閑話:残された者たちの独白【王太子・明照視点】
宵が宮を出て、数日が経った。
その日以来、王宮の空気は、以前とは異なる様相を呈していた。
離宮の一室は、以前にも増して静まり返っている。
嘗て微かに香の匂いが漂い、神子の祈りの気配が満ちていたはずのその場所は、今や、ただの空虚な空間と化していた。
そこにいたはずの神子の気配は、まるで最初から存在しなかったかのように、完全に消え去っている。
その喪失感は、目には見えぬものの、明照の胸に微かな影を落としていた。
明照は、執務室の窓から庭を見下ろしていた。
そこには、以前宵が静かに祈りを捧げていた小さな社がある。
今やその扉は固く閉ざされ、雪が薄く積もっている。
その白い積雪は、まるで宵の存在が、この宮から完全に塗り潰されたかのようにも見えた。
「殿下、本日の政務は滞りなく」
宰相・紫鶴の声が響いている。
いつものように平坦で、感情を読み取らせない――その声は、明照の心に何の波紋も起こさない。
「うむ」
明照は短く答えた。
政務は滞りなく進んでおり、国に混乱はない。
子を成さぬ神子を離縁し、王家の権威を守った。
それは、王太子として、正しい判断であったはずだ――理屈の上では、何一つ間違ったことはしていない。
王家の血統を重んじ、国の安定を最優先した結果である。
だが、なぜだろう――胸の奥に、微かな、しかし確かな違和感が残っていた。
それは、理屈では説明できない、得体の知れない感覚だった。
宵がいた頃も、宮は静かだった。
彼女は目立たず、声も上げず、ただひっそりと存在していた。
しかし、その静けさは、どこか重く、そして確かな『存在』の静けさであった。
まるで、静かに息づく大樹が、そこに根を張っているかのような、揺るぎない静寂。
だが今は違う。
まるで、空気が薄くなったかのような静けさ。
呼吸をするたびに、肺の奥がひんやりとする。
何かが、決定的に欠落しているような、空虚な沈黙が宮全体を覆っている。
それは、かつて宵が纏っていた、あの清らかな香の匂いが消え失せたことにも起因しているのかもしれない。
「神子の祈りは……本当に、必要なかったのか」
明照はぽつりと呟いてしまった。
しかし、その声は紫鶴には届かなかった。
いや、届いたとしても、紫鶴は何も答えなかっただろう。
彼は、神子の言葉や祈りに、最初から期待などしていなかった。
ただ、王家の血を繋ぐ『器』として、形式的に迎えたに過ぎない。
子を成さぬならば、その役目は終わり――それだけの話だ。
感情を排した、合理的な判断をしただけの事。
それが王族の務めであると、彼は信じて疑わなかった。
だが、王宮の奥に鎮座していたはずの』神殿」の扉は、宵が去って以来、なぜか以前にも増して重く感じられる。
その重さは、まるで神の沈黙を象徴しているかのようだった。
神官たちの顔には、どこか不安の色が滲んでいるようにも見えた。
彼らの表情は、以前のような自信に満ちたものではなく、何かを恐れているかのようだった。
「気のせいか……」
明照は首を振った。
王太子たる自分が、感情に流されてはならない。
それは、彼が幼い頃から叩き込まれてきた、王族としての鉄則だった。
国を護る――王家を繁栄させる。
それが己の使命であり、その使命のためならば、個人の感情など、些末なものに過ぎない。
しかし、その使命の根幹に、微かな、冷たい風が吹き始めていることを、彼はまだ知らなかった。
その風は、彼の理性では捉えきれない、不吉な予兆を孕んでいる。
その風が、やがて国全体を揺るがす嵐となることも。そして、その嵐が、彼が切り捨てた神子の存在と深く関わっていることにも、彼はまだ気づいていなかった。
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