優しさが遅かった全ての魂へ
冒頭句 クリックひとつ
「……なんで、私が?」
届いたメールの件名は、ありふれていて、異様だった。
この度、貴殿は弊社・新規事業開発部門より開発された次世代型仮想ゲームプロジェクト《Code of: ALMA》の選出対象となりました。
ゲーム。選出。自動的に。
応募した覚えはない。
誰かの悪戯か、あるいはまた、鬱陶しい広告か。
けれどその一文だけは──引っかかった。
「現実に対し過剰なノイズを感じている場合、本プロジェクトは、一定の効果がある可能性がございます」
まるで、見られていたかのような。
観察されて、診断されて、導かれたような、そんな感覚。
光は痛く、闇は苦い。
音は喧しすぎて、静寂は叫びのようだった。
身につける衣服は肌を削り、香りは鋭利な刃となって鼻腔を刺す。
防音マットを敷き詰めた無駄のない機能的な部屋。
その片隅の作業スペース。
モニターに映し出されているのは素材データと、赤と青のガイドライン。フォントの一覧。予め設定されたプリセット。
彼女にとってデザインとは、情報を拾って、感情を捨てる作業である。
捨てた感情は、心の肥溜めに沈む。
発酵し、腐臭となって、彼女を蝕む。
夜中の2時に飛び出す激情を、キャンバスに叩きつける日もあった。
それももう、何ヶ月もない。
今は仕事で描くデザインの線だけが、滑らかに整っていく。
まるで感情の死骸のように。
──逃げたかった。
逃げる場所なんてないのに。
現実は、逃げ出した者にも律儀に迫ってくる。
逃げ足を挫き、逃げ先を涸らし、逃げ道を潰す。
死ねなかったのは、生きたいからじゃない。
ただ、生き続けることが、
自分を裏切らない唯一の手段だった。
「楽しく、ないよなあ」
独白とも独白未満ともつかぬ声が、防音マットへと静かに吸収された。
壁には提出されなかったデザイン案。
モニターには提出したデザインがそのまま残されている。
机には飲みかけの感情。
感情はぬるくなると、酸っぱくなる。
そんな彼女に届いた、一通のメール。
メール。詐欺。誘い。罠。招待状。
すべてのラベルを持ちながら、どれでもない。
彼女の理性は確かに警鐘を鳴らしていた。
どう考えても怪しい。
この度、貴殿は弊社・新規事業開発部門より開発された次世代型仮想ゲームプロジェクト《Code of: ALMA》の選出対象となりました。
選出は内部判定により自動的に行われており、選出基準およびゲーム内の一部詳細なルールは公開されておりません。
本環境では、プレイヤーの行動・選択・感情傾向が物語へ直接影響を及ぼします。
物語上のゴールは存在せず、プレイの在り方は参加者に委ねられます。
この世界では、あなたの選択がすべてを決定します。
ただし、その選択が“あなたのもの”である保証は、どこにもありません。
現実に対し過剰なノイズを感じている場合、本プロジェクトは、一定の効果がある可能性がございます。
お立ち上がりください。
まだ、突き立てる刃をお持ちであるのなら。
──通行 / 退場
本能が──そうとしか言えない何かが確かに、可能性を感じていた。
選ばれし者たちだけに許された、逃亡許可証。
そのクリックひとつが、祈りに似ていた。
意志ではなく、衝動。
衝動ではなく、事故。
事故ではなく、必然。
《通行》
彼女──魂縫ほつれのマウスが、静かに選択肢を押し込んだ。
祈るように、ただ押してしまった。
それは現実からの撤退に対する、最初で最後の通行証だった。
《デバイス発送完了》
そんな表示が浮かんだ、次の瞬間だった。
部屋中の音が、止まった。
まるで世界が、息をひそめたように。
──ピッ、と小さなインターフォンの音が鳴る。
その音すら彼女にとっては棘となり、鼓膜に突き刺さる。
遮音効果の高い耳栓なしではいられない。
肩をピクリと震わせ、モニターを確認するが、そこにはただ景色が映るだけだった。
ドアチェーンを掛けたまま、玄関を開ける。
無人。
箱だけが残されていた。
身体の小さなほつれにとって、決して小さくはないその箱を抱えて部屋へと戻る。
デスクの引き出しから使い込まれたカッターを取り出し、その刃を走らせた。
ギイイイイイイイイ────
走らせた刃は雷鳴となって彼女の身体を震わせ、顔を歪ませる。
彼女にとっては、苦虫の味の方がまだ優しかったかもしれない。
だが箱の中身を見た瞬間、その震えは別のものに変わる。
──《ALMA》専用接続デバイス。
ヘッドギア型で、決して小さくはない。
けれど、それはひとつの芸術品だった。
無駄のない曲線。鈍く光を返すカーボン素材。
冷たく、そして優しい重量。
そのすべてが、ただ一つの目的のために作られていた。
「……綺麗」
その言葉は、単なる評価ではなかった。
彼女の心から溢れた生きた感情だった。
用途は《ALMA》のプレイのみ。
説明書にも他の機能の記載は一切ない。
従来のVRデバイスが多機能な方向性へ進むなか、ただ一つの機能だけを追求していた。
だからこその、圧倒的なまでの美。
一人のクリエイターだからこそ理解できた。
これは思想の塊だ。
彼女はそっとヘッドギアを手に取る。
そのままベッドへと寝転び──装着した。
額に触れる部分に刻まれている、銀の文字。
Code of: ALMA
世界が塗りつぶされていく。
視界が、ゆっくりと、沈んでいった。
皮膚も、耳も、心も、痛くなかった。
苦しくもなかった。
彼女を刺すものは、何もなかった。
それだけで、十分だった。
肉体が剥がれ落ちていく。
音も色も気配も存在しない、虚無空間。
彼女は、魂のような形でそこに漂っていた。
それは微かに白く、淡く、少しだけ濁っていた。
まるで、削れた感情の残骸。
魂のようなものが、そこでの魂縫ほつれの姿。
やがて、その虚無の中心に、糸が生まれた。
視えないはずの空間に、一本、また一本と光のような糸が生まれ、絡まり、揺れて、
ひとつの人影を織り上げていく。
──それは女だった。
赤銅色の髪が、糸の流れのように広がっている。
肌は仄かに透き通り、瞳には過去を縫い直すような静かな光が宿っていた。
糸の女は、まるで世界そのものが作り出した裁縫道具のようだった。
無から生まれ、綻びの前に佇む。
『──ようこそ、漂流者』
その声は、音ではなかった。
皮膚に触れる風のような、体内の水が微かに震えるような、
感覚に近いものが言葉になって流れ込んできた。
『私は《ノーナ》。この世界に降り立つ魂に、仮初の肉体を縫い与える者です』
ノーナの指先から伸びた糸が、ゆっくりとほつれの魂に触れた瞬間──
痛みも音も、ひととき完全に、消えた。
静けさが、温もりに変わった。
その時、彼女は初めて知ったのかもしれない。
静寂とは恐怖ではなく、守られる感覚のことなのだと。
優しさと、どこか冷たさの残る声だった。
『私は《ノーナ》。この世界に降り立つ魂に、仮初の肉体を縫い与える者──肉体の選択と生成を、これより行います』
ノーナの周囲を漂う糸が、ほつれの魂へと伸びてくる。
視界のような感覚に、いくつかの種族の名が浮かぶ。
その感覚の中に一つの種族名が提示される。
──《天狐族》
それは感覚の極致。
聴覚、視覚、嗅覚、触覚、味覚──あらゆる感覚が研ぎ澄まされた獣人系
かつて神の使いとして魔の系譜と激しい戦いを繰り広げた。
本来獣人が持たない魔法への適性と高い俊敏性を持つ代わりに、耐久性は全種族の中で最も低い。
それはまるで、自分自身の診断結果のようだった。
『選ぶかどうかはあなたの自由です』
ノーナは言う。
『それは特殊な種族ですが、他の種族を選択することも勿論可能です。しかし適性から離れすぎた選択は今後の成長に影響を及ぼすことがございます。後から変えることは出来ない要素となっておりますので慎重にお決めください』
答えるまでもなかった。
「……天狐族、でいい」
これほどまでに、彼女を表した種族も他にあるまい。
そもそも此処には強さを求めて来たわけではない。
この種族が特別で、これが自分に合っていると言うのならばそれでよかった。
求めているものは、もっと別の──
糸が脈打つように揺れ、空間が呼吸した。
世界が納得したかのように、輪郭が変化を始める。
糸がほつれの魂へと絡み、輪郭を与えていく。
白銀色の長い髪、柔らかな狐耳とふさふさの尻尾。
細く、か細い線の四肢。
『ここではある程度肉体の外見を変更できます。しかし極端な肉体情報の書き換えは現実やこの世界での行動に支障を与える恐れがあるため、基本的には向こう側での肉体情報を基にしていただきます』
自身の視界にはアバターの細かな設定バーが表示され、スライドさせることで確かに多少の変化は起こるが、言ってしまえばナチュラルメイクのようなものだった。
密かに気にしていた身長も、ほんの数センチしか伸ばせなかった。
ほつれは小さく笑った。
「……じゃあ、しょうがない、ね」
ほつれは身バレ防止のため多少の変更をしつつ、身長のパラメータだけは目一杯伸ばした。
ほんのささやかな、抵抗。
『ここは、綻びをほどく世界ではありません。
あなたが“どう縫い直すか”を、あなたに問うための世界です』
最後の糸が、胸に触れる。
名前を与えて、と告げるように。
彼女は囁いた。
「……ルナシア」
光が脈打ち、糸が弾ける。
魂縫ほつれの刃のかたちが、いま、この世界に生まれ落ちた。
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