第03話 王宮での孤独

 宮中において、神子という立場は――名ばかりのものだった。


 神託を告げられたとき、宵は信じていた。

 この身を通して、神託が降り、国に加護がもたらされるのだと。

 祈りを捧げれば、国は癒やされ、民は守られるのだと。

 それは、白羽の神子として生きてきた、彼女の唯一の誇りだった。


 けれど、王宮の中で宵に与えられたのは、祈りの場ではなかった。


 離宮の奥、ひっそりとした建物の一室。

 神殿のように荘厳でもなく、社のように清浄でもない。

 湿り気を帯びた床と、歪んだ欄間がどこか陰鬱な、小さな部屋だった。

 白羽山にいた頃の清浄な気配は、そこには微塵も感じられなかった。

 日が昇れば、侍女たちが形式的にやってくる。

 けれど、その態度は冷ややかだった。

 膳は、いつも冷めており、祝膳とされていたはずのあえも、温かいまま届くことはない。

 まるで、彼女の存在を軽んじるかのように。


 それを宵は、何も言わずに口にした。味は、もう感じなかった。


 神殿は、閉ざされたままだった。


 かつて白羽山では、神殿の扉は朝夕に開かれ、祈りの歌が捧げられていた。

 風の音に交じって、千歳の祝詞が、宵の耳にやさしく届いたものだった。

 だが、ここでは。神子である宵が『祈りたい』と願っても、許されることはなかった。

 祈りの場は『今は使われておりません』と言われ、神官たちは顔を伏せる。

 誰も、宵の存在に触れようとしなかった。

 まるで、彼女は見てはならないものになったかのように。

 それでも、宵は静かに日々を過ごした。

 誰にも迷惑をかけず、誰にも望まず、ただ時間の流れに身を任せる。

 夜になると、一人で部屋の隅に灯をともす。

 その灯の下で、両手を胸の前に重ね、神に向かって祈る。

 それだけが、彼女にできることだった。


 祈ることしか、教わってこなかったから。


 白羽山で感じていた『神の息吹』は、ここでは遠かった。

 山に響く鳥の声。水面に落ちる桜の花びら。

 木々の隙間を縫うようにして流れる風と、香の煙――それらすべてが、祈りと一体だった。

 けれど、この都にはそれがなかった。

 壁に囲まれた王宮には、神の気配すら感じられず、宵は孤独な祈りを捧げるしかなかった。


 ある夜――灯を落とした部屋で、宵は静かに空を見上げていた。

 格子の外に広がる夜空。そこに浮かぶ月は、白羽山で見たものと変わらないはずだった。

 けれど――やはり、どこか遠い。


「この国に……私の祈りは届いているのでしょうか……」


 自分でも驚くほど、弱い声だった。


 問いかけた相手は、誰でもなかった。

 ただの空、ただの月、ただの、夜、誰も答えない。

 答えてくれるはずもない。

 それでも、言わずにはいられなかった。

 宵の胸の奥には、時折、かつての日々が蘇る。

 千歳の声を、感じさせられる。


「宵、よく祈れましたね」


 そのように微笑む、柔らかい眼差し。

 春の祭祀。白羽山に満ちた清浄な気配。

 神子として在ることが誇りであり、祈ることが日常だった日々。

 それが、ここでは失われていた。


 祈りの言葉は、空に消えた。


 祈りの意味は、誰にも問われない。

 ただ、形式の中に沈んでいく。


 朝が来ると、また冷めた膳が運ばれる。

 何も言わずに片付けていく侍女の背中。

 膳の上に残った、冷たい白粥と、飾り気のない小皿。

 宵は、両手を膝に置いたまま、その景色を見つめていた。

 まるで、彼女が存在していないかのように。


 それでも宵は祈る。

 何も求めず、何も拒まず、ただ祈る、それしかできないから。


 それが、自分に残された、たったひとつの『存在の証』だから。

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