第05話 離縁の宣告
空には厚い雲が広がり、月の光さえ届かないほどに、王宮は静まり返っていた。
闇が深まり、冷たい空気が張り詰める。
蝋燭の灯が、ほの白い揺らめきを床に落とし、その夜更けに、宵は一通の文を受け取った。
封は簡素で、差出人の名も印もない。
だが、文の書きぶりからして、誰が書いたかはすぐにわかった。
王太子である明照の筆跡だった。
――来たれ
たった、それだけ。
余計な言葉も、敬語もなかった。
まるで、用済みになった道具を呼び出すかのように、それでも宵は、従うしかなかった。
廊下は冷えていた。
燈籠の火はすでに落とされ、風が障子を揺らしている。
薄暗い廊下を、宵は薄羽織をまとい、音を立てぬように歩を進める。
その足音は、静まり返った王宮に吸い込まれていくかのようだった。
向かう先は、西の政務殿――王太子が正式な政から離れた内々の決を下す、夜の間だった。
襖の前に立った時、誰も彼女を迎えには来なかった。
宵は自らの手でそっと戸を開ける。その向こうにいたのは――三人だった。
中央に座すのは、王太子である明照。
その右手には、栗色の髪が灯りに映える側室・澪音。
そして左手、やや下座に控えるのは、宰相・
誰も声をかけなかった――ただ、灯りの影だけが薄紅の帳に揺れている。
その沈黙は、これから告げられる事柄の重さを物語っていた。
「……お呼びとあらば、参りました。」
宵は膝をつき、深く頭を下げる。
その声は、感情を押し殺したように静かだった。
王太子の表情は、あいかわらず冷たいままで、その金の瞳には、感情の色はない。
ただ、任務をこなすような、どこか疲れた光が宿っている。
宵を『人』として見ることなど、最初からなかったのかもしれない。
「宵」
名を呼ばれたのは、三年ぶりかもしれない。
けれど、そこにかつての夫婦の呼びかけのような柔らかさは微塵もなかった。
ただ、一つの報せを切り出す、無機質な声だった。
「……子を成さぬ妃は、王家の役に立たぬ」
宵の背筋が、かすかに揺れる。
しかし、顔は上げることは許されず、瞳も動かさない。
感情を悟られぬよう、彼女はただ、その言葉の続きを待った。
「今日をもって、離縁とする」
その言葉は、ひどく乾いていた。
命を切り捨てるでも、断罪するでもなく、ただ処理を終える声のようなモノだ。
まるで、不要になった書簡を破棄するかのように、何の感情も込められていなかった。
隣の澪音が、ぎゅっと膝の上の手を握りしめたのが見えた。
その指先が、白く変色するほど強く。
それを見た宵は、ふと瞼を伏せる。
彼女はこの場にいたくはなかっただろう、と。
けれど、それでもここに座っているということは――王太子を選び、その決断を受け入れた、と言う事だ。
紫鶴の目は、宵の方へは向かない。
長年王家を補佐してきたこの老宰相が、目を伏せたまま言葉を飲み込んでいる。
彼もまた、こうなると分かっていて、何もできなかったのだろう。
いや――何も、しなかったのだ。
その沈黙は、彼の無力さ、あるいは共犯者としての罪を物語っていた。
明照は続ける。
「おまえに神の加護があったのかどうか……私には、もはや分からぬ」
口調は平坦だったが、その一言は、宵の心を静かに裂いていく。
彼女の存在意義そのものを否定する、冷酷な言葉だった。
「三年。待ったつもりだ。祈らせもした。だが、何も起きなかった。国に変化はなく、子もできなかった。加護の証も、神託の兆しもない」
小さく息をついて、彼は言った。
「ただ座して祈るだけなら、誰でもできる。おまえの存在は、もはやこの国の重荷でしかない」
澪音が、震える声で口を開こうとした。
「殿下、それは……!」
けれど、それを遮るように、明照はさらに冷たく続ける。
「……この国には、もうおまえは不要だ」
一瞬の間。
その言葉が、凍てついた空気を切り裂く。そして、決定的な言葉が告げられた。
「明日の朝には、この宮を出よ」
澪音が、堪えきれずに立ち上がる。
「それは……あまりにも急すぎますわ。せめて支度の時間だけでも!」
けれど、明照はそちらを見ようともしない。
彼の視線は、すでに宵の存在を捉えていなかった。
「追い出すのが目的ではない。だが、このままここに置けば、私が王家の顔として立てなくなる。それだけだ」
「ですが、宵様は……!」
澪音の声に、明照は一度だけ、宵の方を見た。
その瞳は、感情を一切映さず、ただ冷たい光を放っていた。
「言ってみろ。おまえに、まだここにいる『意味』があるなら」
――そこに、返す言葉はなかった。
宵は、静かに立ち上がった。
衣擦れの音も、息づかいさえも、すべてを飲み込むようにして、彼女は深く一礼する。
「……お役に立てず、申し訳ありません」
その声には、涙も怒りも、何一つ含まれていなかった。
ただ、長く乾いた空洞のような静寂だけが、そこにあったのである。
背筋はまっすぐに伸びており、手は震えていなかった。
そして、その顔には、微笑みも、絶望も浮かんでいなかった。
彼女は、ただ一人の神子として、その運命を受け入れたのだ。
寧ろ、もうどうでも良かったのかもしれない。
目の前の人物たちに、何も感情と言うモノが動かなかったのだから。
澪音が何かを言いかけるが、それはもう届かない。
紫鶴は目を閉じ、無言で立ち去った。
まるですべてを忘れてしまおうとするかのように、彼の背中は、この場の冷酷さを物語っていた。
宵は、最後にもう一度、襖の方へ向き直る。
誰にも見送られることなく、そのまま扉を静かに閉じた。
その音が、どこまでも冷たく響いた。
まるで一つの物語が、誰にも知られぬまま終わったことを告げる鐘のように。
彼女が王宮を去ったことを、翌日誰が知るのか――それすら、誰にも興味はなかった。
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