第10話 夏の修羅場

 世間では、夏になった。

 学生も既に夏休みに入ったが、社会人は、ひと月近くも連続で休みなど取れない。

 長期に休暇を取ってしまった水月も、今年は盆休みすらシフトに組み込まれていた。

「だから、そんな暇はない」

 八月に入った休日前、いつになく真剣な表情で正座して向き合ったエンに、水月も同じように正座して言い切った。

「娘さんに、電話する間ぐらいは、与えられてるはずでしょう? どうして、連絡しなくなったんですか?」

 真面目に問われ、記憶をたどった。

 蓮が招待してくれたあの小屋の前で、律から話を聞いた後、エンにも同じような説明をしたはずだ、記憶違いではない。

 それを聞いた後なのになぜまだ、自分から連絡を取れと言われるのか、理解ができなかった。

「オレは、向こうが後ろめたく思っているんじゃないかと、気をまわしているだけだ。気にしていないのならば、あの子の方から連絡をくれるはずだろう?」

 もう、こちらから連絡を取ることはしないと、そう決めている水月に、娘婿候補は真剣に首を振った。

「しませんよ、雅さんは。電子機器が、怖いんです」

「怖いという理由だけで、電話を触れないのなら、オレとの仲はその程度ということだろう? それでいいだろう。お前が頻繁に電話してやれば、大丈夫だ」

「それで済まない状態だから、言っているんですっ」

 投げやりな舅候補に、エンは妙に頑固な口調で言い切った。

 おかしいなと首を傾げた水月は、不意に思い出した。

 夏休みに入ったということは、高校一年の生徒たちも、あの授業を受けた後だ。

「……おい?」

「……お叱りは、最もです。ですが、その話がこじれたみたいなんです。オレは、その、感情的になりすぎてしまって……」

 発端は、授業ではない。

 授業の後、詳しくその辺りをかみ砕いて話そうと、雅は仲間の一人がいる病院に、セイと訪ねた。

「そこで、授業では深く訊けなかったことを、セイは沢山質問したようです」

 それは、野田医師にとっては地獄では?

 まさか、外野に性教育を丸投げして、倍の質問が降ってくるとは、夢にも思わなかったに違いない。

 無表情な医師を思い浮かべて同情した水月に、エンは顔を曇らせて首を振った。

「それは、ゼツも覚悟していたようで、意外にも冷静に、質問に答えていたようなんですが……」

 途中から、雲行きが怪しくなった。

 一体何を教えたのかという問いに、何故か雅も野田医師も、答えを言い渋ったのだ。

「……」

「で、つい、嫌味を口走ってしまって、雅さんを怒らせてしまったんです」

 先に、気まずげにセイの様子がおかしいと相談してきたのは雅で、女を怒らせてしまった後、冷静さを取り戻すために野田医師を訪ねたのだが、こちらも尋ねたことに答えてくれなかった。

「本人が話すまで、待ってやってくれと、その一点張りで。待つにしても、事情が分からなければ、受け止めようがないでしょう?」

「まあ、そうだが。お前、何を言って怒らせた? ちっとやそっとの事で、雅は怒らないだろう?」

 優しく問いかけると、エンはびくりとして首をすくめた。

「……いえ、それは……」

 首をすくめた後、顔を伏せてしまったところを見ると、混乱して詰問の勢いでつい出てしまった嫌味だったのだろう。

「お前、そういうセリフが多すぎやしないか? ランホアの時の、嫌い発言も、しかりだ」

 怒る場面だろうが、ここまでくると呆れて笑うしかない。

 それだけ、雅には気を許していると、前向きに考える。

「雅に謝るのは、お前本人がやれ」

「はい」

「要は、セイ本人が、お前に事情を話せるようになるまで、持ち直すのを早めればいいんだな?」

「え?」

 間抜けな声が返った。

「ん? 違うのか?」

「違います。雅さんと、連絡を取ってくださいと、さっきも言いました」

「必要ないと、さっきも言った」

 堂々巡りだ。

 所帯を持つ予定の二人だけではなく、舅婿の関係になるはずの二人の間も、険悪になりつつあり、水月が色々と考える必要性を真剣に考え始めた時、携帯機器が着信を告げた。

 『かすが』と、雅が通学し始めてから、登録しなおした番号からの着信だった。

「え」

 驚くエンの傍で、少し疑問に思いつつも電話に出る。

「はい」

 短く呼びかけた耳に、懐かしい声が不思議そうに返した。

「……あら? エン君じゃないの? この『とう』って?」

「……違いますってっ。切ってください、出ないで……」

 焦った雅の声が聞こえ、初めの声がおかしそうに笑った。

「やだっ。もしかして、この子との仲を、エン君に疑われたの? だからちょっと凹んでたのね」

「ち、違いますっっ」

 必死で否定する娘を宥め、女はこちらに話しかけてきた。

「こんにちは。私、雅の母です。とう君?」

「あ、はい。どうも」

 驚きが抜けず、つい曖昧に返事をした水月は、額を手で押さえたエンを睨んだ。

 こいつ、言っていい暴言と悪い暴言の、区別もつかなくなるのか。

 仮にも、父親とその娘を捕まえて、疑うことではない。

「実はね、うちの娘が、あなたとの仲を好いた人に疑われて、本当に沈んでいるのよ」

「し、沈んでませんってばっ。それは、どちらかというと、私の方が疑ってるんですから」

「……」

 雅の母、寿ことほぎの手前、声にはかろうじて出さなかったが、つい口につきそうになった。

 おいこら、どういう意味だ。

 ここにはいない雅の代わりに、その思い人の方をさらに睨むと、エンは手を増やして両手で顔を覆っていた。

 どうやら、自分を間に置いて、喧嘩をしたというのが正解らしい。

 売り言葉に買い言葉とはよく言うが、何が悲しくて娘と婿候補の間で、板挟みにならなければならないのか。

「ということだから、一度お会いしたいのだけど、お時間はある?」

 何が、ということなんだ?

 うんざりとして思ったが、断る理由が思い浮かばない。

「明日ならば、休日なのでいつでも」

 そう答えた水月に、エンが今度は小さく悲鳴を上げた。

 うるさいぞ。

 それを目で黙らせてから、電話の向こうに話しかける。

「藤田家に伺えば、よろしいですか?」

「ええ、そうしていただける?」

「は、母上っ。それにっ、ち、とうさんまで、何をっっ」

 ああ、『とう』というのは、父のことか。

 向こうで悲鳴を上げている雅の声に、水月は納得しつつ電話を切ったのだった。


 翌日、約束の場所で寿と再会した。

「と言っても、オレの方が久しぶりという感覚なだけで、向こうにとっては初めまして、だった」

「そうですか」

 日差し除けのテントの中で、水月は元女房との邂逅の経緯を話した。

 それを気のない、無感情な声で受けつつも、その主は目をこちらに向けない。

 うわの空で返事をし、バイト途中で配られた握り飯をほおばっている。

 ここは、この若者が住んでいた山の家の、建築現場だ。

 そしてなぜか、その住民であるセイは、夏休み中のバイト先に選んだ。

 建材運びや雑用で動き回り、今は昼休憩でこのテント内にいる。

 そこを水月が、捕まえたのだった。

 話があるという男に、高校生は首を傾げて尋ねた。

「宿題をやりながらで、いいですか?」

「ああ。答えられるならな」

 そんなやり取りの後、水月は話し出した。

 その途中で、本日の分の宿題のノルマを終え、握り飯に食いつきながらも、男の声を流し聞きしていたようだ。

「……元奥さんとの間に、何か問題でも?」

「いや。問題は、お前の兄貴分と姉貴分だ」

「ああ、大丈夫でしょう。すぐに元に戻ります。確か、喧嘩するほど仲がいいって、言うんでしょう?」

 そういうことは、元々知っているらしい。

 水月としても、多少喧嘩するくらいは、気にしない。

 ただ、何故か自分まで巻き込まれているため、居心地が悪いと思っているだけだ。

「寿からは、上司と部下の間柄を、超えるなと忠告を受けたんだが、言われるまでもない」

「はい」

 きっぱりと、二人との間柄が、そこまで親密ではないと言い切ってはきた。

 それを信じたかは分からないが、今後寿と会う機会はもうないだろう。

「あちらも今は幸せらしいから、これ以上干渉することはない」

「気づかなかったんですね、あちらは?」

 無感情な声に、水月は静かに頷いた。

 雅の時は、初対面の時からはっきりとしていた。

 何故か、自分を律が引き取った子供として接していたが、気づかぬふりをしていただけだと、感じられた。

 だが、寿は……完全に、自分を赤の他人として見つめてきた。

 夫婦になったこともある女のその態度に、少しだけ寂しい思いはしたが、これでいいと水月は思っている。

「エンと雅の仲介役なのならば、頻繁に電話してやれとも言われたんだが、その必要があるか? 雅に用があるのならば、向こうから連絡してくるだろう?」

「しませんよ、絶対」

 セイは無感情に、男の言葉をぶち切った。

 確信した答えだ。

「何でだ? 電子機器が怖いとは聞いたが……食わず嫌いだろう?」

「ああ、成程。これは、板挟みの弊害ですね」

「?」

 冷えた麦茶をすすりながら、セイは無感情に言った。

「これは、私が言っていい問題じゃないです。雅さんに、直接聞いてください。くれぐれも、寿さんを恨まないでやってくださいね」

「いや、ちょっと待て? つまり、寿が原因で、電子機器を怖がっているように聞こえるんだが?」

 眉を寄せた水月を見返して首を傾げ、若者は言った。

「原因、というか、きっかけです。律さんと他の知人の獣たちが、冬の備えに間に合わなかったのは、最初の一度だけだったと、口をそろえていましたから。寿さん、あなたに輪をかけて、食に無頓着だったそうですね」

 だから、旦那がいなくなって以降、子持ちで苦労している狐を心配し、旦那の弟子や知り合いの獣が、積極的に支援していた。

「……あの女狐、狩りも壊滅的に下手糞だったからな。そうか。子供達には、山菜採取の方法を教えていたんだが、冬は危なかったのか」

「備蓄も、初めのうちは目測を誤ってしまって、足りなくなっていたようです」

 そんな中で、雅は味を占めてしまったものがある。

「……その、支援が追い付かなかった冬の、たった一度の救済食の味に、雅さんはのめり込んでしまったようで、兄弟も母親もいなくなった後、結構な度合いで口にしていたらしいです」

「そうか……?」

 相槌を打ちつつも、水月の頭の中には疑問符がいくつも浮かんだ。

 それのどこに、電子機器を怖がる理由が繋がるのか、今一分からない。

「原因に気付いた時に、私が寿さんを責めると、そう心配したようなので、あなたに言わない理由も、それでしょう」

 杞憂だと、セイは雅に言い切った。

 背に腹は代えられない事態ならば、大切な子供を死なせないためならば、何でも食料にしただろうと、そう思った。

「私も、本当に飢えた時は、色々と口にしていましたから。多少腹を下そうが、身になればと思った寿さんの気持ちも、分かります」

 それをそのまま言ったら、逆に問い詰められてしまったが。

 そういう若者に、水月も目を細めた。

「あの群れで、エンもいたのにそんな事態になったことが、あるのか?」

「保護されて以降は、そんなことありませんでしたよ。大丈夫です」

 言い過ぎたと後悔しながら、セイは首を振る。

「とにかく、電子機器が怖がってしまっているので、雅さんも固定電話にすら、手を付けないんですよ。あなたの事で、何を後ろめたく思っているのかは知りませんけど、あなたが気にならないのならば、連絡してあげては?」

「……日本語、おかしくないか?」

 様々な国の言葉に通じているはずのセイの、妙な言い回しに眉を寄せたが、それを詳しく説明する気はないらしい。

 娘に訊けというのならば、そうしようかと気を取り直し、水月は話を変えた。

「性教育を、受けたそうだな」

「はい」

 聞き耳を立てていた、建設現場の作業員たちが空気を固める中、セイは無感情に頷いた。

「理解はできたか?」

「はい、大体は。その手の話で、よくわからない言い回しをされていたんですが、その言葉の意味に思い当たって、すっきりしました」

「そうか」

 相槌を打ちながら、長机に置かれた紙コップに手を伸ばす水月の横で、セイはしんみりと続けた。

「筆おろし、という言葉にも、そういう意味があったとは、驚きました」

 紙コップをつかもうとした手が、止まった。

「言われたときは丁度、文字の練習中で、思い立ったように切り出されたんで、もう下ろしたと答えてしまったんですが、思い返して恥ずかしい思いをしてしまいました」

「……誰が、そんなことを?」

 凍り付いた空気を破り、水月が優しく問うと、若者は無感情に答えた。

「ランです」

「……」

 呆れた顔になった男に首を傾げ、セイは続けた。


 ジャック爺が、瀕死になる怪我を負う戦の前の出来事だった。

「あ、ジャックは私の祖父です。エンの料理の師匠でもありました」

「ほう……」

 セイはそのジャックの、祖国の文字を教わっていた。

「筆を硯の墨に付けたタイミングで、それを見ていたランが手を打って、今夜部屋に行ってもいいかと、伺いを立ててきたんです」

 そして、お前の筆おろし、オレがやってやるよと、そう言った。

「……」

「その時は、筆に墨をつけるのをやりたかったのかと思って、もう下ろしちゃったよと答えたんです」

 可愛い孫への恐ろしい通達に緊迫していたジャックは、その孫の言い分で一気に脱力し、ランは大爆笑した。

 そして、その辺りは今夜教えてやるから、来るまで眠るなよと言い置き、その時は立ち去った。

「約束通り、ランは私の部屋にやってきたんですけど、良く分からないうちに朝になっていたんですよね」

 そして朝起きたら、扉の前で黒い塊がうずくまり、腹を抱えて震えている前で、ランが土下座していた。

「? 起きたら?」

「寝台にランと並んで座った後、朝まで熟睡してしまったんです」

「……」

 土下座したランは、何故かセイに向かって謝罪した。

「すまないっ。オレでは、役立たずだったっっ。ああっっ、やっぱり、ミズ兄、降りてきてくれよう」

 謝りながら喚く女を、セイは見下ろしているしかなかった。


 凍り付いた作業員たちが見守る中、セイは無感情に首を傾げたまま、黙り込んだ水月を見ていた。

「つまり私は、ランに筆おろしされるまでには、至らなかったということだったんです。ミズ兄って、あなたの事ですよね? あなたなら、できるかもしれないということですか?」

「……何で、そうなる」

 どうしてここでも、可笑しな事態に巻き込まれているんだ、オレは。

 そう思いながら、不意に湧いた疑惑を確認する。

「というかお前さん、本当に意味を分かっているんだよな?」

「ええ。男性が色ごとの欲を覚えるようになったら、誰かと情を交わすけれど、その、初めて誰かと一つになることをそう言うと」

 恐ろしく露骨な説明だ、無垢な弟分に対するにしては。

「野田医師が教えたのか?」

「はい。鳥の交尾と同じようなことを、人間もやるのだというのは、随分前に教わっていたんですが、男女が子を作る時しか、しないものだと思っていたんです」

 セイはしんみりと続けた。

「同性同士でも、繋がろうと思えば繋がれるなんて、知りませんでした。まさか、夜に添い寝をしていた人たちの寝言が、睦言だったとは。あの人たちには、悪いことをしました」

 無感情に言う若者の隣で、ここの現場監督をしている、松本家の長男が無言で頭を抱えた。

 思わず唸ってしまう作業員もいる中で、水月は首を傾げた。

 学校という、未成年に保健体育の授業で教える内容で、そこまで分かるだろうか。

「繋がる繋がらないの話は、誰情報だ?」

「? 浅黄さんですが」

 何でも、姉経由で自分が教育を受けたと知った浅黄が、勉強のためと自分の本をプレゼントしてくれたのだという。

 初心者用ね、と笑いながら言われて受け取ったセイは、夏休みに入る前に読破していた。

「読破、してしまったのか」

「確かに、異性間と同性間の恋愛の相違は、文字制限かけたら、説明できないですね」

「そうか、そこに納得しただけか」

 感想が、それだけ。

 反応を楽しみにしているだろう、実の息子を思い浮かべ、少しだけ可哀そうになる。

 本当に、相手が悪い。

 それに、雅がエンに話すのを躊躇ったのは、このもろもろの、セイの暴露のせいだろうかと、疑ってしまった。

 件の授業の後、雅が野田医師と共に教えるはずの事情は、この話のもろもろのせいで、結局話されていないのではないかとも疑ったが、それでは雅側だけではなく、セイの方も可笑しくなったと、エンが心配するはずがない。

「……お前自身の話は、どうするのか決めたのか?」

 休憩時間が終わるすれすれに、水月はつい口に出した。

 それは曖昧過ぎて、意味不明だったが、相手には伝わるだろうとみての問いだった。

 立ち上がったセイは、静かに男を見下ろす。

「はい」

「そうか」

 無感情に答えられ、水月は静かに頷いた。

「エンに、ちゃんと事情を話してやれ。それくらいの接触くらいなら、許可している」

「いえ。あいつより先に、当事者に相談する方が、先です」

 座ったまま顔を見上げる男に、それにと続けた。

「……今後の事は決めましたが、まだ覚悟ができていません。もう一人の当事者に相談して、あの人の反応次第で、エンを含む大勢の援助が必要になると思うので、その時にまとめて、話そうと思います」

 こちらを見返す目は、相変わらず無感情に映るが、その奥に不安を押し隠しているのが、水月には分った。

 つい、表面だけの優しい笑顔ではない、笑みが浮かんだ。

「そうか。どうしても覚悟ができないようなら、また言ってくれ。お前の選択に沿えるよう、別な方法を考えよう」

 話をそう納め、現場を辞するべく立ち上がった。

 セイも現場監督に断りを入れて、水月と共に歩き出す。

 隣を歩く若者を見ないように空を仰ぎながら、全く違うことを口にした。

「本当に、ここの空気は澄んでいるな。山だから、という話ではないようだ。あの兎の穢れが、一気に抜けただけはある」

「古谷さんは、代替わりのたびに一度は、この場所を浄化しに来るそうですから。でも……」

 感心したような水月の言葉に答えたセイは、首を傾げた。

「あの人は、この山を出た後に、あんなに白くなったんですよ。ここではそれほど、変わっていません」

「?」

「どちらかというと、保育園の獣舎に移った頃に、一気に色が抜けたんです。しかも、一晩で」

「一晩?」

 初耳だった。


 兎が山に住み始めたのは、石川家から離れてすぐからだったが、その時は薄く赤みがかった黄色の毛並みだった。

「キィと同じ色で、私とも似た色だったんで、ちょっと嬉しかったんですけど」

 兎は、セイが父親違いの妹を養うことになった頃、山を下りた。

「もともと、獣として保育園で飼育されたかったようで……」

「旦那の養い親なだけある、変態的な願望だな」

「単に、自分で餌を見つけるのが、面倒臭かったのだと思います」

 野生にあるまじき考えだ。

 呆れる水月の横で、セイは無感情に話をつづけた。

「無事、獣舎に収まって、具合もよさそうだと、当時の古谷さんからの報告を受けた、翌日でした」

 その時はまだ、朱里を迎えていなかったが、女の子を住まわせるために、女たちの意見を聞いて、家具などをそろえている最中だった。

 結構バタバタとしているところに、古谷氏が駆け込んできた。

 歴代一の体格で武闘派だった古谷氏が、血相を変えて駆け込んできたものだから、相当な事件が起きたのかと思ったら、違った。

「ウノ殿がっ。真っ白になってしまいましたっっ」

 その場にいた者全ての心の声が、一致した。

 何が?

「目が白くなってしまっていたら、失明の心配がありますから。慌てている理由にもなるなと思ったんですけど」

 蓋を開けたら、体毛だった。

「あの色で赤目の方が、珍しいと聞いていたし、元々は白だったと聞いていたので、そこまで驚きませんでした。ただ、一晩で変わるのはおかしいし、なんとなく、お揃いの色でなくなったのは、残念だなとは思いましたが」

 古谷氏があまりに取り乱しているので、セイはとりあえず様子を見るために、保育園の獣舎を訪ねた。

「……あの人、元々呪いをもっていたんですけど、ご存じでしたか?」

「ああ……。呪いというより、どちらかというと、守護のようなもの、だったな。どうやら、カスミの旦那の伯母にあたる人が、無意識にかけたものらしい」

 それは徐々に消えていたのだが、水月と会った頃も、再会した頃も、まだまだ染みついていた。

「あれも、弊害があったんです」

「あったようだな。昔は、鳥肌を立てる音で呪いを解くなど、できなかったはずだ」

 出来ても、それなりの時間は食っていたはずだ。

 だからこそ、水月は呪いを兎に解かせることに、難色を示した。

 音の違いを真剣に聞き分けるために、長い間同性に触られるなど、絶対に無理だったのだ。

 もし鳥肌を立てる音で、という方法をとれるのならば、逆に簡単だった。

 水月に、そのまま触れればよかったのだ。

 それだけで、鳥肌を立てていた自信がある。

「その無意識の産物の呪いが、きれいさっぱり無くなった代わりに、目を見張るような変化で力が倍増していました」

 これは来たなと、セイは思った。

「……カスミが、一晩かけて呪いを消してしまったようです」

「どうやって?」

「分かりません。ただ、完全に昔の姿に戻ったはずのあの人が、その日は暗く落ち込んでいたんで、意に沿わない方法だったのではと」

 あの後、山にいた頃は頻繁に訪ねてきていたカスミを迎えていた時とは、明らかに違う対応を取り始めていたから、間違いない。

 無体なことはしていないとは思うが、それでも相当酷いことだったのだろうと、セイは何となく感じている。

「その辺りは、私よりも、当人に訊いた方が早いです」

「だな」

 山を下りて道路に出た二人は、最近できたバス停の前のベンチに、真面目に座っている男を見つけていた。

「……何を、やってるんだ?」

 呆れ顔で問う水月の前に、カスミは大きな塊を放り投げながら、真面目に答えた。

「お前が出てくるのを待つ間、その子の仕事を横取りして、遊んでいたところだ」

 セイが露骨に眉を寄せた。

 口を引き結んだ若者を一瞥し、水月は足下に投げられた塊を見る。

 両手を後ろ手に拘束され、猿轡までかまされた、がっしりとした体つきの男が数名、転がっている。

「……ああ、来るときにもいたな。誰を出待ちしていたんだ?」

「出待ちされても、一人で出てくるわけじゃないんですけどね、あの子は」

 それが分からない輩だと、セイは答えた。

「叔父上が、恐ろしく心配してしまった子供がいただろう? 今はもういい年なんだが、弱いというのは周知されているもんでな、叔父上の弱点認定されてしまったのだ」

 大沢忍を捕らえ、人質にしようなどという輩が、湧き水のごとく湧いて出ている。

「そういうと、清水に聞こえるぞ。どちらかというと、どぶ水のような奴らだろうに」

 真面目な揶揄にそう返し、水月は若者を見る。

「雑用とは、これの事か?」

 どうやら、現場の手伝いはついでらしい。

「バイトですら、ないので」

 つまり、給料は出ていない。

「バイトの許可申請が意外に複雑で。まだ年齢的にできる仕事じゃないんです」

 よほどの事情がなければ、許可が下りない年齢だという。

「暇だからは、理由になりませんでした」

「ああ、ならないな」

 それを聞いた松本社長が、給料を払わない代わりに、昼食を用意してくれているのだという。

 水月も勧められて昼食を共にしたが、中々豪勢な食事だった。

 セイ本人は何故か、握り飯をお気に召していたようだが。

「一口大は、小さすぎます。だから、沢山食べてるだけです。主食なんですから」

「一口大? そうだったか?」

 お手軽な趣向だなと思っていた男の心を読んだのか、セイは無感情に言い訳したが、それも疑問を呼ぶ。

「お前が、顎を外す勢いで大きく口を開けるから、そう感じるだけだろう」

「外れたこと、ないですよ」

 あったら、ああも大きく開けないだろうと、言い返そうとしてやめた。

 不毛だ。

 そんな毛色の違う美貌の若い男たちを、カスミが若干笑いを浮かべながら見守っていた。


 凌も大概だが、その愛弟子もお人よしだ。

 セイと別れて、水月と並んで歩き始めたカスミが、真面目にそう切り出した。

「どうもな、旅行に行く計画中に、大沢忍の身の安全を心配したのは、鏡月の方らしい」

「だからと言って、よりによって、旦那の子供にその心配を分ける必要は、なかったな」

「分けたと決まってもいないがな。セイ本人が、個人的に心配しているのやもしれん。しかし、適度に脅せば、どうにでもなる類だろうから、長期間の作業でもあるまい」

 凌という、強力な男を引き入れたいと目論んでいる連中が、ようやく見つけた弱味を放っておくとも思えない。

あまりに目に余るようならば、カスミの言うように、適度な脅しを敢行することになるだろうが。

「それは、旦那本人に任せればいいだろう。いつ戻ると?」

 世界一周する勢いとは聞いたが、帰国予定日は聞いていない。

 そんな水月に、カスミは真面目に答えた。

「闇医者を含む、臓器移植に携わる者たちを把握する作業を終えるまでは、帰らんだろう」

「また、物騒な旅行目的だな。松本家は、闇業を復活する気か?」

 あれだけ固い仕事に従事するようになった家が、そんな黒い話を進めるとも思えない。

「それとも、旦那本人の小遣い稼ぎか? 周囲に迷惑かけないよう、目を光らせる必要がありそうだな」

「何を言っている? お前の臓器が、誰かに提供される前にかき集めるために、決まっているだろう」

 水月の足が止まった。

 目だけで長身の男を見上げると、カスミの方も見下ろしていた。

「父上に、頼んでいるだろう? 寿命が尽きた後の、遺体の処置を」

 真面目に核心をつく言葉に、つい舌打ちする。

 この旦那にだけは知られたくなかったが、すぐに知られそうな気はしていた。

 律のように、知っても胸の内にとどめてくれるようならいいが、この人はこういう男だ。

 いいことでも悪いことでも、企みを承知している旨を、あえて報告してくれる。

「死んだあとくらいは、放っておいてほしいんだが?」

「そのつもりだ。私もお前は、さっさと地獄に行って、地獄の鬼どもと戦っているであろう、ランたちの加勢に向かってほしいと思っている」

 きっと、カスミと重の親戚たちも、そちらにいるだろうから、行先は修羅でも、それなりに楽しい場所になっているはずだ。

「……ああ、そうだな。面白そうだ」

 きっと、懐かしい面々もいるだろうと、水月は笑った。

 再び歩き始めながら言う。

「あんたが中々逝けない代わりに、存分に暴れたいな」

「そうしてくれ。代わりに、重殿は縛り付ける予定だから、こちらを気にする必要もない」

「本当に、あいつだけでいいのか?」

 揶揄い交じりの問いに、カスミは真面目に頷いた。

「まさかあんな姿で残っているとは思っていなかったが、これも一興だ。何を心残りとしているのかは知らんが、思い出すまでは話し相手になってもらうつもりだ」

 これは、兎ではできないと、男は言い切った。

「人間の、悪趣味な者を揶揄う話は、毎回途中でぶった切ってくるウノより、同調して一緒に行動に参加してくれる幼馴染の方が、話し相手としても楽しい」

 兎は、癒しで利用させてもらうと、カスミは真面目に話を収めた。

「……利用目的で、姑殿の呪いを、解いたのか?」

「呪いというほど、強固なものではなかっただろう。あれはな、解けなかったのではなく、ウノ自身が、あの呪いを縛り付けていただけだ」

 カスミと重は、幼馴染で従兄弟同士だ。

 カスミの母親が、重の父親の妹なのだ。

 生贄として赤黒い兎の獣が生け捕られたのは本当だが、実を言うと生贄に出来ないと判断されていた。

 成長したカスミは、兎が自分の暖を取る懐炉代わりになった経緯を、伯父夫婦に聞いていた。

「私が父に引き取られることが決まり、ウノを死なせないように脅しに行った時に、聞いた話だ。あの兎は、他の獣の返り血の色が落ちないほど、穢れに満ちていて、生贄にはできないと判断されていたそうだ」

 兎は穢れ過ぎて、低位の獣に堕ちていた。

「低位に堕ちていたからこそ、魚の獣などに目を付けられて、散々な目にあっていたのだ」

 伯母のかけた呪いは、ごく些細な願いだった。

 兎に、自分の孫たちも託したいと願った、親心だ。

「ウノは、人間に子供も獣の子供も、可愛いと思っているからな。獣の子供には触れられても、人間の子供に触れないのは、残念に思っていたのだろう。あの山で完全に消失しそうになっていた呪いを、自身で縛り付けていたのだ」

 だから一晩中、カスミは説得した。

 やんわりと言葉の限りを尽くし、褒め殺して宥め倒し、一握りほど残っていたそれを、手放させたのだ。

「あの魚は、もう近づけまい。害のあるものは、ウノが意識せずに弾くからな。いい気味だ」

「……一番、害があるあんたは、弾かれていないんだな」

「何を言う」

 本音の感想を口走ってしまった水月に、カスミは真面目に返した。

「私は、誰の害にもならんぞ。何故か、害認定されることが多いが」

「そうだな。やることなすこと、害意は見受けられないんだが。悪意はあるよな」

「勿論」

 真面目に頷いた男は、呆れる小柄な昔馴染みに言い切った。

「悪戯は、私の趣味だからな。それに反応する相手と向かい合うのが、楽しいんだ。お前にもいつか、分かる時が来る」

 それは、分かってしまってもいい域なのかと、水月は唸ってしまう。

 そこまでの域に達してしまうと、人間としては暮らせなくなる気がする。

「いいではないか。お前ならば、少しいじれば異形の仲間入りをしそうだ」

「いじるな。その手もやめろ」

 手のひらを上にして両手を掲げ、何かを緩く握るしぐさをする男を窘め、ふと顔を上げる。

 古谷家がすぐそこに近づいていた。

 その中に、娘とその婿候補が、揃っているのに気づく。

「ふん。犬も食わんような喧嘩に、親まで巻き込んでおいて、めでたいもんだな」

「賭けは、お前の負けになりそうだな」

「それはもう、無効だろう?」

 大昔の話を蒸し返され水月が軽く返した後、何故かカスミは意味ありげに微笑んだ。

「……何だ?」

 恐ろしく癖のある、珍しい笑い方だった。

 首を傾げる元右腕に、カスミは全く違う話題を持ち出した。

「いや、私も意図してはいなかったんだが……あのな、重殿を仕上げる段階で、お前の血が使われたんだ」

 カスミに形見分けされたのは、水月の利き腕だった。

 それを、譲り受けた父親はおもむろに、息子が手こずっている体の生成に、手を貸した。

 たった数滴、水月の利き腕から滴らせた血が、一気に重を覚醒させたのを前に、カスミはある疑問がわいたのだが、結果的に死んだ者との約束事を果たせたのだから良しとしようと、そのまま疑問を頭の端に押しやっていた。

「血縁の私の血には、無反応だったんだ。おかしいと思わんか?」

「あー、そうか」

 水月の口から珍しく、乾いた笑いが出た。

「これはもしかして、所帯を持ったのに子ができなかったのも、そういう理由か?」

「だろうな。お前も、罪な人間だな」

 真面目な揶揄い方をされても、溜息をつくしかできない。

「縁が結ばれる前だったから、セーフだと思うんだがなあ」

「これも、本人の考え次第で、どうしようもなくなるもんだからな。気づいてはいないのだろう? 気づいていれば、あれだけのチャンスを見逃す人では、ないぞ」

 子供連れとはいえ、男女で過ごした数年。

 エンが部屋に引けた後は、時々酒盛りをしていたから、そういう雰囲気になってもおかしくはなかった。

 そう指摘され、水月は苦笑しつつも頷いた。

「兄弟としての認識しか、互いにないからな。だが……」

 自分が怪我をして倒れた後、態度に変化があった。

「目を覚まして真っ先に飛び込んだのが、あいつの泣きそうな顔だったんだよ」

 あれ以来、頻繁に社宅に現れる。

「親しい人を亡くす気持ちが分かったと、今になって謝られても、それがどうした、という感覚なんだがな」

 主を失う時とはまた違う、奈落に突き落とされるような感覚を、水月も何度も味わった。

 そんな気持ちを、意図せず分からせてしまったことは、申し訳ないと思うが、謝るほどでもないだろう。

「そうか。お前が気にせずにいるのなら、私も気にせずにいよう。そろそろ、新しい肉体の作成を、始めようと思っていたのだ」

 真面目な言葉に寒気を覚えて、水月は大袈裟に震えてみせた。

「まさか、あれ以上小さく作り変える気か?」

「逆に、元の体を作り直して、私が女として相手するという手も……」

「やめてやれ。優が泣くぞ」

 異形の類は、人間が必死で手に入れた特技を、あっさりと吸収してできるようになるから、質が悪い。

 その標的にならないのは、本当にありがたいと、改めて思った。

「自ら命を絶つ行いをする気がないのならば、手を出さないと約束しておこう。賭けも、引き分けだったからな」

 昔馴染みの思いを受け、カスミはそうはっきりと約束してくれたが、そのまま薄く笑う。

「私よりも、叔父上の方が厄介だぞ。最も、あの人の場合、お前の臓器を得ても、どうしようもないが。それでもせめて一つだけは、手に入れたいと願っているはずだ」

 その願いは、水月にも想像がつく。

 だが、それを得たところで、何かが変わる保証は、ないように思えた。

「……鏡月の、視力を回復させたい、か。あれは、代償行為だったんだろう? 医療行為の移植で、回復できると思うか?」

「あの子次第であろうと思う。だが、可能性に賭けたいんだろう」

 そんな夢を見始めるとは、凌の旦那も変わったのだなと、水月はしみじみと思う。

 数百年余りの空白は、身近だった者たちを変えるには十分の時間だった。

「オレも、変わるべきか?」

「やめろ」

 つぶやいた言葉を拾ったカスミは、きっぱりと言い切った。

「お前は、そのままでいい。理由など訊くな。深い理由など、ないからな」

「……そうか」

 この旦那らしいと笑った水月は、昔馴染みを見上げた。

「あんたも変わっていないもんな。お揃いでいいな」

「そういうことだ」

 他愛ないやり取りをしながら、二人は社宅の前にたどり着いた。

 夫婦になるはずの子供たちを肴に飲みなおそうと、部屋に招き入れると、兎と幽霊も呼ぼうという話になり、その日は一晩中、昔話に花を咲かせながら、酒を飲み交わしたのだった。


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