エピソード32


午後の西日が差し込む、旧校舎の一室。


かつて教室だったその空間は、今では地域の会合に使われる集会所となっていた。

埃をかぶった教壇の脇に、柴田が静かに立っている。


ドアが開き、息子の紀彦が顔をのぞかせた。


「父さん、待たせたね」

「いや、ちょうど来たところだよ」


柴田は表情を変えぬまま、椅子を指さす。


「……ここ、まだ残ってたんだね」

「お前が小学生だった頃、この部屋でよく居残りしてたからな。ふふ……懐かしいよ」


一瞬、親子のあいだに柔らかい空気が流れる。


だが紀彦は、すぐに書類の入った封筒を鞄から取り出し、テーブルに置いた。


「家のこと……そろそろ片づけようと思ってる」

「やはり……売るつもりか」

「あぁ。母さんももういないし、父さんにも真剣に考えてほしい」


柴田は黙したまま、窓の外に目をやる。

差し込む光が、宙を舞う埃をゆるやかに照らしている。


壁際には、長年使われていないアップライトピアノ。

蓋の上には、一冊の楽譜が置かれたままだった。


紀彦の視線が、黒板向かいの掲示板へと向く。

色褪せた写真が何枚か貼られ、その中に一枚だけ、戦闘機のような飛行機の写真が混じっていた。


「……これ、昔の飛行機?」

「ここは廃校になってしまったが、もともと戦時中からあったんだよ。古い歴史を持つ校舎なんだ。……だが、時代は残酷だね」


その言葉の終わりと同時に、ピアノの上のメトロノームが――


カチ、カチ、カチ……


誰も触れていないのに、勝手にリズムを刻み始めた。


「え……今、誰か……?」


紀彦が声を上げる。

だが、部屋にはふたりきり。


空気が変わった。

冷気とも違う、まるで“思い出”そのものが揺れ出したような気配――。


柴田の視線が、ゆっくりとピアノの前へと向けられる。


「……みんな、学校が楽しみだったんだ」


その声が誰に向けたものなのか、一瞬、紀彦にはわからなかった。


だが柴田の目には、教壇の前に“誰か”が立っているようだった。


紀彦が、恐る恐るピアノへ近づく。


開いたままの楽譜のページに、鉛筆で書き込まれた震える字。


――イ・ロ・ハ


子どものような、柔らかい筆跡。


ふと、窓の外を風がすり抜ける。


メトロノームが一瞬だけ、大きく **「カチッ」** と鳴った。


―――「おにい……ちゃん……」


耳元で、かすれた声が囁かれた気がした。


紀彦は思わず振り返る。


だが、そこには誰もいない。


柴田は答えなかった。

ただその目だけが、何かを深く押し込めるように伏せられていた――。

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電・々 ― ながを電気店 ― 季埼伊利 @lazurite369

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