帳の向こうへ


夕方五時前の旧校舎近くは静かだった。遠くで運動部の足音やボールの音が微かに聞こえる。本校舎の後ろに伸びる影は長くなっていた。


陽菜乃は旧校舎の昇降口から先日祓った地面の影の場所を確認する。前に怪奇調査同好会の五人で帰ろうとしたときのことを再現しようと、威勢よく足を踏み出した。先日見た、恐竜のようなカラスが突っ込んできた時と同じ事が起こるかもしれない不安を抱きながらも、前を見据えて印のある場所までたどり着く。カラスは出てこないままで、二歩ほどさらに歩を進めようとしたときにグラウンドから強い風が吹いた。はっとして後ろを振り返る。警戒を怠らない様子の越谷の後ろで砂埃が舞い上がっていた。変化があったのはそれだけで、元々怪奇が潜んでいた場所には何の変化も起きなかった。それからすぐに砂も落ちて、ボールの音と運動部の音が変わらず続いていた。しばらく周りを警戒してから越谷と陽菜乃は脱力する。旧校舎側で待機していた帆夏たちが遠慮がちに近寄ってきた。


「なにか収穫はあったの?」

「何も分かんなかったけど」

「おそらくだが、もうここの怪奇は本当に消えたんだろうな」


帆夏と間芝の質問に越谷が答えた。あの日二年生の三人が先に帰ってしまった日のことを簡単に話して、そのカラスが地面に突き刺さるように落ちたことできっと消えてしまったのだろうと越谷は推測した。陽菜乃も今のところ異論はなかったけれど、そもそもあのカラスと地面の影の怪奇とが繋がってない可能性もあることを補足した。

新しいテニスコートはテニス部が放課後に使っている。旧校舎から少し離れた場所に作られて、旧テニスコートは忘れられた土地と化していた。敷地の広いこの学校ではあの場所を整備するよりも別の場所にコートを引き直す方が遥かに安く簡単な作業だった。大会に出場できるような強いレベルを求めている人は隣町のクラブに所属する人が多いため、高校の部活に集まる人は気楽に部活を楽しんでいるようだった。


メモをもとに越谷の示した場所はグラウンド寄りの花壇で、テニスコートの内側にある場所だった。フェンスの内側にいくつも並んで置かれている、もう無くなってしまった園芸同好会の跡地である。陽菜乃は体育の時にも見かけない隅っこの花壇を見て首を傾げた。


「花壇って普通学校の外側――外から見えるように置いた方が見栄えがいいですよね?なぜここにしたんでしょう」

「昔は学校外の人からも視える外でやってたらしいよ。でも数年前にこの学校の前で車の衝突事故があって、その時に土やレンガによって現場が荒れてしまったんだ。だからフェンスを変えた後に花の安全のためにってこっちに避難したんだ」


藤森は一年前に園芸同好会に所属していたクラスメートから聞いた話を語った。この辺りの場所は災いを呼び起こす場所なのかと陽菜乃は唖然とした。同好会の名前はなくなってしまったけれど、代わりに二学年の中で係を決めて花に水をやったりと、今もなお育てられていた。そのおかげか、花は枯れそうで枯れていない微妙なラインで生きていた。プリムラとアガサンパスは別々の花壇に分けられていて丁寧に世話されている跡が見られた。まじまじと花壇を観察しているとフェンスの向こう側でがさがさと何かが動く音がした。


「そういや花壇じゃなくて茂みなんだっけ」

「え、ああ。この辺りとしか書いてないから具体的には分からんが」

「そのメモって越谷さんの書いたメモじゃないの?」

「これは兄が残したメモだ」


学校の敷地とすぐそこの森とがフェンスによって阻まれていて、そのまま入ることはできず、この先の場所は基本通れない場所となっていた。過去にどんな怪奇がいてどんな被害があったのかが想像もつかず様子見を始めること十五分。突如か細い声でみゃ~という声が聞こえた。警戒をしていた陽菜乃は思いもよらない相手に驚いてその場で尻もちをついた。森の中に迷い込んでしまった猫がいるようだった。陽菜乃は猫を助け出そうとする越谷たちから距離を取って遠巻きに眺めた。いつの間にか帆夏が隣に来ていて遠慮がちに訊ねられた。


「陽菜乃ちゃん猫無理なの?」

「っ……犬とか猫とか、苦手で。よくわかんなくて怖いです」

「私からしたら霊とか視える中で過ごす方がよっぽど怖いよ」

「霊は吠えないけど、犬や猫は吠えたり威嚇してくるから……怖いです」

「そうなんだ?霊の方が怖そうな音?とか声しそうだけど」


本校舎から出て行く生徒の話し声が聞こえてきた。陽菜乃は険しい顔をして猫を捕まえようと奮闘する越谷を見守りながらも体は震えていた。フェンスの向こう側にいる分には安心だけれど、捕獲した後に逃げてこっちに来たらどうしよう。引っかかれでもしたら傷ができて何か感染したりしないだろうか。野良猫なんて凶暴に違いない。人慣れしてないんだから普通の猫よりも極端に警戒するに決まっていた。

帆夏は横で納得がいかないような顔をしていたが、越谷が猫を捕まえてフェンス越しに間芝に渡しているところで猫に気がついて向こうへ行ってしまった。花壇の方でみんなに手招きされて陽菜乃も仕方なくゆっくりと猫の方へ近づいていった。そして猫から五メートル離れたところで停止した。小学生の時に猫が苦手な陽菜乃に向かって猫を突き出してけらけら笑って反応を楽しむ女子生徒のことを思い出した。


こちらは本当に怖い思いをしていると伝えても可愛がる人間にはその感覚が分からないのだろう。自分が可愛いと思うからと他人にもそれを押し付けてきて、拒否したらおかしい人だと囃し立てられる。猫を使った間接的ないじめには辟易させられた。大抵の人間は猫や犬を可愛いという。彼らも悪意なくそれをしてくるのではないかと恐れて離れていると、藤森は笑って猫を持ち上げた。びっくりして後ずさると越谷がそれを制した。


「大丈夫だよ、俺がしっかり持ってるからさ。学校の外に逃がしてくるね」

「余計なことしてないで早く行ってこい」

「はーい」


猫が好きらしい藤森は野良猫を大切そうに抱えて校門の外に出て行った。危機が去ったと息を吐くと、越谷は陽菜乃の方を見た。さっきのは配慮してくれたのだろうと感謝すると猫アレルギーなのかと聞かれた。それに帆夏が先に答えた。


「陽菜乃ちゃん猫苦手なんだって。霊よりもダメみたい」

「そうなのか。これが猫の足に絡まっていたみたいなんだ、見るか」

「えっ?」


年季が経ってボロボロになった輪ゴムだったものと丸まった紙を差し出されて怖々と受け取る。少し猫の毛がひっついていて触り心地は最悪だった。小さな紙を開くと丸い輪郭をした謎の紋章みたいなのが少し掠れてぼやけていた。紙の左下には数字で5077という青みがかった黒色の筆跡が残っていた。紺色のボールペンで書いたのだろう。


「なんですかこれ」

「その紋章、見たことあるか?」

「ないですけど。あ、これ撮ってもいいですか?」

「いいが、どこかに上げるのか」

「いえ、父に見せてみようかと」

「なるほど。それなら構わん」


片手で紙を広げて写真に収める。左下の数字には何の意味があるのか見当もつかなかった。肩をくっつけて紙を覗き込んできた帆夏は四桁の数字を見て口元に手を当てて考察し始めた。そっと左にずれると帆夏もくっついてきて文句を言おうかと思ったけれど、真面目な顔をして独り言をつぶやく彼女に怒る気力が起こらなかった。


「この四桁は日付でも西暦でもなさそうね。何かの暗証番号?口座の番号かしら。もしさっきの猫が飼い猫ならおばあちゃんの口座の暗証番号だったりするのかな。キャッシュカードさえあれば確かめられ」

「ちょっと、犯罪しようとしてません?変なこと言わないでください」

「だが、猫には首輪などはついていなかったぞ。野良猫の目つきとさほど変わらなかったし、飼い猫が迷い込んだようには見えなかったな」


何かに使えるかは分からないが、ひとまずその紙は保管することになった。他には怪奇らしきものは見当たらなかったため今日の活動はここでお開きとなった。藤森が見当たらないまま校門を出ると学校のすぐ横にある小さな公園で猫と遊んでいた。信じられないものを見るような陽菜乃の視線を受けて藤森はショックを受けていた。どうやっても乗り越えられない壁もあるよねと帆夏たちに慰められながら駅まで一緒に歩いて行った。

道中に、まだ完全に暗くはなっていないけれど道路からモグラのように出てくる子どもを見つけた。その話を振ると、間芝は見えないけどその場所だけ違和感がある感じがすると言った。凸凹してるような、できるだけ通ることをためらうような道に見えるらしかった。帆夏は何も感じないらしく二者の話どちらにも渋い顔をしていた。今日は雲が大きく、前に広がる雲がアイスクリームみたいだと呟くと、帆夏もそれ思った!と賛同してくれた。後ろを歩く二人は、マイクに見える、ゲーム中に貰えるダイヤの形に見えると答えていた。雲の形は変幻自在だからその話一つで盛り上がることができるという話で盛り上がった。



駅に着いてみんなと別れると、陽菜乃は一人来た道を戻った。案外この時間も悪くない。満ち足りた気持ちで家のドアを開けてリビングを通ると弟はいつものようにテレビにひっついていた。新しく始まったバラエティにお気に入りのタレントを見つけたらしい。同好会に入ってからは弟は学校にも来なくなり帰ってからも見向きもしなくなった。分かりやすく心配がかかっていないことに安心して自室へ戻る。高校は定期テストと期末テストの二つが前期の成績に関わる。定期テストは二週間を切っていて、さすがに勉強をしようと机に向かうこと一時間。ストップウォッチの音が鳴って、問題集から目を離すとスマホに通知が来ていた。連絡を交換したままだった帆夏からチャットが来ていて、身構えながらも通知をタップする。チャット画面にはお知らせの調子でメッセージが来ていた。


『明後日からは同好会活動なしで、任意でテスト勉強会になりました!いえーい!陽菜乃ちゃんも良かったら来てね!教室で待ってるよ!』


「テスト勉強会……」


他人事のようにメッセージを返してベッドに寝転がる。果たして勉強会になるのか雑談会になるのか不安なところだった。一人で黙々と勉強をするのが性に合っているのもあって行かなくてもいいかなと思う反面、赤点を取りそうな教科が三つくらいあって正直困っている。誰かに助けてもらえる機会があるなら行っておくべきな気がするけれど雑談時間になって時間が溶けてしまうのはもっと嫌だった。


翌日授業を受けながらメリットとデメリットを冷静に分析していると何か音がした。連続的に聞こえる軽い木材のような音に反射的に窓のほうを見ると、下駄を履いた男の子が足が上の状態で浮いていた。手にはヨーヨーをもっており、夏祭りに行けなかった男の子の霊だと察する。重力を無視して手に戻ったり離れたりするヨーヨーの動きが謎にツボに入ってしまって、必死に口角を沈めようと目をつむって格闘する。本当に勘弁してくれ。そんな陽菜乃の心中に気づかない先生は陽菜乃の座る席の列の一番前の子を指した。時計を見ると授業が終わるまであと十五分もあった。どうか当たりませんようにと祈りながら教科書とヨーヨーに視線が行き来する。大体二分間隔で当てられていく様子に自分が当たるであろう問題を解く。ささっと解を出してから窓の方に視線をやると、男の子の顔がこちらを向いていて死んだ目と目が合ってしまった。だんだん上に行くタイプだとは思いも寄らなくて驚いたけれど多分こんな顔だろうなと予測はついていたから、心臓が喉から出るすんでのところで止まっていた。


「天久、問二の五番」

「え、はい。エックス足す三の二乗」

「はい、この三は~」


なんとか修羅場を乗り切って大きく息を吐く。殺されるのかと思った。授業が終わって改めて窓を見るとそこにはいなくて窓の上の方を見るとまた目が合った。に、とかいう声が聞こえたのでこれ以上は見ないでおくことにする。昼休みになると同じ班の男子に声をかけられた。堂々としていて自分に自信のあるタイプの人で、もっと仲良くなりたいと言われてしまった。陽菜乃もまた品のある女子ではないため簡潔に興味がないと伝えておいた。



同好会の教室に入ると越谷だけが座って待っていた。陽菜乃は日に日に帰りのHR後の教室を出る時間が早くなっている自覚があった。自分の席に着いて課題を取り出す。勉強に取り掛かろうとしたところで越谷に声をかけられた。変なのが窓にいなかったかと聞かれて、あの下駄の男の子がフラッシュバックした。一度目が合った時に「さん」と言ったらしい。陽菜乃も越谷も一組であったことからやはり真上に上がって行っていたのだと納得した。

お互いにエピソードを共有していると二年生三人もすぐに揃った。中間テスト前の最後の活動はプールサイドの怪奇調査となった。プールの授業は数年前に廃止されたらしく、夏休みだけ開放する形に変わっていた。まだこの学校のプールを見たことがなく期待を膨らませながら帆夏の背について行った。一般的なプールは二十五メートルの長さがある。レーンも四つから五つあるらしく広いプールを想像していた。しかしついて行った先の階段を上がると思ったよりちんまりとした印象を受けた。プールの大きさは規定通りだと思うがプールサイドの地面の幅が思ったより広いため不思議とそこまで大きくは見えなかった。


「ああ、あれだな」

「ほんとだ、いますね」


越谷が指をさした旧テニスコート側の左側にオーラの強い怪奇が体育座りで居座っていた。不自然に風に煽られるようにしてすぐそばの木々が揺れている。怪奇が座っている場所だけ薄暗くて近づきにくそうな雰囲気があった。人の形をした怪奇は帽子を深くかぶっていて全てが黒く染まりきっていた。注意深く観察していると、ハンカチが浮いてると指摘した間芝に二人は揃って後ろを振りむいた。


「視えるんですか」

「なにっ」


確かにその女子か男子か区別のつかない怪奇はハンカチをもっていた。どういうタイプか分からないからとちょっかいをかけようとする越谷を慌てて間芝と二人がかりで止める。嫌な予感がすると越谷を収めて、旧校舎横の更衣室の屋根を見た。山部分の小さな穴の開いたところにたむろする小さな霊たちを視認して右手を振ると、その霊たちは霧散した。再度プールの端の怪奇を確認すると格の強さを右手にひしひしと感じた。


「これは私では祓えないです。危ないので軽く調査したら退散しましょう」


視える二人を先陣に二手に分かれて怪奇を囲む二辺から周りを観察する。陽菜乃と帆夏、藤森はテニスコートと隣接する奥から下方を確認する。隣からボイチェンとリバーブが強くかかった声が聞こえてきた。なんて言っているのかは分からないので無視して手すりや床など見落としがないか細かく見ていった。一メートルの間隔で担当を分けていたが誰も変なところはなかったらしい。左目でそっと怪奇を盗み見ると怪奇のいる所だけ空気が異様に乾燥していることに気づく。何でもない風を装って腕を伸ばすついでに左へ体を傾けると静かな声で嗚咽のような発声をしていた。視線だけ森の方を見るとカラスが五羽くらい並列してこちらを見ていた。


「こっちは何もないです。越谷さんの方どうですか」

「何もないかもしれん」

「天久さん、あのカラスって……」

「暑いんで水飲みたいです。降りましょう」


藤森が余計なことを喋りそうになったため話を遮り、プールサイドから降りる指示を出した。陽菜乃たちがその場から離れると怪奇の嗚咽がぴたりとやんだ。プールから降りて水分補給をしながらそのまま帰宅となった。成果が得られないと落ち込む越谷を間芝と藤森が適当に慰める。門を出てから帆夏は遠慮がちに口を挟んだ。


「そもそも、お兄さんってどうやって亡くなったの?怪奇が関わってるって言いきれるの?」

「……自殺だったんだ。でも遺書はなくて、学校から帰ってきた俺が第一発見者だった。両親は共働きで、どのみち俺が初めに見つけるように昼に首を絞めたんだと思う。兄が思い悩むようなことは怪奇以外に他ならないと思ったんだ。成績は優秀で運動だってできる。友達や後輩にも恵まれていて、学校は楽しいと言っていたからな」

「家庭環境は良かったんですか」

「うーん、良いかと聞かれると微妙だが悪くはなかった」


ヒントと言えばそれこそ部屋にありそうなのではという藤森の発言に越谷は眉根を寄せた。本は全部ひっくり返して棚も動かしたがなにもなかったと肩を落とす彼にどう声をかければいいか分からなかった。暗い話題に静まり返ってしまった空気を換えようと間芝がテストの話に切り替えた。

今日は雲が多く、太陽はどこにあるかわからなくなっていた。


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