最終章 夏の終わりと、箱庭の彼方へ
蝉の声が、耳元で鳴っていた。
まぶたの裏に透けるような光。ぬるりとした空気の重さ。
凛はゆっくりとまぶたを開いた。
そこは、あの日と同じだった。
小さなワンルーム。薄いカーテン越しの夏の陽射し。天井の白いシミ。
冷房の音がかすかに鳴っていて、テーブルの上にはペットボトルの水が置かれていた。
「……戻ってきた」
思わず口に出すと、自分の声があまりにも現実的で、泣きそうになった。
あの世界の空気、色、言葉――すべてが夢だったのかもしれない。けれど、胸に残る感覚だけが、確かに“旅があった”ことを語っていた。
ベッドから起き上がり、ゆっくりと部屋を見回す。
――何も変わっていない。でも、すべてが違って見える。
クローゼットの前に立つと、あの木の箱は、もうどこにもなかった。
そのかわり、床に一枚だけ白い紙が落ちていた。
拾い上げると、そこには一行だけ、柔らかい文字でこう書かれていた。
「書き続けて。あなたの人生は、あなたの物語だから」
それだけだった。誰が書いたのかはわからない。けれど、それは何よりも暖かく、凛の背中を押してくれる言葉だった。
洗面所で顔を洗い、髪を束ね、鏡を見る。そこには、見慣れたはずの自分がいた。だけど、その瞳の奥には、旅を終えた人間だけが持つ深い色が宿っていた。
スマートフォンを確認すると、転職先からの着信がいくつか残っていた。今日が“初出勤日”だった。
――現実は、待ってくれない。
それでも、凛はゆっくりと深呼吸し、制服に袖を通した。
鞄に万年筆を忍ばせる。いつかの旅路の名残。それが、今の凛にとっての“お守り”だった。
扉を開けると、強烈な夏の日差しが凛を迎えた。蝉の声が一斉に響く。汗ばむ空気さえ、どこか懐かしく愛おしかった。
階段を下りながら、凛はふと空を見上げた。
――あの世界は、もうないのだろうか。
けれど、その答えを求める必要はなかった。
心の中に、しっかりと残っている。
“箱庭”はもうない。でも、“その記憶”は、確かに自分を作ってくれた。
交差点の信号が青に変わる。
人々の流れの中に、凛は歩き出した。誰かと肩がぶつかっても、もう下を向いたりしない。
自分の人生は、自分の手で書き続けると決めたのだから。
ふと、耳元に風が吹いた。
あの旅路で出会った声たちが、ささやくように思い出された。
――「ありがとう」
――「あなたなら、大丈夫」
――「行ってらっしゃい」
夏は、もうすぐ終わる。
でも、凛の物語は、これからだ。
箱庭のリフレイン トモさん @tomos456
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