンスは無視されて、どこで遊ぶかなんて浮かれた声が遠くで聞こえる。ゲームセンターへ行くだの家に行くだのとテンション高めのクラスメートとは対照的に、暗い諦観が陽菜乃の胸中を支配していた。
あれから怪奇との接触頻度はそこそこあり、胸がざわついて仕方がない。何か学校側からアクションがあるわけでもないのに、怪奇たちは当たり前のように決めつけて陽菜乃のことを嗤ったり警告のサインを残しに来ていた。この学校にいる怪奇全てをコンプしそうなほど多種多様の怪奇と出くわしたことで、そろそろ慣れの境地に達そうとしていた。
先生の話が終わるとすぐに教室を後にする。今日から父が5日連続の休みに入るため、帰宅するのが楽しみだった。
上がった口角をそのままに家のドアを開ける。相変わらず弟はテレビを食い入るように見つめていた。リビングに父は見えず、手を洗って夕食の準備をする。ご飯を炊いて漬け物を作ったところで母が帰宅してきた。部屋にこもっている父をわざわざ呼び出すのは申し訳なくて自室へ上がった。
放課後には水曜の夜に向けてリハーサルを行った。怪奇調査同好会のメンバーは帰りのSHRのすぐ後に学校横の公園で集まった。御子が越谷の器に入った時の実際の動かし方を見て、問題がないことを確認した。儀式の発動タイミングと合わせるのはリハーサルではできないが、御子は必ず巻き込みが上手くいくことを保証してくれた。ちなみに御子の声は陽菜乃と越谷にしか聞こえないようだった。他の三人には猫が鳴いているようにしか聞こえないらしい。御子が猫に擬態しているのではなく、霊能力をもった人間にだけ言葉が通じるようだった。
終始浮かない顔をする陽菜乃に四人はかける言葉が見つからなかった。しかし帰る頃には家に父がいることで蒼白な表情は消え去った。慰めの言葉をもらうことなく陽菜乃は帰宅したが、下手にお道化たような薄っぺらい言葉を投げかけられたら余計に気にしていたことだろう。簡単に予習と復習を済ませてリビングへ戻るといつもの父が優しげな表情で迎えてくれた。
「休みとれたの良かったね。最近はどんな仕事してるの?」
「ああ、久々に羽を伸ばせるよ。最近はあまり売れ行きが悪くてね、あちらこちらで注目の集まりそうな記事の取り合いだよ」
「そっちもちゃんとやってるの?」
「失礼だなあ、本業だよ?真剣にやってるさ」
父にすっかり話題を躱された気がして後ろを振り返ると、母はキッチンで皿洗いをしながら音楽を聴いていた。手振りで聞いてないことを伝えても父はゆるゆると首を振るだけで、本業について喋ってくれる様子はなかった。それからは無言で並んでテレビを見た。CMのタイミングで席を立った父はこちらに手を招いた。後をついて父の部屋に入ると目隠しをされた。その状態でなにか視えるかと訊かれて、意味が分からないまま視覚以外の間隔に集中する。しかし何も変化は分からなかった。五分くらい奮闘した末に陽菜乃は観念して降参の意を示した。
「分からない。何も視えなかった」
「そうか。じゃあ教えない方がよさそうだな」
「ええっ」
何を試されたのかくらい知りたくて散々ごねると、視えることは見えることではないとだけ教えられた。腑に落ちないまま部屋を出る直前に、父の小さな独り言が耳に残った。
「ん、休みが取れてよかったなぁ」
十一月十一日。陽菜乃は憂鬱な気分で目を覚ました。恐怖や不安が潜在的に強く残っていたのか肝心な時に寝過ごせない身体を呪った。ゆっくりと支度をしていると母が何か言いたげな顔でこちらを見つめていた。どうかしたのかと聞いても口は閉じたままでゆるゆると首を振った。ご飯を食べ終わった後で「気をつけてね」と言われて、まだ出て行かないよと突っ込んだ。
こんな時に学校に行ったって何の意味があるのか本当に分からない。意に反しながらも荷物を持ってリビングを通り過ぎようとした。人の気配がして振り向くと、珍しく玄関まで弟が見送りに来てくれた。
『ねぇね……』
「行ってきます」
「待って、これ忘れ物」
家を出ようとしたら母に止められて忘れ物でもない新しいお守りを手に握らされた。まだ受験生でもないのに「学業成就」と書かれた丸い形のお守りに首を傾げていると、どたどたと慌ただしい音が聞こえてきた。寝起きらしい父まで見送りに来てくれて少し嬉しくなった。玄関に家族が揃うのは何年振りなんだろう。なんだか今日起こることが全て丸く収まる気がして、肩の力がふっと抜けた気がした。
「陽菜乃、気をつけろよ。父さん待ってるから」
「はーい、行ってきます」
見送りをしてくれた父の言葉に違和感を感じたのは校長室に向かっている時だった。てっきりまだ休みが続いているからファザコンに気づいている父からのファンサだと思っていたが、今日が陽菜乃にとっての重要な局面であることに気づいていたのかもしれない。月曜の晩に「視えるというのは目で見えるだけじゃない」と言っていたことを思い出す。怪奇が陽菜乃を見て群がってきたように父も何か異変を感じ取ったのかもしれなかった。
「いや、じゃあ学校行くの止めてくれって話だけど」
「なにか言ったかい?」
「あ、すみません。なんでもないです」
一人でノリつっこみをしていたら前を歩く校長が振り返った。話があるとかで昼休みに呼び出されて本校舎の三階を歩かされていた。校長室に入って扉を締めると、施錠された音が聞こえた。後ろを振り返ると、校長は細い目を少し見開いて反応した。
「天久さんだっけ、君は耳がいいな」
「え、そうですかね」
「いや、実は折り入って話が合ってね。実は授業態度が悪いと担任から相談が来ていて、理科分野は単位が危ういそうじゃないか。私も最初の頃は教員をしていて良く生徒に教えていたものだよ。今日は早帰りで教員の業務もすぐに終わる。放課後にまた時間をくれないか。教室で待っていてくれ」
「教室で、ですか」
「ああ。私も足腰を鍛えるためにできるだけ動こうと思ってね」
「そうですか、わかりました」
用はそれだけだと言って席に座る校長に礼をして部屋を出る。
直後、下腹部に何かが触れた感覚の後に焼けるような激痛が襲った。あまりにも突発的な疼痛にお腹を抱えて蹲る。荒い息をしながら辺りを見回すが、何が起こったのか理解できなかった。五分もすれば痛みは引いてきて、お腹に触れていた手が違和感に気づいた。制服の裾を捲り上げるとお腹に変な紋章が入っていて、真ん中からだらりと垂れた液体が紋章の一部を隠していた。そっとその場所に触れると、赤黒いどろっとした液体が指に付着した。
「ひっ……」
「陽菜乃ちゃん?ってなにそれ」
「あ、帆夏さん……なんでここに」
「立てる?少し場所変えよっか」
帆夏に連れられて階段を下りる。校長室から離れながら、帆夏は校長と歩く陽菜乃を見つけて遥か後方からつけていたのだと経緯を聞かされた。
先ほどお腹に触れた右手を見ると固まった血が黒くなっていた。消えたはずの腹部の疼痛がまだ続いているような気がして、改めて生贄という言葉が重くのしかかってくる。頭に巡る酸素が薄くなって、何度か咳をした。大丈夫だと背中をさすってくれる帆夏の手に安心して脱力する。二年の教室で、ペットボトル二本持ちの間芝から水を受け取った。改めて校長室であった事を話すと、気分も沈む嫌なおびき寄せ方だと同情された。
帆夏たちは一度は学校から出るものの、それから夜まで残ってくれると心強い言葉をもらった。五限はサボってもいいんじゃない?と帆夏が優しい言葉をかけてくれたが、陽菜乃はあえて普通にしていた方が良いと思った。名残惜しいまま、二年の教室を後にした。
放課後に教室で先生を待つこと二十分。完全下校までは時間があり、ノートに遺書でも書いておこうかなとペンを握った。死ぬ覚悟をしたわけでもないし別に死にはしないはずだが、命を吸い取られるだけのそれなりの痛みや苦しみに耐えるために、気持ちの整理をつけようと思った。書くとしたら家族宛と同好会のメンバー宛だろうか。しばらく手紙を書いていると、廊下から足音が聞こえてきた。急に警戒モードに入ってノートを閉じる。手紙は途中までしか書けていないから、もしここまでしか書けなかったとしたら何かの手違いで死んだ場合は多方面に心配をかけそうだと思った。さっきよりも小さくなったような校長は口元に笑みを浮かべてこちらに近づいてきた。近くで見ると口角が引き攣っているようにも見えた。
「いや、お待たせしたね。勉強前に糖分を取ると脳の動きが活性化するんだ。天久さんも食べるかい?」
「あ、はい。頂きます」
いくつか入ってそうな飴玉の袋を取り出した校長に、反射で手を出した。その後で何か盛られる可能性を考えた。とはいえあまり変な動きをすると怪しまれかねないため、一瞬手が動いただけに留めておいた。校長が飴玉を口に放り込む姿を見て陽菜乃も飴玉を口に含んだ。本日の授業にあった物理の教科書を取り出しながら本当に勉強させられるんだと軽くショックを受けた。陽菜乃の意識はそこで途切れた。
「警戒心の強そうな
「まあ女子高生なんてそんなものなんじゃないですかねえ」
「それもそうか」
すっかり日が落ちて夜に差し掛かった六時半に、校長は見えない何かと恐縮そうに話をしながら旧校舎の屋上に向かっていた。本校舎の一階に置いてきた女子生徒は教室の隅に手足のみを縛った状態にしていた。旧校舎しかなかった時のように生徒を連れてきていたのも、年であることや距離の負担を踏まえて、今では精霊に頼んで場所を移動させる術式を組んでもらっていた。三十分ほどで移動が完了する予定のため、儀式は予定通り十九時から始められそうだった。
屋上へ着くと、本来は黄色く輝く月が今日は赤く雅に輝いていた。月が大きく見えるのは十九時から二十時の時間で、その間に儀式は終了する。年に一度の、星を保つために自然エネルギーが膨張する日。旧校舎の屋上に女子生徒が浮かび上がると、精霊は月の光を浴びるように身体を広くした。瞬く間に人の形になった精霊はにっこりと笑って学校長を生徒の後ろへ立たせる。
儀式の始まる三秒前に彼女の意識を開放した。
目を開けると、真っ暗な空が視界いっぱいに広がった。肌に風が当たる感覚で外であると気がついた。何をしていたのかと想起する前に身体が宙に浮いた。
完全に身動きが取れないことに動揺して、遅れて目の前にいる宇宙人のような怪物を視認した。ハイライトのない瞳とヘルメットをかぶっているような頭部、辛うじて人の形をしている胴体と四肢の接続に目を見張る。強烈な存在感に脳が焼かれそうだった。思考する間もなく手足を縛る縄が締め付けられてそのまま千切れそうな程に縮んでいく。血行が正しく循環しなくなる感覚に呼吸が浅くなった。もう既に体は音を上げていた。声も出せずに浅い呼吸だけが耳に届く。
「ほう、粘るか。辛いだろう、もう楽になるといい」
感心したような声を上げる目の前の怪物は、次には無感情に言葉を発した。プチプチと聞こえる体内の音に気絶してしまいたくなった。どこからか見ているはずの御子に心から助けを願った。こんなのあと一分も持たない。先ほどから空いた腹部から何かが垂れているのが感触で分かった。目をつぶったら余計に体内を意識してしまうが、目を開けていても同じように痛いところを確認してしまうためどちらにせよ苦痛だった。こんなに苦しいならいっそ……と逡巡してしまうほどには耐え難いものだった。
『あと、十分。六十秒を十回数えた後に代えてあげるから』
『一部が縄に干渉してる。絶対千切れることはないから、あともう少し』
どこかから聞こえてきた声に驚いて視線だけを動かす。校長の姿が見えないが、精霊の話す内容で背後に立っていることは分かっていた。そろそろ二分が経つが縄の縛りは明らかにきつくなっていて脈の動きがうるさいほどにきこえてくる。まだ折り返し時間でないことに絶望した。感じたくないのに体が生きていることを無理矢理に教えてくる。生理的な涙で首元がだいぶ湿ってきていた。
「ふむ、めんどうくさいから次にいこう」
怪物が音を鳴らすと同時に、空から降った音が陽菜乃を中心に鳴り響いた。
いつの間にか集まっていた分厚い雲から電気が迸り、辺り一帯に放電した。校長にも放電したらしく、精霊は一時的に会話相手もいなくなってしまった。式陣は変わらず正常に機能しており、縄の締め付けが僅かに遅いことには気づいていなかった。
残り三分を過ぎる頃に陽菜乃は意識を取り戻した。しかし全身が麻痺しており喚く体力も残っていなかった。体は機能しなくなっていくというのに頭だけが冴えていて、ただ時間が過ぎるのを待つしかできなかった。すっかり弱ってしまった陽菜乃を、怪物が満足そうに見下ろしていた。心も擦り切れていて何かを感じることさえもできず、無感動に怪物を見つめ返した。
ぼうっとした時間が過ぎ、時間は再び動き出した。千切れて解けるはずだった縄は陽菜乃を跳ね返して背後の人間の手足に収まった。いつの間にか校長は式陣の中に入っていて、校長の周りは星となって煌めいていた。あれが御子の一部だろうか、そう思いながら自由になった手足をゆっくりと動かす。精霊も人が変わったことに驚いていたが、間もなく校長を縛る縄は溶けようとしていた。式陣は止めることができないため、精霊の意志とは無関係に校長は早くにダウンしてしまった。あまりに惨い最期に見ていられず、陽菜乃は後ろを向いた。
「何で抜け出せたのかな?ちゃんと抜かりなくやってたはずなのになぁ」
「あ、あ……」
「まあいいや。生贄はとれたし、君の力は直接貰おうかな」
「へ、っ……」
視界に急に現れた精霊に身体が強張る。お腹に強烈な痛みを感じて、今度こそ死んだと思った。
「あれ。もしかして這ってでも式陣止めなきゃいけなかった感じか。経由する人間に依存してたのに、間違えたかもしれん」
旧校舎に残った精霊は、一人呟いた後に森へと帰っていった。
一か八かで本校舎の地下である資料室に隠れていた怪奇調査同好会の四人は、おそらく平均的に終わる夜の十九時四十分に床から顔を出した。帆夏が先頭で出て行って旧校舎の様子を三階から確認したが、越谷の眼ではもう既に終わっているように見えた。旧校舎へ移動して屋上へ上がると、作戦は無事決行できたらしい痕跡がたくさん残っていて、陽菜乃も近くで倒れていた。越谷が先に駆け寄って脈を確認する。頷いて見せると四人の顔に安堵の表情が浮かんだ。四人で陽菜乃を持ち上げて休憩をしつつ旧校舎を出る。やっと校内から出た頃には二十一時を過ぎていた。
体力の限界を迎えた四人はしばらく旧校舎の隅の影で身体を投げ出していた。壁に身を預けて今と関係のない話を散々した後で、屋上に放置してきた現校長をどうするかと疑問が上がった。もう一度運び出すにはしんどいが、資料室で見た記録には死体の移動は基本精霊任せだったらしくどうすべきか迷った。正直触れたくないという意見が一致しているせいで全く進まない議論をしていると、五人のとは別の足音が聞こえてきた。
四人で身を寄せ合って息を止めていると、大人の影が伸びてきた。知らない顔と対面して、未だに意識のない陽菜乃を守るように囲む。柔和な声は陽菜乃の名前を呼んだ。
「陽菜乃。陽菜乃生きてるか。意識がないだけのようだな」
「誰ですか、陽菜乃ちゃんに触らないでください」
「僕たちは天久さんの友人です。あなたは天久さんのなんですか」
「ああ、君たちが怪奇調査同好会の人達か。自己紹介が遅れたね、天久陽菜乃の父です」
四人は、この時間に学校に侵入してくる大人が学校関係者でないことに動揺した。肝心の本人が意識不明のため信用していいものかと顔を見合わせる。四人の心境に気がついたのか、陽菜乃の父を名乗る男は鞄から紅いヘアゴムを取り出した。見覚えのある形に陽菜乃の後頭部を確認すると、全く同じものが付けられていた。
「これは僕が作ったものなんだ、怪奇除けの。僕もライアでね、ちゃんと仕事として能力を使っている。ここの後処理は任されているから、君、案内だけお願いしてもいいかな」
「越谷です。屋上まで案内します」
他の三人を家に帰してから旧校舎の屋上へ向かった。案件と思われる紙を目にしたのは今日の夕方だった。御子の変身はなんにでも変わることができるため、御子を経由した『旧校舎の屋上で、娘の代わりになった人の後処理を願う』というメッセージを受けて事件の真相を知った。屋上まで案内した越谷に礼を言って、黒い手袋をはめた。
「もし時間が大丈夫なら娘を見ていてくれないか」
「もちろんです」
「ありがとう、助かるよ」
それから陽菜乃の元へ戻ったが、彼女は未だに意識が戻らなかった。資料を読んで追体験の想像はできても、実際はそれ以上に苦痛を耐え忍んだことだろう。
一刻も早く無事を確認したくて、越谷は彼女の名前を呼び続けた。
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