一神教 アクナテンの革命

あきちか

第1話 神託

 紀元前1569年ごろ、テーベのイアフメス1世王がヒクソス朝を倒して始まったエジプト第18王朝は、ハトシェプスト女王、トトメス3世王のころから最盛期を迎え始めた。紀元前1410年、アメンヘテプ3世王の時代、その支配領土はエジプト王朝史上最大規模となる。


 第18王朝の歴代ファラオは、国家神アメン・ラーを称え、莫大な黄金や土地や神殿を寄進する一方で、王族同士の権力争いにアメン神官団の権威を利用した。そのためアメン神官団は巨万の富を得、王権を凌ぐほどの権力を手に入れた。


 王妃ティイがアメンヘテプ3世と結婚したとき、エジプトは王家とアメン神官団の権力の二重構造が出来上がり、アメン神官団の政治や王権に対する過剰な干渉や介入がピークに達しつつあった。しかも、王族同士で血で血を洗う権力闘争が行われ、王宮はいつも謀略や暗殺で渦巻いていた。


 そんな時、王権を継いだ若きアメンヘテプ4世アクナテンは理想を掲げ、人類史上初と言われる一神教による革命を断行するのだが……。

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 夜明け前、星々が天空に美しく煌めく頃、王妃ティイはうっすらと目を開けた。目を覚ましたと言うより、眠れない夜をうとうとしながら過ごしたのだ。


 ティイの傍には、昨夜の祝宴で上物のワインを飲み過ぎた、ファラオ、アメンヘテプ三世が、肥満した大きなお腹をゆっくり上下させながら心地よさそうに眠っている。


  昨夜はミタンニ王国の使節団を歓迎する祝宴だった。


 莫大な黄金や軍事援助と引き替えにミタンニの王女を側室として迎えることが決まったのだ。


 これまでにもエジプトの友好国や同盟国からこうした王女の輿入れは幾度もあった。だが、ティイにとって今回の輿入れは、彼女に女としての激しい焦りや至らなさのようなものを強く感じさせた。


 さすがのティイも王の寵愛を一身に受けるにはもう若くはないと重々承知していたのだが、いまだ世継ぎとなる王子を授からないことが彼女をひどく憂鬱な気分にさせていた。


 ティイは夫を起こさないように静かに起き上がり、蝉の羽根のように肌が透けて見える薄い肌着を一枚身に纏い、ベッドルームから静かにでた。


 すぐに控えていたヌビア人の女召使いたちがティイに駆け寄り着替えを手伝う。ティイは急いで身繕いを済ませ、秘密の通路を使って王宮の外へ走った。


 人目につかないように用心深く、特にアメンの神官たちに見つからないように、マルカタの王宮を出たのだ。


 ファラオに次ぐ、むしろファラオよりも権力を握る王妃ティイが、単独でこのような危険な行動を取るのは、余程思い詰めてのことだった。


 王宮を出たティイは密かに待たせていた船に乗り、


「急いで!」


 すぐに執事サフテに命じた。


「かしこまりました」


 サフテの合図で、ティイを乗せた船は、星が瞬く空の下を、深く潜るように静かにナイルを下りはじめた。


 ティイは唇をかたく結び前を見つめた。


 うっすら白みはじめた東の空は刻々と変化している。


 何としても日が昇る前に目的の神殿に着かねばならなかった。




 紀元前千五百六十九年ごろ、テーベのイアフメス一世王がヒクソス朝を倒して始まったエジプト第十八王朝は、ハトシェプスト女王、トトメス三世王のころから最盛期を迎え始めた。そしてついに、紀元前千四百十年、アメンヘテプ三世王の時代、その支配領土はエジプト王朝史上最大規模となる。


 アメン神はそれまでテーベの一地方神にすぎなかったが、帝国の繁栄に伴い、エジプトに勝利と栄華をもたらす神として崇められ、太陽神ラーと習合、アメン・ラーとして国家神にまで高められたのだ。


 


 第十八王朝の歴代ファラオは、国家神アメン・ラーを称え、莫大な黄金や土地や神殿などを寄進する一方で、王族同士の権力争いにアメン神官団の権威を利用した。そのためアメン神官団は巨万の富を得、王権を凌ぐほどの権力を手にする。


 ティイがアメンヘテプ三世と結婚したとき、エジプトは王家とアメン神官団の権力の二重構造が出来上がり、アメン神官団の政治や王権に対する過剰な干渉や介入がピークに達しつつあった。しかも、王族同士で血で血を洗うような権力闘争が行われていたので、王宮はいつも謀略や暗殺で渦巻いていた。


 


 アメンヘテプ三世は信仰心の厚いファラオだったので、アメン信仰の総本山であるテーベ神殿の増改築やカルナク神殿の巨大な第三塔門の建造などの莫大な寄進を続けた。


 ところがアメン神官団の横暴はエスカレートするばかりだったので、激怒したアメンヘテプ三世は、神官団を牽制するため、父、トトメス四世から王家で崇められていた太陽神アテンを、アメン神に対抗する神として崇拝しはじめた。




 さらにアメンヘテプ三世は、アメン神官らを政治から遠ざけるため、テーベ対岸のマルカタに王宮を築き、王妃ティイと共にそこで政治を執り行った。


 こうして王家とアメン神官団との亀裂は日増しに深まり、激しく対立するようになるのだが、やがて権力闘争に嫌気がさしたアメンヘテプ三世は政治から次第に離れ、遊興や女道楽に現を抜かすようになってしまった。


 


 王妃ティイは、ファラオ、アメンヘテプ三世がどんなに側女を持っても笑顔を絶やすことはなかった。しかし、民の暮らしぶりに心をくばり、政治や学問芸術にも明るく、強い意思と、自分の考えをしっかり持っているティイは、決して弱い王妃ではなかった。


 王が国政から遠ざかる一方、王妃ティイは、数々の政治的手腕と権謀術数で徐々にアメン神官団の力を削ぐことに成功。王権を再び王家に取り戻した。


 こうしてティイはファラオと並ぶ、いや、それ以上の権力を握ることになったのだ。


 


 アメン神官団を牽制することに成功した王妃ティイだったが、ティイと国王の間には王位を継ぐべき王子がいなかった。ティイはもう若くなかった。


(もし王子が生まれなかったら、それを一番望んでいるのはアメンの神官たちではないか。男の子に恵まれないのはアメンの神官達が呪術をかけているからに違いない。このまま世継ぎに恵まれなかったら、いや、むしろそうなることをアメンの神官たちは願っているのだ)


 極度の不安と猜疑心がティイを苦しめ、王妃は神におすがりすることにした。


(神が望みを叶えて下さるのなら、我が子を神の子として差しだしてもかまわない)


 そう決意したティイは、男子を授かったなら、王子が神職に就いてもかまわないとさえ思った。男子を授かることはティイの切実なる願いだったのだ。


 


 ティイが思索に耽っていると急に声がした。


「王妃さま、着きました」


 ティイはサフテの声で我に返るとすぐに船を止めさせゆっくり降りた。


 船はナイルから一時間ほど北へ下ったところの西岸から、陸にひかれた人工の水路を通り、山々の狭間にある秘密の神殿の入り口に着いた。


「ここで待っていなさい」


 そうサフテに命じ、ティイは一人で神殿に向かって歩いた。




 小高い山の裾野にその神殿は鎮座していた。


 周囲を大人の背丈ほどのアカシア材の塀で取り囲まれている。


 ティイが正面の門を通り抜けると、すぐ左斜め前に綺麗な水を張った御手洗い場があった。


 ティイはそこで手を洗い口すすぐと、神殿の正面まで伸びている石畳をゆっくり歩いた。


 神殿の正面に着いたところで、ティイを神官らが出迎える。


 神官らは高さ十メートルほどの、金色に輝く神殿本堂の扉を静かに開いた。


「あ……」


 神殿に閉じ込められていたフランキンセンスの香しい香りが辺りに広がる。


 ティイは、ゆっくり、大きく息を吸う。


 張り詰めたティイの心が心地よさで緩んだ。


「ありがとう」


 ティイは大司祭と神官らに導かれ、神殿の中へと足を踏み入れた。


 


 本堂の中は壁も天井も床も燭台でさえも、全てが黄金に輝き、沢山の燭台に明かりが灯されている。


 古代エジプトの神殿は、どの神殿もそうだが、奥に行くに従って暗くなるようにわざと設計されていた。それは神殿の神秘性を増し、神殿の威厳を高め、延いては神官の権威を高めるための演出だったのだ。ところがこの神殿は黄金で明るく彩られ、しかもエジプトのどの神殿にも見られるようなエジプトの神々の派手な色彩の絵やレリーフや石像は一切なかった。


 ティイが本堂の最も奥までやって来ると、香壇が設けられ白い煙が揺らいでいた。香壇の向こう側は少し高い壇になって石段を数歩上がると垂れ幕を隔てたところに至聖所と呼ばれる一辺がおよそ八・七四メーターとする立方体の空間がある。


 至聖所は神を祀る所なのでたとえエジプトの王妃であっても入ることは出来ないのだが。


「神に祈りたいのです」


 ティイは大司祭に至聖所に入る許可を求めた。


「よくお越し下さりました」


 大司祭は恭しく頭を下げティイを至聖所へ通した。


 ティイが一人で至聖所の中に入ると、高さ十キュビト、翼の長さが五キュビトのケルビムと呼ばれる智天使の二位の黄金像が部屋の最も奥の左右にそれぞれ立ち、美しい翼を大きく広げて彼女を見下ろしていた。部屋の中央には黄金で作られた箱があり、箱の中にはアブラハムが神と契約を交わした石版が納めれていると言われていた。


 箱の蓋には石版を守るように二位の智天使ケルビムの金細工が乗せられ、箱の側面には王家の聖なるシンボルである日輪の丸い紋章が刻まれている。その丸い紋章が菊の花に似ていることから十六菊花紋とも呼ばれ、エジプト王家が、エジプト文明より遙か数千年以上も大昔に栄えたメソポタミアのシュメール王家の出自であることを物語っていた。何故ならその家紋を使うことが許されたのはシュメール王家に限られていたからだ。




 ティイはアメンヘテプ三世が即位する前の十歳のころ王子に見初められ結婚した。王家に仕える大富豪の家柄とはいえ、平民だったティイが大帝国の王妃になれたのは王子だったアメンヘテプ三世がティイをとても愛していたからだと言われた。実際、二人は幼い頃からとても仲が良く、ティイの実家が近いアフミームの避暑地で一緒によく遊んだ。


 王子はティイに会う度に「いつか君と結婚して王妃にしてあげるから」と言っていた。二人は愛情によって結ばれた結婚をしたと噂された。


 ところがこの結婚の背後には大きな意図が隠されていた。二人の出会いは明らかに仕組まれたものであり、綿密に計画された出会いだったのだ。


 ティイの両親であるイウヤとチュウヤの祖先は、異民族であるヒクソスがエジプトを支配していたヒクソス王朝時代にカナンの地からエジプトに入植してきたヘブライ人だった。ヒクソスと同じセム系の民族と言われるヘブライ人。そのヘブライ人であるヨセフがヒクソス朝のファラオに厚遇され宰相にまで登り詰めた時代だった。ヨセフの両親ヤコブや、ラケルなど兄弟家族をはじめとする多くのヘブライ人がこの時代、下エジプトの北部デルタ地域ゴジェンにファラオから土地を与えられ移住した。


 こうしてヒクソス統治下のエジプトに入植してきたヘブライ人たちはエジプト人より優遇され、役人になった者は高位高官に登り詰め、商業を営む者は厚遇され財を成した。ティイの祖先もそうしたヘブライ人として財を成した一族だった。


 


 ところがおよそ百年に渡るヒクソスの支配もイアフメス王を中心とするエジプト人の反撃で倒されると、帝国は再びエジプト人の手に戻りエジプト第十八王朝が打ち立てられた。するとそれまで優遇されてきたヘブライ人たちはヒクソスに荷担した民族として冷遇されたのだ。


 多くのヘブライ人が苦難に喘ぐなか、ティイの祖先はエジプト人社会に溶け込み、エジプト人と血縁関係を結びながら新しく出来た第十八王朝の中で着実に地位を築いていった。そしてティイの一族はヘブライ系エジプト人として生き残り、エジプトのヘブライ人社会と密接な関係を保ち続けていた。


 エジプト帝国の中で冷遇されていたヘブライ系の人々にとって、ヘブライ系エジプト人であるティイをアメンヘテプ三世のもとに嫁がせたことは、彼らヘブライ人たちの希望となり起死回生の光となった。その反面、エジプト人王族にとってその現実は、計り知れない脅威と屈辱をもたらすことになるのだ。




 ティイは至聖所の中に入るとすぐに跪き、胸の前で手を組んで静かに祈りはじめた。


「神さま、どうか息子を授かりますように。もし息子を授かりましたら神さまの御子として捧げます」


 ティイは固く目を瞑りひたすら神に祈り続けた。


「神さま、どうか願いを叶えて下さい」


 ティイは深い祈りのあと静かに目を開け、それからゆっくり黄金の箱を見上げた。すると箱の上に白い煙の柱が立ちこめ、目の前に光の球体が突如現れた。その瞬間、光の球体は目も眩むほどの金の輝きを放ち、光は一瞬にして至聖所を金色に満たした。


「……」


 ティイはあまりの美しさに言葉を失った。


「神様……」


 金色の光がティイの全身を包みこむと、彼女の体は雷が落ちたような激しい衝撃にのけぞり、金貼りの床に蛙のように這いつくばって動けなくなった。


 その時、どこからともなく声がした。


 光の中で神がティイに語りかけてきたのだ。


「あなたの願いを叶えてあげましょう。あなたには二人の男の子を授けます。ただし二人の子供はわたしの息子です。必ずわたしに仕える子として育てなさい」


「は、はい。二人の男の子を必ず神さまに仕える子として育てることを誓います」


 ティイは蛙のように金の床にひれ伏したまま返事をした。


「約束が守られない時、我が子をわたしの元へ呼び戻すであろう」


「必ず守ります」


「その言葉を深く胸に刻みなさい」


 ティイを包んでいた金色の光はより激しく光り輝き、ティイは金の床に這いつくばったまま意識を失った。


 数分後、意識を取り戻したティイはゆっくり身を起こし、よろめきながら至聖所から出てきた。


「王妃さま!」


 ティイのただならぬ様子にびっくりした大司祭は慌ててやって来て、王妃が倒れないように支えようとした。


「大丈夫です……」


 ティイは大司祭の手を軽く払い、彼女は自力でバランスを保った。


 その時、大きく開かれた本堂の扉から黄金色の朝日が差し込み彼女を金色の光りで包みこんだ。


 ティイは思わずその場に跪き胸の前で手を組んで深々と頭を下げた。


(神様、有り難うございます)


 朝の清らかな静寂が神殿を包み込んだ。


 それはまるで精霊達からの祝福の舞のようだった。


 王妃の一行が神殿から遠ざかると、大司祭はティイのただならぬ様子から、王妃ティイが神託を受けたのだと内心狂喜した。


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