第三話 若者たちの堕落


2025年9月初旬。

名古屋市中区の大学生・​近藤亮(こんどうりょう/21)は、授業中もスマホを手放せなかった。

画面には《#ナゴヤ・ドリップ》《痛みゼロでトベる》というハッシュタグが躍り、フォロワー2万人超のインフルエンサー〈​Mina〉のストーリーが再生される。


> 「今日22:00、栄のクラブ〈LOOP〉で“特別なドリンク”配るよ。

> 1杯で“課題も将来の不安も”一瞬で忘れられるから♡」


アイコンの後ろには、赤い輪郭線で縁取られた白いスティック状の粉末。

コメント欄は「ほしい!」「場所教えて」と熱気に満ちていた。


亮は講義のメモを閉じ、スマホだけ握りしめて教室を飛び出した。




その頃、王建国のアパート地下室。

彼は若い手下の陳(チン)に、ペン型の小型吸入器“フェンペン”を箱詰めしていた。


「第一段階で医療を揺さぶった。次は“欲望”だ」


王は微量フェンタニルをリキッドに溶かし、ミントの香りを付けていた。

1本数百円の原価で、闇値は一気に1万円に跳ね上がる。


「配布先は?」


「大学のサークルと夜のクラブ。インフルエンサーに“報酬込み”でばら撒かせろ」


陳はうなずき、段ボール十数箱をワゴン車に積み込んだ。




22:45。栄の地下クラブは若者で埋め尽くされていた。

紫のレーザーが飛び交い、DJブースから重低音が響く。


亮はカウンターで〈​Mina〉から受け取った“ブルーライトカクテル”を一気にあおった。甘い清涼感の直後、脳の芯がトロける。


「ヤバ…最高…」


同時刻、店のトイレ前では、友人の遥が呼吸を乱し床に崩れ落ちた。

瞳孔はピンホール、口唇は紫色。客の悲鳴が響く。


通報で駆けつけた救急隊が搬送を始めたが、同様の案件が同夜だけで市内9件も重なった。



名古屋市立大学病院・救急外来。

山田医師はナロキソンの残量を確認し、顔をゆがめた。


「あと3バイアル…。高齢者分も足りていないのに」


そこへ次々と若者のストレッチャーが運び込まれる。

17歳の高校生、19歳の専門学生、22歳のフリーター。

全員が同じリキッドの匂いを漂わせていた。


「心停止! 一番奥ベッド空けろ!」


連日の超勤で看護師は泣きながら電気ショックパッドを装着した。



翌朝、東海テレビは「10代‐20代中心に《謎のドラッグ》多発」と速報し、視聴者映像としてクラブ店内のパニック動画を拡散した。

記者会見に立った名古屋市長は「実態把握に努める」と繰り返すばかり。


厚労省は“想定外”を理由にフェンタニル含有リキッドの規制手続きを進めたが、成立は国会審議待ちで数ヵ月先。


その間にも、フリマアプリには《フェンペン在庫有》《即日発送》の匿名出品が並び、購入ボタンは止まらなかった。



亮は翌日目覚めると、記憶が飛んでいた。

スマホには〈​Mina〉からのメッセージ。


> 「昨日の分、友達にも配って。次回ロット割引するね♡」


財布には現金3万円とブルーの吸入器が10本。

亮はふと実家の仕送りが滞っていることを思い出し、迷わず “転売用アカウント” を開設した。


「簡単に稼げるじゃん…」


罪悪感より、あの“幸福感”の再体験が勝った。



同じ夜。集中治療室で闘っていた田中義雄が、心静かに息を引き取った。

美咲は父の変わり果てた姿を前に、握りしめていた報告書を落とした。


《血中フェンタニル濃度 48ng/mL/死因:急性呼吸抑制》


医師から伝えられた“若者の大量搬送”のニュースが頭をよぎる。

「次は子どもたちが狙われる…!」


悲しみより、怒りがこみ上げた美咲は、父の携帯に残されていた“王建国”の連絡先を握りつぶしながら、警察への告発を決意した。



深夜0時。地下室で王建国は乾杯した。

モニターには《フェンペン》《合法リキッド》のワードが世界トレンド入りしている。


「第二段階、成功だ」


彼は陳に新たな指令を送る。


「次は高校文化祭と音楽フェスだ。若者が集まる場所へ広げろ」


名古屋の街は、静かに、しかし確実に深い奈落へと落ちていく。


―第三話 終―


次回予告:「家族という盾の崩壊」

一年後、事態は制御不能になっていた。

「名古屋市内でのフェンタニル関連死者数は月間200人を超えました」

愛知県警の記者会見で発表された数字に、報道陣は息を呑んだ。

街角では、フェンタニル中毒者が路上で倒れる光景が日常となった。名古屋駅周辺は「ゾンビタウン」と呼ばれ、観光客は激減した。

「安全な街・名古屋」のブランドは完全に崩壊していた。


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