【文披31題】海の底、夕凪の浜

野村絽麻子

第1話 まっさら

 わたしは見たことがないし、見る必要もないし、例え機会があったとしても特に興味もないのだけれど、実はこの世界には水に囲まれていない部分があると聞いた。丘、とか、陸、とか呼び方は違うようだけど、それが水に包まれていない世界のことを指すのらしい。

 その話をする時、陸とやらに憧れているらしい彼らは皆一様にちょっとだけ眩しそうな顔をする。すかさず指摘すると少しだけ照れたみたいに頭を掻いて、きまり悪そうに笑って見せるのだ。あまつさえ熱に浮かされた目をしてこんな事を口にする。

「知ってる? 陸の言葉では僕らのことをって呼ぶらしいよ」

 そうなるとわたしは胸の奥がヒリヒリするような気持ちになってしまい、今日なんかはついに、テオのことを自分の尾鰭で叩いてしまった。


 そんな時は水底に砂を見に行く。


 さらさらの小さな粒が集まった砂地に、光の射す場所があるのを知っている。いつだったか、今みたいにとんでもなくヒリヒリした気持ちになった時、泳いで泳いで、とにかく泳いでいたらたどり着いたのだ。そこは珊瑚に囲まれた流れの緩やかな場所で、透き通ったまっさらな砂の集まりに透明な光の筋が降り注ぐ。

 わたしは光る砂粒の上にそっとその身を横たえる。規則正しく波紋の並ぶ砂は細かく、ひんやりとして、とても滑らかだ。まるで芽吹きたての海藻の穂先よりも柔らかく、生まれたばかりの稚魚が被る透明な殻のように儚げで、夜が明けきらない時間の波よりも柔らかく身体を受け止める。耳元で微かに鼓動するのはクラゲの溜め息か、それとも色を持たないプランクトンたちのお喋りか。

 そっと耳を澄まし、波間に身を委ねているうちに、さっきまでのトゲトゲが嘘みたいに丸くなっていくのを感じる。ちょうど砂粒とおなじく、まっさらに。

 そうやって凪いだ海にも似た静寂に染まる頃、わたしは小さな水の流れを感じ取る。テオが、様子を見に現れたのだ。

「ラナ、」

 珊瑚の影から遠慮がちにわたしの名前を呼ぶ声がして、そうしたら、小さく息を吸い込んでから振り返る。

「テオ」

 スラリと波間を抜けてやって来るテオの瞳。夕暮れ時の深海を思わせる深いブルーは、悲しみと後悔に濡れている。

「さっきはごめん!」

「わたしこそ、ごめんね。……ケガ、していない?」

「うん、もちろん大丈夫。ちょっとびっくりしただけ。ラナの尾鰭は柔らかいから」

 もう陸の話なんてしないでね。そう言いたいのに言えなくて、わたしはわずかな泡と一緒に言葉を飲み込む。

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