くらげの灯火

ためひまし

くらげの灯火

 深き深き、海の底。

 日も届かぬその幽玄の世界に、小さき一匹のくらげが、音もなく漂うておりました。名もなく、呼ぶ者もなく、ただ、淡く青白き光を灯しながら、冷たき水の流れに身を任せていたのです。

 その姿は、か細く、儚く、どこか物憂げな風情を帯びており、見る者の心に、得も言われぬ寂しさを残すものでした。

 この海には、同じくくらげの類が無数に棲みついておりましたが、彼の光はひときわ弱々しく、つねに群れを離れ、一匹静かに在りつづけていたのでございます。

 時折、物好きな魚どもが物音ひとつ立てぬように近づいて来ては、彼の灯りの頼りなさに、ふとあきれて、やがて離れて行くのでありました。

 すれ違う魚たちは口々に嘲笑を洩らし、「あれほどの灯では、喰う価値もなし」と冷笑するのでありました。されど、くらげは怒りもしなければ、悲しむことも致しません。

 ただ、黙して漂い、己が灯の淡き揺らめきだけを、じっと見つめていたのでございます。

 その夜のこと。海の上に広がる空は、珍しく雲ひとつなく、満月が水面に大きな円を描いておりました。くらげはふと、ふだんは見向きもせぬ水面を仰ぎ見ました。そこは、彼にとって危険な世界でございました。魚も、波も、光も、すべてがあまりにまばゆく、身に余る世界でございます。

 しかしながら、そのときばかりは、なぜか恐ろしくはなかった。どこか遠く、名もなき呼び声が聴こえたように思われたのでございます。月の光は、海の揺らめく鏡に映り、ほのかに波を打っておりました。

 その光を追うかのように、くらげはゆっくりと、水面へと泳ぎ出したのでございます。

 幾重にも重なりし水の層を破るように、重力に抗うごとく。やがて水面ぎりぎりまで昇りしとき、彼は見たのでございます。空に浮かぶ、まるい銀の星。かくも大いなる光が、この世界にあったとは。小さきその身で、ただ、ひたすらに見とれておりました。

 水面に浮かぶ月を目にしてより、くらげの心は静かに、しかし確かに変わりはじめたのでございます。それは、憧れと呼ぶほかない心の芽生えでございました。己に備わらぬものに心惹かれ、触れ得ぬものを慕い、近づきたいと願う――そのような温かき渇きでございました。

 月の光は、あまりに遠く、あまりに届かず、それでも優しうございました。何も言わず、何も求めず、ただ海の上にあって輝きつづけておりました。その光は、くらげの弱き灯を否定することなく、むしろ同じように青く、冷たく、それでいて不思議に温もりを感じさせるものでございました。

 「我も、あの大いなる光のようでありたい」

 群れに笑われようとも、光が弱くとも、いつか誰かの目に映るような、まばゆさを伴わずとも、心をそっと照らすような、そんな光に。

 くらげは、その夜、初めて己に願いを抱いたのでございました。それよりというもの、くらげは夜ごと、月の光を目指し水面へと向かうようになりました。ふわり、ふわりと身を揺らし、少しずつ少しずつ、月光の射す方へと泳いだのでございます。

 けれど、その道は決して平易なものではございませんでした。深き海に生きるものにとって、上へと向かうことは危険を伴い、また意味のない行いともされていたのでございます。

 「そんなところへ行っても、喰われるだけだ」

 「どうせ届くものか」

 「無駄なことはよせ」

 仲間たちは冷ややかに笑い、あざける声が泡のように海中に消えていきました。

 されど、くらげは決してあきらめません。誰かに認められたいわけでもございません。ただ、あの月のようにありたかったのでございます。誰の目にも映らぬとも、まばゆさを持たぬとも、遠くよりそっと誰かを照らすような存在に。

 冷たき流れに押し戻されようとも、くらげは静かに、夜ごと、同じ方角へと身を漂わせておりました。その姿は、あまりに儚く、しかし揺るぎなく、胸を打つものがあったのでございます。

 ある晩のこと。くらげは水面近くにて、迷いし小魚の子と出逢うたのでございます。深き海の流れに巻かれ、行き場を失い、寒さに震えるその小さき魚の子は、あたりに何も見えぬ暗闇のなか、ただ心細く身を震わせておりました。

 くらげは迷わず近づき、そっとその身に灯をともしたのでございます。青白き淡い光が、静けさのなかに小さな輪を描きました。魚の子は、ふっと目を見開き、ほのかな声で「……あたたかい」とつぶやきました。

 ほんのひととき、くらげの光が道しるべとなり、海の底にほのかな希望を灯したのでございます。ほどなくして、魚の親たちがその子を探し当て、群れへと迎え入れました。去り際、魚の子は振り返り、小さな声で申しました。

 「ありがとう、名残光のくらげさん」

 その言葉を聞いたとき、くらげは己の灯が、かすかに、されど確かに強くなった気がいたしました。月のようにはなれずとも、自らの光が誰かのなかに残ることを、初めて知った夜でございました。

 やがて、ある夜のこと。海はひときわざわつき、波は高く、空の雲は重たく垂れ込め、風は遠くで呻きを上げておりました。くらげは、深き底より見上げ、海の異変を肌で感じておりました。

 すれ違う魚のひとりが告げました。

 「今日はやめておけ。上は荒れている。おまえのような小さな体では、流されてしまうぞ」と。

 けれども、くらげの目はすでに、水面のさらにその上にある、雲間にかすかに覗く月をとらえていたのでございます。揺れて、にじんで、それでもなお確かに光を放つその月に、心は動かされておりました。

 「嵐の中でも、月はそこにある」

 くらげは、もはや迷いませんでした。恐ろしくないわけではございません。されど、己が灯があの光を見つめてきた日々を思えば、いま一度、あの光に会わねばならぬと心に決めておりました。

 ゆらり、ゆらりと、暗く重たい水を押し分けるように、くらげは水面へと昇ってまいりました。

 波は荒れ、風は吠え、海は牙をむいておりました。くらげは小さな体をふるわせながら、必死に水面を目指し、やがてそこへたどり着いたのでございます。

 そのとき、空より白き小さきものが落ちてまいりました。それは、人間の子どもでございました。

 風にあおられ、小舟から投げ出されたのでございましょう。子どもは声を上げることもできず、波にのまれ、深く沈みかけておりました。小さな手が水をかこうとするたび、なおさら深みへと引き込まれてゆくのでございます。

 くらげは迷わず向かいました。恐ろしき流れも、裂けるような冷たさも、いまは関わりございません。あの子の命が、いまここで失われようとしている。それだけが、すべてでございました。

 くらげは、体のすべてを使うようにして、強く光を放ったのでございます。これまでにないほどの輝きで、これまでにないほどの必死さで。

 闇の海に、一本の光の道が生まれました。淡く青き筋が、揺れながらも真っ直ぐに、子どもへと伸びてゆきました。その光は、闇を裂くようにして水中に差し込み、まるで、ここであると叫ぶようでございました。

 船の上にいた人々は、その光に気づきました。

 「見ろ、海の中で、何かが光っている」と、ひとりが叫びました。

 サーチライトが光の先を追い、水中の小さな影を映しました。男は飛び込み、必死に腕を伸ばしました。やがて、子どもが引き上げられたのでございます。まだ息がありました。

 甲板の上で泣きじゃくる子どもの姿に、人々は深く安堵の息をつきました。されど、誰も気づいてはおりませんでした。その光を、誰が灯したのかを。

 光の源は、すでに深く、静かに沈みはじめていたのでございます。

 救いの瞬間を見届けたのち、くらげの体からは、ぽつり、ぽつりと光が抜けてゆきました。

 ふわり、ふわりと漂うたびに、そのかすかな輝きは水に溶けてゆき、やがてその身は、ただの透明な殻のようになっていったのでございます。

 けれども、くらげは満ち足りておりました。自らの灯が、ひとたびでも誰かの命を救ったこと。その事実が、広い海のどこかに、確かに己が在った証を残すものだと、深いところで静かに感じていたのでございます。

 痛みはございませんでした。ただ、力が抜けていくような感覚が、どこまでも続いておりました。

 水は静かで、波の音も遠く、深い深い夢のなかに沈んでいくようでございました。

 そのとき、ふと脳裏に月の姿が浮かびました。あの夜、初めて見上げた、銀色に澄むやさしき光。

 「もう一度、あれを見たい」

 そう願いながら、くらげはゆっくりと、深海へと沈んでいったのでございます。

 嵐の過ぎ去りし翌朝、海は何事もなかったかのように、静けさを湛えておりました。人々は子どもが無事であったことに安堵し、それぞれの日常へと戻ってゆきました。けれども、誰も知らぬことがひとつございました。

 夜ごと、海の一部が、かすかに光るようになったのでございます。波に揺られ、浮かんでは消える淡き青。まるで、誰かの吐息のように、静かに、やさしく繰り返されておりました。

 魚たちはその光に驚き、やがてその場所に集うようになりました。

 「なぜだか、落ち着く」と、彼らは口々に申しました。

 誰も知らぬままでございました。かつて、その光が、一匹の名もなきくらげによって灯されたことを。

 されど、その光は、誰かの記憶の奥深くに、ほんのわずかな温かさとして息づいておりました。姿を失い、名も残さずとも、確かにそこに在りつづける光。それは、夜ごと海をそっと撫でておりました。


 季節はめぐり、海には新たな命が生まれておりました。

 ある夜、またひとつ、小さきくらげがふと水面を見上げました。そこには、変わらず月が浮かんでおりました。白く、まるく、やさしく、どこか懐かしげに輝いておりました。

 まだ何も知らぬその小さな命も、なぜだか惹かれるように、ふらりと泳ぎ出しました。かすかな潮の流れに乗り、かつて名もなきくらげが眠った場所へと近づくと、そこにはそっと青い光が揺れておりました。

 まるで、ようこそと囁くような合図でございました。

 新たなくらげは、その灯に戸惑いながらも、やがてそっと身を寄せました。すると、体の奥底から、かすかな青い光が生まれたのでございます。まだ弱く、頼りない灯ではありましたが、それは確かにあたたかいものでございました。

 その光は、誰に褒められることもなく、誰に気づかれることも少なかった。されど、その灯は、冷たき海のなかで、ぽつりと息をしておりました。それだけで、十分だったのでございます。

 誰かを救うためでも、認められるためでもない。ただ、生きているということ。

 それだけが、灯を灯す理由になることがある。新しきくらげは、まだ言葉にすることは叶わずとも、どこかでそれを知っているように見えました。

 その夜、月はことさらにやさしき光をたたえておりました。光が海を撫で、波が静かに囁きました。

 おかえり――くらげの灯。

 海は今日も深く、静かで、やさしきままでございました。

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