その翡翠き彷徨い【第57話 待ちわびる月】
七海ポルカ
第1話
……風が吹き込んだ。
異能の風。
【
出来る、と言っても望んでのことではない。
幼い頃は意識がいつもどこか醒めているようなこの感覚に、慣れることが出来ず苦痛だった。
リュティスの意志に関わらず、【魔眼】は周囲の魔力が動くと反射的にそれを感じ取り、警戒し、牙を磨ぎ始める。
第二王子が幾度もの暗殺の危機を避けて来たのは無論、必要以上に視野の広いこの眼のおかげでもあった。
その日も熱に浮かされすっかり鈍った脳のどこかでも感じ取った。
【魔眼】がリュティスの深い意識の底を目覚めさせたのである。
だが数日の間ずっと眼を原因とする発熱に苦しんでいたリュティスは、その不意に吹き込んだ風にどこか心地良さを感じていた。
息の詰まる城の中。
第二王子の不調は人々を少なからず緊張させている。
何かの弾みでその凶性の箍が外れるのではないかと思っているのだろう。
否定はしない。
『弾み』という表現を許す気はないが、確かにリュティスの中には日々を生きていく中で、自分の追いやられた苦難の道に鬱憤を溜めて、そこから抜け出したいと破壊衝動のように思うことが何度もある。
だが殺意を覚えてもそれを行使しなければ咎人にはならない。
それを制する意志と力があるのなら、人はどれだけでも悪夢に戯れていい。
魔術と同じだ。
人を滅ぼす術を知ろうとも、それを行使しなければ凶剣も知恵と呼ばれただけで終わる。
張りつめた空気の中に吹き込んだ風が、
熱の底から浮かび上がり出しそうだった悪夢の気配を霧散させた。
涼しい風。
常に業火を孕んだと言うべきリュティスを鎮めて行く。
……そういえば兄もそうだった。
魔力を行使出来る器ではなかったが、魔力自体はサンゴール王族として強力なものを持っていた。しかし兄の魔力の気配はいつも自分の側で、穏やかで涼やかなままだった。
父母の烈しい気性に触れながら育ったから尚更そう思うのかもしれない。
兄グインエルの容姿は母妃似だったが性格は全く違う。
あの男には母親のように頑なで、執拗で、昏いところがなかった。
しかしサンゴール王家の一族はメルドラン王の例に違わず、人格的にはむしろ烈しい気性の人間の方をよくこの世に生み出して来た。
グインエルのあの突然差し込んだ光のような温和な人格は、竜の一族のどういう因果を辿ってこの世に生み出されたものだったのだろうか?
リュティスはその特異な気性を疎み……そして愛した。
あまりに自分と違うと最初は遠ざけたが、何よりも自分に近しいはずの父王に憎まれ気付いたのだ。
同種だから愛せるとは限らないことを。
人が人を愛すのは、恐らく、例えその人間がどのように自分とは隔離した人格や姿であれ……愛すべき美徳を持っているからなのだろう。
グインエルは光だった。
時折リュティスの世界に射し込んだ。
疎みきれない光。
心を救われていたことを、伝えられないままだったということをふと……涼やかなその風の息吹の中で思い出していた。
(まぁいい)
そんなことをこまめに要求しに、化けて出る性格の兄でもない。
今頃自分の見たことも無いような天上の美しい花園で、気持ちよくうたた寝でもしているのだろう。
――――バタン。
窓が閉まる音がした。
リュティスは瞳を開いた。
部屋は暗い。
外はまだ夜のようだ。
頭はぼんやりと重かったがここ連日あった気分の悪さは消えていた。
側のテーブルに置かれた冷水をグラスに少し注ぎそれを一口飲んだ。
枯れていた喉が潤されて行く。
……一瞬、チカとグラスの水面が瞬いた気がした。
雷のような光だった。
ゆっくり外へもう一度視線を向ける。
夜はただ黒く、深い。
星の瞬きは密やかだった。
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