蝉のない夏

たきくんちゃん

本文

〇アラームの前の夢


 一生見ていたい夢がある。そこで僕は、身体の曲線にぴったり沿う液体に浸かって、たゆたう。

 ぎゅうぎゅうだった僕は、曖昧な世界で、自己を知らずに融解する。

 無限の音で弾むピアノが、五線譜の外側にきっとある。スウィングをやる。

 オマージュだらけの空間から、赤ん坊が産まれる。蝉も、蛙も、虹も、続く。

 そんな夢に、白いカーペットに滲んだミルクのように、目を凝らさないと視えない、かけがえのない他人がいたような気がする。

 温かさのない電子音が響く。アラームだ。天国は霧散して、機械が働く。


〇宗教者のいない合理的葬儀


 僕の保護者が死んだ。経済的で、流行りの、埋葬直結(ダイレクト)型安楽死だった。

 この安価なレンタル式葬儀場は、色とりどりの献花のデジタル画像が映し出された、数枚の大型ディスプレイで、満たされている。空間の中央には、薄型タブレットが、立てかけられている。その中に、車椅子に乗った姿の母親が、空ろな眼を据えて、遺影として佇んでいた。

 母親と言っても、僕は、彼女を含めた家族に「家(イエ)」を感じたことは無い。人工子宮を用いて、子供はふたり。不細工な顔が部分的に似ているだけの僕の弟は、兄の失敗を糧に、超情報化社会を上手に生きる“健常者”である。共同体(ゲマインシャフト)の解体が進む社会において、僕にとっての弟は、目の上のタンコブというだけの、ヒルに似た他人だった。

 純血な日本人を、かつての高度経済成長期の家族モデルを基準とした“伝統的”家父長制家庭で育むことで得られる褒賞目当ての、実体のない家族。

 政府系大手教育企業が開発したマニュアルに沿った再現性のある育児と、気候変動が進む世界で量産された、分厚いコンクリート造りの、無機質な我が家。

 そして、家族4人が、それぞれの自室に籠ったまま、依存し合うことなく、隔たる個人同士として営む生活。

 結局、母親は、出勤(フルタイム・パート)中に、高額な診療費を避けて発見の遅れた膵臓がんで倒れ、あっという間に衰弱し、要介護認定を受けてから暇もなく、最期の遺影を撮って、そのまま安楽死した。

 デジタルお焼香の順番が回ってきた僕は、バリ取りが甘いアメリカ製水鉄砲のような、チープな色使いの安楽死ポッドを尻目に、腰を丸めてマウスを掴む。

 PC画面上に、ドット絵で表現された山盛りのお香を、手を模したポインターで掴み、その右にある焼香台の画像の上に、ドロップする。すると、簡単なアニメーションを用いて、焼香台から煙が立ち込めた。

 焼香の作法が不明瞭な僕は、前の参列者に倣って、もう一度同じ“作業”をして、そのまま、足早に順番を譲った。

 自分の席に着くと、僕の次にデジタルお焼香をした60代くらいの後期高齢者の女性が、マウスから手を離した後で、そっと、遺影の画像に向かって拝み、流れる様に、深くお辞儀をした。

 僕は、「失敗した」と思った。誰かが、僕の間違いを見ていないかと、眼球だけをキョロキョロと動かして会場全体を見渡した。肌着と背中の隙間の湿度が、恥と恐怖で上昇して、ピトっと貼りつくいやな感じがあった。

 しかしながら、その後に続く参列者の多くが、デジタルお焼香の後に合掌も礼も行わなかったのを見て、僕がまた少数者(マイノリティ)に与した訳では無いと知り、吐き気を催す緊張も解けた。

 香典も、生花も、挙げ句には宗教者すらいないこの即物的で、世俗的な合理的葬儀においては、故人を偲ぶ気持ちは、もはや形骸化していた。資本主義という名の、世界的“宗教”が、その座を仏教から簒奪していったからだ。

 デジタルお焼香の列が途切れ、葬儀は終盤に差し掛かる。「チッ、チッ」と、安楽死ポッドの近くに置かれた縦型のディスプレイ上に映し出された「時短火葬中...鈴木様のご冥福完了迄」というテキストの下部で進むカウントダウンタイマーが「00:05秒」と表示し、0に向けて迫っていた。


 インスタントな葬儀が終わり、何一つ感傷を抱かなかった僕は、ふわふわとした気持ちのまま、猫の耳を外した汎用配達ロボットが、運んで来た母親の遺骨を、ドリンクバーのコップのように、片手で受け取った。

 骨壺は、陶器ではなくプラスチック製で、軽い。蓋を取って中を覗き込むと、煙草の吸殻を集めたようなものが、底に溜まっていた。

 時短火葬の高温処理では、遺体は、遺骨を通り越して、遺灰(ダスト)になるらしい。保存的コストもあまり掛からないため、やはり埋葬直結(ダイレクト)型安楽死は“合理的”だ。

 けれども結局、故人の尊顔すら見ることのなかった僕は、この遺灰(ダスト)が、母親の身体だという実感が湧かないままでいた。

 会場から、参列者がぞろぞろと退場している。喪服のような、黒い服を着ている人は、僕と遺族を含めて4、5人しかおらず、皆、さながら、ファーストフード店でカロリーを補充するときと変わらない恰好をしていた。

 お行儀よく、一列に並んで、出口付近にある、与党のマスコットキャラクターのオレンジ色のウサギがプリントされたQRコードを、それぞれのデバイスを使って、順番に読み取っていく。

 これが、今日の参列者の目的だ。こうして、彼らは、“日本人”的行動がマイナンバースコアの形で可視化される、通称「あいこくポイント」を手に入れている。

 「あいこくポイント」は、インターネット発の右派新党による長期連立政権が、虚像な排外主義と、孤立する個人を結びつける手段と化したナショナリズムを盾に、導入した制度だ。

 特に、日本人以外のルーツを持つ人間は、この「あいこくポイント」を持たないことが、強制国外退去への大きな口実となっている。

 この新党は、SNSを巧みに利用し、かつての政界既存勢力の中では何の役割もないと感じていた、いわゆる「負け組」の人間から、基盤を築いた。

 この急速に浸透した、安楽死制度も、社会保障費の圧迫による深刻な財政赤字を受けて、社会保障関係費の大幅削減を合理的に目指す名目で導入された。

 最初はわずかな希望者の人間に限って行われていた安楽死も、その基準が、滑り坂のようにずるずると後退し、現在は、“健常者”の条件に該当しない、僕や、僕の母親のような人間が、ほとんど安楽死を選択せざるを得ないような社会制度と化している。

 こういった、優生学的制度は、新たな需要の高まりを嗅ぎつけた市場経済に飲み込まれた。そうして、社会生活は、高難易度化し、かつて、自分たちに代わる新たな「負け組」を求めて、票を投じた有権者たちは、結局安楽死の順番待ちの列に並んだだけだという、結末を迎えた。

 ボタンを押して、何枚も並んで設置された「無料合同墓地受付」のアルミ製の扉のひとつを、ガシャンと開く。コーヒーマシンのような、半月の弧の付いた台座に、手に持っていた骨壺をセットする。そして、再びボタンを押し、ガチャンと無機質な扉を閉めた。

 一拍おいて、床が軽く振動し、アルミ製の扉越しに、全自動麻雀卓のような、様々な工業部品が、複雑に連動し合う音が、聞こえた。

 内部には、洗面台のようなものがあり、その穴に、ベルトコンベアで運ばれた骨壺から、遺灰(ダスト)が注がれ、不特定多数の遺灰(ダスト)と混ざって、“合同埋葬”されるらしい。

 しかしながら、母親の逝く先の、詳しい仕組みは、誰も知らない。半導体製品内部のからくりも、家畜の屠殺のやり方すらも、死ぬほど無関心な僕らは、未知を未知のまま受け入れて、自分の日々を過ごす処世術ばかりうまくなっていく。

 実体を失くした世界経済。正体の分からない大きな喪失感が、蔓延する無味乾燥な世界。

 僕は、アルミの扉に貼り付けられた「キャッシュレスでお支払いのご遺族様に、2人目以降30%還元‼」という広告と、QRコードから、目を離すことが出来なかった。


〇狭山湖


 ポケットの中で鳴り響いていたいちばん初めのアラームが、いつの間にか止まった。唐突に降り注ぐ雨が、火花のように空から弾け落ちて、僕を濡らす。そして、グズグズになった喪服は、水を含んで、重くなった。

 自然公園の蛇口の水を、手で掬って呑んだ精神安定剤の、アンモニアの感覚がまだ口内に残って、ツンとする刺激が、鼻に抜けていく。

 水蒸気の匂いのする狭山湖沿いの自然公園の手すりを、前かがみに掴んで、雲の隙間から差し込む早朝の白い光に包まれた淡くて死体のような街の全体を、眺めていた僕は、母親の遺灰(ダスト)に似た姿の羽虫が、靴の甲を横断していることすら気付かなかった。

 見下ろす世界は、まるで、画用紙で作った嘘のように見える。そんなふうに、大衆の物語から摘み出されて、そこで実感なく生きている僕を、心中かのように慰めていた。

 規則的に昇る太陽が、夜の自然公園に融解していた僕の姿を暴き始めると、人造の湖畔と接する石畳の散策路に、医療費を節約することに追われる人々が、ぽつぽつ現れ、朝のランニングに勤しみながら、僕の後ろを駆け抜けていく。そのとき、全く同じスポーツブランドの製品を身に付けた彼らは、きまって、少し遠い位置から、身体を進行方向に向けたまま、

好奇心半分の視線で、僕の背中を刺していった。

 喪服を着たまま、一夜を明かした姿で、「あ、僕はまた異物になっている。」と、思った僕は、“通報”されてしまわないように、溜息を吐いて、朝霧を一息吸い込む。

 そして、白いハートマークと十字架が印刷された、真っ赤なヘルプマークを取り出して、ズボンのベルトに結んだ。

 僕の身体に、流されるまま、付けられた病名は、「自閉性高度社会生活能力欠如障害(ASLD)」

 ここ最近、罹患者が急増している発達障害だが、当事者の僕には、まるで、高度化していく現代社会の脱落者に理由付けして、レッテルを貼るために、治療以外の目的を持って“発明”されたかのような病気だと感じていた。

 集合の中の、暗黙と無知と曖昧の中で、許され、自由に生きていた筈の、僕たち“障害者”は、今や、逸脱する行動の全てが、数学を用いて解明され、ゆるやかに、王道から脱線し、安楽死へと追い立てられる。

 しかしながら、そんな、ヘルプマークを付けた僕ですらも、母が病床に伏すまでは、疑いようもなく、安楽死に賛成だった。

 先生も、文化人も、それこそ、良識ある医師さえも、皆、尊厳死について、積極的にいいことだと勧めていた。安楽死は、人道的な行為で、それに反対しているのは、ヒステリックな、患者の家族。そんな単純な構図が、誰の頭の中にもあった。

 だが、車椅子のゴムハンドル越しに見た、痩せた身体の中に閉じ込められて蠢く、臓物たちの具体的質量と、起きていることをすべて理解して、訴えかける母の瞳が、僕の網膜に焼き付いたとき、二次元の世界で予習した「死」と大きくイメージが違うことに、戸惑った。“処置”が終わって、肉体が灰になった今でも、その霧は、僕の心臓をふやかしている。

 自然は、人間を無視して、廻る。雲は、静電気を体内にうずめて、浮動している。大樹の緑の中で、雨宿りをしていた鳥は、空を見つめて、ただ霽(は)れを待っている。

 構造(システム)に活力を奪われ、足がすくんでしまったその勇猛な自然と対照的な僕は、もう、昔のように、ここではない、海の外に惹かれることもない。

 まばたきも出来ない内に、合理化と下半身の欲望で、急速に均質化した、妥協のない潔癖な世界は、すべて、目下の街と同じからっぽになってしまった。

 身体の力が時間をかけて抜けていく。この血管に鉛が含まれたような絶望は、見なかったフリと、乾いた笑いで、何度も誤魔化してきた筈なのに。安楽死の実際を見た今日に限ってはなぜか、体温よりもあついものが、目頭の奥に込み上げていった。

 赤くタグ付けされた“障害者”の僕は、自己決定の嘘の中で、白く清い世界のために、機械的に排除されるのだろうか。

 組んだ手首の血管に、爪を立てた。そのとき、僕のまわりの、雨が、止んだ。ちゃぷちゃぷと、揺蕩うような足音が、僕の背後でぴたりと黙って、そっと差し向けられた大きな赤い傘が、パラパラと、くもった音を奏でながら、散弾のように燃える雨から僕を守った。


「...大丈夫?」


 体温を、感じる。僕はまだ、遠景を眺め続けている。耳元に吐息を感じた。干した毛布がはためいたような、女性の声がした。僕も、口を開けた。


「...アニメのなんかで、泣いたこと、ある?」

「んー。見たこと、ない。」

「おすすめにあったやつは、全部見たけど、皆と話、合わせようとするのに、気、ばっか遣って。鑑賞してる暇なかった。」


 「天気の子」を噛み切れなかったはずの僕は、なぜか、この場に立ち尽くす。やさしい匂いと背中から感じるぬくもりに包まれて、顔の輪郭を伝い、顎の下でひとつになった涙の一滴が、苔むした石畳の上で弾けた。

 僕は、この状況を、あえて、飲み込もうとしないまま、無知蒙昧な安心感が、全身に満ちるのを受け入れた。そうして、しばらく、この聖域を言葉で解体しようとしないで、甘えていた。彼女は、それでも、ずっとそばにいた。

 頬骨を迂回した涙の跡が、消息を絶った頃。僕を覆い隠すように、やわらかな両腕が、僕の頭部を抱きかかえるように伸びて、外の世界から、身体全体を使って、そっと、蓋をした。


「...そんだけじゃ、ないよね。たぶん。」


 彼女が、僕のびしょびしょの髪を撫でながら、やさしく促す。肩が震えて、息の切れ目が粗くなる。


「殺されちゃったんだ、母親が。圧に。」

「...そっか。」

「...安楽死した方が、正解なのは...分かってるけど。でも、やっぱ、まだちゃんと生きてて。内臓とか、身体にぎっしり詰まってる感じ、して。もっと、なんかこう。なんとか、なんかなかったのかな...。」

「...うん。」


 僕は、独善的になって、他の個人を気遣うことなく、頭の中に浮遊していた、おおよそ、文法に倣わない、単語の集団を、ボソボソと、寝言のように言った。

 彼女は、断続的に溢れていく僕の言の葉を、活字拾いのジェバンニのように丁寧に集めて、大切にした。

 僕が、黙り込むと、この暖かい色の世界もそれに倣う。ゴゴゴ…と、彼女の二の腕に流れる血潮の、淀みなく流れる音が、微かに聴こえた。


「えい。」


 また寡黙になってしまった僕をからかうように、彼女が、自分の体重をすべて、僕に預ける。つま先を伸ばして、顎をなんとか僕の頭の上に乗せて抱き着いたことが、背中越しに伝わった。

 「ふぐっ。」と、情けない声が漏れてしまった僕は、2、3歩先の深淵を覗き込みながら、腕に力を込めて、手すりを掴み、僕と彼女の身体を支えた。

 僕が手を離せば、彼女は落下し、彼女が消えれば、僕の心は、乳をなくした赤ん坊のように、じたばたと往生する。

 この、初めて味わった、他者に迷惑をかけるという、この超個人主義社会における大罪。いわゆる、共依存的関係に、えもいわれぬ背徳感と、そしてなにより、今まで失くしていた気がした、大切な空白が埋まったような、人間という動物としての、本質を感じた。

 彼女の心臓の音が、する。雨が弱まって、虹が架かってもおかしくないほど、大きな光が差す。


「...なにしよっか。」


 雨上がりのアスファルトの匂いを運ぶ風が、2人の前髪を揺らす。僕は、思い出した。空調の人工的な風が吹き続ける、あの量産されたコンクリート製の家の中の、無機質な日常の中にも、確かに、理由のいらない非合理的な関係は、確かにあった。そんな、ただいてくれるだけの、当たり前で、静かな日々を、僕は失ったのだと、今、ようやく気付いた。


「納得、したい。せめて。もやもやして、仕方ないから。」

「わかった。」


 そういって、絆創膏のように、僕からゆっくり剥がれていった温かい彼女は、必要のなくなった赤い傘を、開いたまま地べたに置いた。雨はもう、あがった。

 そっと振り返って、初めて彼女の姿を見る。重量のある白い髪の毛が、木の葉から落ちた夏影で、生々しい灰色にさざめいていた。


「誰ーだ。」


 彼女が、はにかみ混じりに言った。僕とは違って、表情筋を闊達に動かす事ができる人間のようだ。


「目隠してたときに言ってね。それ。」

「だってなんにも反応ないし。」

「てか...ほんとに、誰...?」


 僕は、若干怪訝な疑いの眼を彼女に向ける。


「同類!」


 と、彼女は、僕のベルトに吊り下げたヘルプマークを、ポケットまで含めて、まるごと叩いて言った。

 彼女の腰回りを観察すると、確かに、僕と同じヘルプマークが、吊り下げられている。この、裏面の備考欄すらなくなった、ヘルプマークには、かつてあった相互扶助的目的性は、脱色され、ユダヤ人が身に付けていたダビデの星の腕章と同じように、社会の周縁の人間という証明以外の意味は持たなくなった。

 そんな証を見せびらかして、排除されている事を世間に告げてもなお、彼女は、平気な顔をして、両足を地面につけている。むしろ、望んで傾奇者になったのだと言わんばかりに、他者の制限を突っぱねる彼女から、僕にない、溢れ出る生命力を感じた。


「じゃあ、いこっか。」

「...どこ?」

「生まれ変わりできるとこ!」


 そう言うと彼女は、僕を置いて、ずんずんと、ブルドーザーのように、石畳の散策路を踏みつけて進む。

 光で、水面がきらきらと揺らめく湖から、レンガ造りの壁とドーム状の屋根で出来た取水塔が、にょきっと生えている。そこへと架かる白い橋の入口に、足をかけた彼女を追いかけて、僕は、怖気ながらも、再び歩き出す。


「あ、道まちがえた。」

「でしょうね。」


 取水塔よりも向こうが行き止まりであることに、白い橋を終わりまで歩いてからようやく気付いた彼女は、踵を返して、その中ほどで、一度立ち止まっていた僕と入れ違い、今度は、僕がこの自然公園に来るときに昇った、階段へと向かった。

 自然公園には、夜明け前とは比べ物にならないほどの人間がいつの間にか出現していた。その、集団が、僕たちのヘルプマークを認識して、醸す“空気”を切り裂くように、彼女は進撃していく。

 彼女のような人間が、この世にもまだ、存在するのだろうか。幻想という心の誤謬で、人々の外側に大きくはみ出してしまったという、可能性を拭いきれない僕は、母親に似た彼女の背中を見つめながら、少し立ち止まり、プラスチック製容器の中に、雑に詰め込まれた大量の“精神安定剤”を取り出して、また、飲んだ。


「わたしは、どこにも行かないよー。そーゆー系じゃないから。」


 彼女は、消えなかった。そして、背後に目があるかのように、正面を向いて、階段を降りながら、僕の行動をすべて察して、言った。

 共に夜を過ごした鳥たちが、ブゥーンと唸る大型飛行機を追いかけて、待ち侘びた快晴の中を飛んでいく。

 小さくなった彼女を、再び追いかけて、階段を一段一段、ショートカットしながら足早に、土が湿った自然公園を後にした。


〇金乗院


「ここ?」

「ううん。お寺は、死ぬとこ。もういっかい生まれんのは、神さまのいるところ。」

「ふーん?」


 まだ水気を少し含んでいる喪服の裾から、ぽつぽつと、小さな雫が、垂れている。出会ったあの場所から、迷わず突き進む彼女の後ろを、計1キロほど歩くと「金乗院」という寺院の敷地の中で、龍や仁王を抜けた先に、ヘルプマークのでたらめな赤色とは比べ物にならないほど、紅(あか)く、鮮やかな五重塔がそびえ立っていた。

 僕が、その荘厳さに根源的な畏怖を覚えているうちに、彼女は、ここではないらしい「神さまのいるところ」を目指して、とことこと「仏国窟入口」と書かれた、人工洞窟のような場所へ、吸い込まれていった。

 ここまでの道のりは、おおよそ直線的でも、合理的でも、なかった。先導する彼女は、クラゲのようにふわふわと、この世の様々なことに興味を示して立ち止まったり、明後日の方向へ行ったり、戻ったりする。

 落ち葉に残った露で、頭を洗うアマガエル。包帯を巻いた怪我人の顔にも見える、複雑に交錯した電線と変圧器の集合。2010年代後半の町おこしブームから、放置されて色褪せた、アニメキャラが描かれたポスター。それこそ、この金乗院に無数に存在する多種多様な宗教像に対しては、まるでそれぞれに、魂が宿っているかのように、会釈をしたり、お辞儀をしたりした。僕が、それについての疑問を口にしても、彼女は、ただ「おともだちだから。」とだけ言った。彼女には、現代人であるにも関わらず、篤い信心があった。そんな、彼女に、ヘルプマークを付けて、冷ややかな目を差し向け続けるこの世界に、また、息苦しさを感じた。

 彼女が入っていった仏国窟の中を、僕は、恐る恐る進む。頼りないライトに照らされた、薄暗い人工洞窟の中には、下手をすれば100はあるかもしれない石の観音像が、果てまで並んでいた。彼女の姿はまだ見えない。僕は、濡れた喪服を撫でる微かな風が吹く出口に向かって、光を求めて歩いた。


「...うええーい!」

「!?おぉっ!」


 肩を両手で掴まれて、掛け声と一緒に、激しく揺さぶられる。出口で、待ち伏せをして、順当に僕の意識をさらった彼女は、驚いた僕から逃げる様に小走りで、また、目的地のあるらしいどこかへ駆けて行った。

 最高到達点まで昇った太陽が、もう一度、僕の姿を暴く。眩しすぎる出口からの景色は、真っ暗な産道を掻き分け、一生の初めで、世界を見つめた時と、同じような高揚感をもたらした。

 彼女の雑なドッキリで、何かが吹っ切れた僕は、さながら、もう一度生まれ直したような気持ちだった。


〇駅


「駅なら、ここ来る前に、何個もあったじゃん...。」

「でも、楽しかったでしょ?」

「まあ...うん。そうね。」


 ジグザグに歩いて、ふと気が付くと、僕たちは、駅のホームにいた。待合用のベンチには、高齢者や、“障害者”や、赤ん坊を抱いた女性の姿はない。代わりに、狭山湖で佇んでいた僕と、同じような目をした人間が間隔を開けて座っていた。


「じゃ、わたしは、えらいので。返したいと思います。」

「急。...なにを?」

「え、傘。」

「置いてきたじゃん。開きっぱで。」

「...あっ。」


 僕の脳裏に、石畳の散策路に放置した、あの印象的な赤い傘が浮かぶ。彼女は、本気で、今、赤い傘を持ってきたつもりになっていたらしい。彼女の視線の先を見ると、無人のベンチに、おそらくあの赤い傘と一対だったであろう、色違いの青い傘が、寂しく立てかけられていた。


「てか...パクったんだ。あれって。普通に。」

「盗ってないしー、ちょこ...って借りただけだし。」

「でも、今返さないんでしょ?」

「えー。うーっるせーい、ねぇー、きみねー。あ、電車だ!乗ろ、のろ!」


 タイミングよく、見覚えのある電車が近くの踏切を越えて、このホームに入ろうとしている。暖簾を腕押しているような気分だった僕は、線路を跨いだ、向こう側のホームで、自販機の前で、あまり清潔とは言えないおじさんが、小銭をチャラチャラとやって、そして、何も買うことなく、とぼとぼと踵を返したのを見た。

 自動販売機の天然水ペットボトル500ml。一本、360円。電車賃。7駅間、2100円。安楽死ポッド、埋葬直結(ダイレクト)型。一回。1万4980円(カナダドル円レート、1カナダドル、340円換算)

 ギィィィと、電車が、完全に静止して、中から僅かな乗客が降りたのを見計らい、僕らは、ふたりでその電車に乗った。


◯電車


 僕は、電車の中は、あまり好きではない。ヘルプマークを提げる僕は、いつも、周りに気を配って、必要以上に不快にさせてしまわないか、常に神経を使っている。

 エアコンの効いた車内は、不気味なほど静謐だったが、白いマスクを着けた画一的な姿の、サラリーマンが、ところせましと、着席している。

 我先にと、他と配色の異なる優先席に腰かけた彼女に倣って、僕もその隣に座る。するとやはり“健常者”の座席から向けられた視線が、ひどくかしましい。

 久々の運動によって、力強く代謝を始めた僕の体内から汗が滲む。この無機質な空間で、いつも以上に神経質になった僕は、隣で、のほほんとしている彼女とは反対に、この汗がもたらす、動物的な匂いで、気が気でなかった。

 車軸を回すモーターが、ウウンと唸って、電車が出発する。するとやはり、いつものように、いたるところから、ヘルプマークを、それぞれ身に付けた、僕たちふたりを、もの珍しげに、ちらちらと、観察する視線を、受け取った。

 光る液晶の板に打ち込んだ、一次元(ビット)の連続集合で、三次元(リアリティ)に生きる人間を、気軽に殺害してきた彼ら“健常者”には、自分が変だと感じたものに対して、土足で足踏みして、その原因を解明する権利があると思い込んでいる。


「なんか、みんな見てんね。」

「...みんな、僕たちに安楽死して欲しいみたい。」


 足をふりふりと揺らしながら、あっけらかんと言い放った彼女の言葉を、僕は、せめて、この世界に、一石でも投じようと、皮肉を交えながら、小声で返した。目に映る、乗客達は、優先席に座る僕たちが、今に、何かをしないか。僕たちがいかに安楽死をするべきかという自説を補強する、生きた根拠を手に入れることが出来ないかと、そわそわしていた。

 出生前診断を義務化し、0.5mm非対称なパーツのある女性に整形を促し、セルフレジの勝手がわからない老人には、やはり安楽死を勧める。アンビバレントという人間性を忘れて、汗をかくことすらも許さない。そんな、ネット世論で形成された、衆人相互監視型社会(パノプティコン)は、僕から、未来を志望する活力を奪うのに、申し分ない暴力性を孕んでいる。

 世界はまるで、この蒸し暑い6月に似た、うるさくて不快な蝉のない夏のようだ。

 僕は、絶望と裏返しの微笑を浮かべて、俯いた。狭山湖からの遠景を照らす太陽を遮った曇天に似た小汚い灰色の床が、視界の大部分を占めた。

 すると、僕の右手に、既視感のある温かい感触が宿った。

 見ると、彼女が、唐突に、成仏を希って拝むような、やさしい恋人つなぎで、僕の手を握った。


「なにこれ。」

「世間体。」


 ここまで旅を共にしてきた乗客達が、手先から、腕を伝って肩までぴったりと密着した僕たちに注目するのを、止めた。排斥者同士の、みっともないお似合いのパートナーシップ。そんな彼らなりの物語(ナラティブ)が腑に落ちたのか、さっきまで車内を満たしていた不穏な空気は、払拭され、“健常者”の集団は、何事もなかったかのように、スマホに集中し始めた。

 ここはやはり、強制的に正常化される場所だ。安楽死がすぐそばにある正しい世界は、とても強引だから、異物は、静かに除けられ、まっとうでない人間は、処理されていく。


「...みんな、知らないものが、こわいだけだよ。」


 僕に後頭部を向けて、窓の外に流れる景色を眺め始めた彼女が、達観した口調で、大人っぽく言った。僕にはその一連に滲む余裕に、乗客達の誰よりも“人間”らしさを感じた。

 心地よく満たされた静謐な空気の中、僕もそれに倣って、正面の窓から、スーツ姿の男の肩越しに、彼女のそれと反対側の景色を眺めた。

 お互いの掌底の肉に包まれた狭い空間の中で、体温を融かしながら進む、目的地の知らない電車は、ゆりかごの中で、落ちた夢のような心地だった。普段の通学では、時報のように、機械的な、一定のリズムを刻んでいた、シートから伝わる振動は、今日だけは、犬猫のうたたねのような、不規則かつ、動物的なものに感じた。


「でも、わたしだけは、ちゃんと知ってるよ。」


 彼女が、頬杖を付いた自由な方の手のひらの中で、呟いた。


「...何を?」

「ほんとは、あそこで死んじゃう気だったでしょ。」


 僕の心臓が、図星を突かれて、跳ねる。そして、手すりから身を乗り出して覗いたあの深淵を思い出した。


「...うん。まあ。...でも、なんで。」

「...わたし、神さまだから。」

「...そうなんだ。」

「別に、信じなくていーけど。」

「...信じる。」


 僕は、被せるように言った。彼女は、その見事な白髪を揺らしながら、自分を「神さま」と、称した。その設定は、規範に照らせば、非常識的なものだ。

 しかしながら、僕は、真偽が定かではないその曖昧さを、暴くことなく曖昧なままに抱擁する。そんな、非科学的な関係性に、誰にも侵すことの出来ない、神聖さを感じた。

 僕は、手に少し力を加える。彼女も、それに応えて、同じくらいの力で握り返した。「受容する」と、二次元には、変換されない、言葉の外の、質量ある想いを互いに、受け取って、送り返したような気がした。


「どうして、みんなコンクリの部屋の中に、運ばれんのが、好きなんだろ。外こんな、晴れてんのに。」


 電車が、架橋を渡って、関東を跨ぐ、どこかの大きな川を越えた。「神さまのいるところ」は、まだ近くにはないらしい。


〇川越氷川神社


 夕日が、江戸の風情を残す古い街を焦がす。あれから、惰性で、手を繋いだままの僕たちは、本川越駅から、浴衣を着た観光客の多い、小江戸一番街商店街の歩行者天国を抜けて、「神さまのいるところ」である、大きな鳥居をかまえた神社に、ようやくたどり着いた。


「いこ。」


 彼女が、珍しく僕と歩調を合わせる。そうして、ふたりで、僕にとっては初めての鳥居を、一緒にくぐった。神道的な信仰が形骸化して、あたり一面、人の姿がない寂れた社を前に、僕たちは佇む。


「...じゃあ、気の済むまで。わたし美術館、いるから。」


 そう言って、彼女の手が、僕の手からゆっくり滑り落ちていく。少し怖気づいた僕は、それを、ギュっと握って、制止した。


「ごめん、ちょっと、何考えて、やったらいいか。...わかんない。」


 僕は、いびつに生まれ落ちた僕を、なんとか世間に迎合させようとする母親の必死さが、苦手だった。僕は、出来の良い弟と、露骨に接し方を変える、その尻の軽い母親の女性性が、どうしても滲むのが苦手だった。僕は、おおよそ、構造(システム)に支配された社会では通じない、母親独自の世界観を押し付けるところが、苦手だった。だから、僕の心は、上手くいかない人生の腹いせに、保護者と被保護者いう法的距離から、それ以上親密な関係になる事を拒んだ。

 僕の血肉にない信仰とは、こんな負い目だらけの魂を抱いていても構わないものなのだろうか。そんな戸惑いを浮かべる僕の表情を見た彼女は、娘の結納の儀の前にそっと寄り添う、優しい父親のように、口を開いた。


「わたしは、お母様じゃないから。ちょっとあれだけど。」

「...。」

「お母様は、ずっと、みんなのただしいと、家族のただしいと、きみのただしい。ごちゃまぜになりながら、それでも、頑張ってたんだと、おもうよ。」

「...なんでそう思うの?」

「だって、きみがこんなにやさしい人になったんだから。いろんなことを、あるがままに受け入れて、わたしとだって、手をつないでくれる。そんな人間らしい人。」

「...愛せないままでも、良いのかな。」

「そーやって、心いためて悩んじゃってるって、ことがもう、『I LOVE YOU』って、言ってんのと、同じだとおもうけど...?」

「...えっ。」

「いろいろあったんだと、おもうけどさ。お母様は、さいごは、やさしい君を、お邪魔しちゃわないように、っておもって、この世にさようなら、したんじゃないかな。」


 そうか、と、腑に落ちる感覚があった。深夜に腹を空かせて、インスタント食品を探していた僕に、手作りの、おにぎりふたつと、味噌汁と、甘い卵焼きと、麦茶を載せた、プラスチック製のお盆を運んできた母親が、僕のよそよそしい「ありがとうございます。」を、「あんま味濃いもん、食うな。」と、舌足らずな口調で、強引に一蹴したのを思い出した。必死に、人間として羽化しようとする、僕と同類な、その不完全さを、はじめて愛おしく思った。

 その時、呪いのように、僕の心臓をもやもやとふやかしていた霧は、退散していった。その代わりに、僕が、今日彼女が「神さま」であることを、受け入れたように、母親にも、母という役割の檻に閉じ込められすぎない様に、そっと抱擁をすれば良かったと、悔やんだ。

 僕に必要だったのは、あの合理的葬式の形骸化した形式ではなく、故人と向き合う時間だった。

 だから僕は、母親の来世はせめて、僕と霽(は)れを待ったあの鳥のように、構造(システム)の暴力に脅かされること無く、自由闊達に生きてほしいという願いを込めて、何十秒と手を合わせる。

 そうして、機械的な葬儀では絶対に感じることの出来ない、人間の尊厳を携えて、ただ冥福を、祈った。


 ふと、目を醒ますと、彼女はもう隣にはいなかった。美術館で待っている彼女を拾って、帰路に着こうと、踵を返して歩き始める。足取りは、さながら金斗雲に跨ったかのように、軽やかだった。

 しめ縄を巻いた御神木と肩を並べるほど、巨大な赤い鳥居をくぐろうとすると、その根本の部分に直に貼られたステッカーのようなものが目に映った。

 僕は、そのおおよそ信心のない場所に貼られたステッカーの内容を、覗き込んで確認して、言葉を失った。

 「あいこくポイント」と書かれた題目の下に、与党のマスコットキャラクターである、あのオレンジ色のウサギが、母の一度目の葬式と同じような形のQRコードを持って、印刷されていた。

  宗教施設という聖域のシンボルすら何食わぬ顔で侵食する、評価経済社会。電脳世界が拡散する、オタク的ナショナリズムと、自分の手を汚さない排外主義。宗教者をコストカットした、合理的葬式。

 僕に赤いタグを付けた、言葉の羅列が、ステッカー1枚から溢れだして、葬送で浄化された心の空白地帯へ、一気になだれ込んだ。

 僕は、せっかく、彼女が手を惹いて、導いてくれたこの旅や、ここでやり直した母親の葬儀が、一瞬にして台無しになってしまったと絶望した。

 しかし、祈る個人は、群れる体系に負ける。母を殺す胎児など存在しない。

 母親の次は、僕や彼女も処刑台に送ろうとする。そんな、このオレンジ色のゆるいウサギが催す、現代社会の表象に、僕は、言葉にならない悔しさを覚えた。


〇ヤオコー美術館


「...僕、これから、どうしようかな。」

「いきなりー。」

「なんか、いっぱい考えて生きんの、もう、ちょっと疲れた。」


 彼女は、僕が隣に並んでからずっと鑑賞していた一枚の絵画から、目を離さず、言った。足枷をはめたように、また重くなった身体で、神社の近くにあった美術館の自動ドアを開けた僕は、なめらかな白を基調とする空間に溶け込んだ白髪の彼女に元に吸い込まれた。そして、そこが、僕の片手のあるべき居場所であるかのように、淀みなく、また手をつないだ。


「この絵、きれいだね。色、ぐちゃぐちゃで。」


 僕は、彼女と同じ抽象画を鑑賞しながら、ぽつりと、絵の具のひとつをパレットに差すように言った。懲りずに、また沈んでしまった心も、彼女の体温を感じると、不思議と落ち着いていった。僕にとっての彼女は、この世界を回遊する上で欠かすことが出来ない、曖昧な領域を暴かないというお互いの暗黙の中の確信で繋がった、恋人よりも、むしろ、家族に似た、腕2本分の距離を保って、より尊い、かけがえのない“他人”だった。


「...ねえ、神さまって、どうやってなったの?」

「きけよー、わたしの話し。」

「...ごめん。」


 少しばかりの沈黙があった。目の前の絵画は、様々なイメージを、絵の具に含有させて、何かを僕に語りかけている。脳の細胞は、奥の根源的な部分で、きらきらと、好奇心に溺れていた。


「じゃあ、ま、教えたげる。とくべつね。」


 彼女は落ち着き払ってそう言うと、美術館を名残惜しそうに去る。またクラゲのようにふわふわと浮遊して何処かへ向かう彼女の手を握ったまま、僕はそのすべてを預けた。


〇小江戸一番街商店街歩行者天国、道路上


 雑踏が、個人の声を判別できないほど、がやがやと騒いでいる。日が沈みゆく濃い夕焼けの時間になっても、まだ往来のある「小江戸一番街商店街」の歩行者天国の道路上に臆せず寝そべった彼女の隣に、僕は、屈葬のように足を折りたたみ、向かい合ってアスファルトの上で寝そべった。彼女を仰ぐ僕はもう、理屈では割り切れない。

 鼻先が触れ合いそうなほど、接近した添い寝の体勢で、僕たちはふたりだけの密談を始める。

 枕元には、アフリカの国境のように、事務的な緑色の直線がある。その図形は、電動キックボード専用の駐車場を表している。

 街にはもはや、僕らのような、理由のないものは、存在しない。目に映るものにはすべて、何かの目的や用途があり、それがわかるようになっていた。


「むずかしいことは、べつに、ないよ。身体を、土に還して。こころをあっちに送るだけ。」

「...ポットじゃ駄目?」

「あんな、機械でチンして捨てちゃあ、だめだよ。まーだからもう、今はわたしくらいしかいない。」


 集団が、関わりを持たない様に、僕たちを、水溜まりのように避けて通り抜けていく。そして時々、カメラのシャッター音がした。こんな、具体化した暴力を伴わない、グレーゾーンからの攻撃に、僕は、この世に生まれてから、ずっと、苦しんでいる。

 自殺者は、かつてその習慣が無かった文化圏すらも、含めて、世界中で、増え続けている。そんな、白い社会の光が、飛躍的に強くなればなるほど、僕たち少数者(マイノリティ)が追いやられた世界の影は濃くなる。しかしながら、それは、逆説的に、まだ言語化されていない、この僕らの神聖な関係性を覆い隠して、大切に仕舞い込んだ。


「将来とか、そんなちゃっちいのさ、なくなるかな。」

「ないよ。時間は、稲作する人が、作って、みんなで、てきとーに信じてるだけ。本当は、すべてが刹那で、一瞬がぜんぶ。」

「...いいね。」


 彼女が、ごろんと寝返りをうって、天を見上げる。


「そろそろ太陽が、どっかいくね。」

「うん。」

「...じゃ、またね。天国で待ってる。」


 そう言うと、魅力的な表情を残して、神隠しに遭ったように、彼女は、消えた。

 その後、独りで、胎児のように眠っていた僕は、不特定多数の誰かが通報した警察に、連行された。


〇神さまになった日


 湿気だけが残る日没後の田んぼで、ウシガエルが合唱している。無人運転で、僕を迎えに来た、父親名義の国産自動運転車が、警察署の近くにある駐車場に留まっていた。僕がその助手席を開けて乗車すると、ハイブリッドエンジンがピッと掛かり、電動パーキングブレーキが解除される音と同時に、車が自宅へ向かって進みだした。

 しばらくフロントガラスを見つめて、コンクリート造りの家に向かって、大人しく移送されていた僕は、助手席のリクライニングを、限界まで下げて、充電の残り少ないスマートフォンを取り出し、IDアプリを立ち上げた。

 僕のマイナンバー情報には、情け容赦なく前歴が書き込まれた。また、アプリは、僕の許可なく勝手に取得した位置情報を使って、今日の逃避行の一連を、すべてお見通しだった。 いよいよ本格的に、僕は、今後一生、エアコンが効いた世界に勤めることが出来ないようだ。

 この管制社会から逃げる様に、僕は、信号待ちで止まった車の助手席側から腕を伸ばして、逆手でシフトレバーを握り、ドライブから、パーキングの位置に力強く動かす。

 そして、車から降りると、ハザードランプが点滅し、警告音が、遮音性の高いドア越しに、鈍く響く。僕は、狭山湖に続く階段を、また昇った。

 息を整えるために、湖に臨む適当なベンチに腰掛ける。いつの間にか、夕闇の端が白んで、日の出の時間が迫っていた。

 橋を渡って、ネオ・ルネッサンス様式で建てられた取水塔の前に立った僕は、彼女が向こうで見つけやすいようにと、あの場で開いたまま放置されていた赤い傘を、手に持っている。

 傘からは、バケツの中で絶えた花火のような、黒い灰のまじった水滴が、ぽたぽたと垂れている。くるくると雫を切って、濁りが露先から滴り落ちていったのを見計らって、頭の上に差した。

 無機質な地面には、さっき何回かに分けて飲んだ、“精神安定剤”が詰め込まれていたプラスチック製の容器が、もぬけの殻となって、転がっていた。

 いつも、アラームが鳴るのが怖くて、怖くて、目覚ましの時刻よりも、先に目が覚める。そんな戦場のような日常から逸脱した今日は、まるで、たたき起こされる前の、断続しながら曖昧に残った、気分のいい夢みたいだった。それを、これからもずっと、感じていたかった。

 丸一日着用した喪服は、汗と湿気でぐずぐずになって、ようやく、僕の臭いがした。

 元来、僕は、“綺麗”なものが嫌いだった。無機質で、無味乾燥なそれは、スパッと切れた断面を持った、食欲をそそらないコンビニのサンドイッチのように、機械的で、天然を感じない。だからこそ、こうでもしないと、僕は、製品が、所有物になった気がしなかった。しかしながら、世界は、その漂白されたものだけを許し、僕を除けた。

 湖に注いだ雨は、低い方へ流れて、大地を潤す。土から蒸発した水は、天に昇って、雲をつくる。そうして、自然は、廻る。この緑に囲まれたこの場所は、まさに、彼女が僕に語った世界観を表現していた。

 薬で視界が朦朧とする中、時間という、産業的新概念に統治され、規則通りに太陽が昇る。

 それと連動して、いちばん初めの目覚ましアラームが、僕の心臓を貫く。

 そうして、僕は、前もって固く決めた通り、アラーム音と同時に、つま先の間の向こうに見下ろした、フチが曖昧なほど広い狭山湖に、赤い傘を携えて、飛び込んだ。

 そんな、取り決めのような、構造(システム)の方が、人間より強いことは、身をもって、さんざん知っていた。中空の最中、自分がした選択がもたらした納得感で、ようやく僕は、この生命が、自分のものになったと心から思った。


〇廃校のプール


 走馬灯が、フェードアウトしていって、鼻腔に入った水滴に含まれた塩素が、懐かしく香る。意識が回復すると、喪服や赤い傘は、いつの間にかどこかへいって、僕は、一糸まとわない、生まれたてと同じ姿で、公教育の崩壊で、ぼろぼろになった、見覚えのある、母校のプールの中で、透き通った水を、腰までつけていた。


「...おいで。」


 顔に付着した水滴を拭って、前髪をかきあげる。あの舌足らずな、吐息交じりの声の方を見つめると、僕と同じように、半身を浸した彼女が、制服姿で、両手を広げ、僕を待っていた。髪の毛は、解けて、さながらミレーのオフィーリアのように、描かれたみたいだった。

 抱き寄せると、示し合わせたかのように、お互いの耳元で、ふたりとも、笑った。


「同級生だったの?」

「不登校。」

「そっか。」


 たぶん僕は、天国に行けたみたいだ。

 僕の裸足は、水を掻き分けながら、地面を噛んでいる。ここは、質量を持って、存在する現実である。今、僕は、初めて「増えたい」とすら思う。


「これから、どうしたらいいの。」

「ただ、いるだけで。それだけで十分。わたしたちの心臓がはねるだけで、いのちが当然に蠢いて、鳥や羽虫が産気づくの!」


  人間は、そもそも理由なしに存在する。つまり、僕も自然だ。理屈のないものを出来るかぎり処分する街から、ここにやってきた僕は、そっと、深呼吸をした。

 さざめく木も、遊ぶアメンボもした。蝉が、けたたましく、高らかに鳴いている。負けじと、様々な生命が、それぞれの声で、叫んだ。天国は、こんな、人の気配がない、森の中のような姿なのだ。僕は、眩しい世界を見渡す。

 ちゃぷちゃぷと水が踊る排水口では、もう必要のなくなったふたつのヘルプマークが、今まさに吸い込まれて、消えていくところだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蝉のない夏 たきくんちゃん @takially

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る