第4話

名前を呼ばれるたびに(美咲)


初めて名前を呼ばれた日のことを、私はきっとずっと忘れないと思う。


 その声は、予想よりもずっと柔らかくて、少しだけ迷っているような音色だった。

 「藤宮さん」――そう、あの転校生、神谷くんが呼んだのだ。

 ただそれだけのことなのに、心の奥で何かが静かに震えた。


 春の光が差す廊下。教室に戻ろうとしていた私の背中に、その声はふと触れた。

 振り向いたとき、彼は少しだけ戸惑ったように目を逸らした。

 でも、すぐにまた私を見て、少し照れたように笑った。


 「この教室、二年B組……で、合ってたよね?」


 どうってことのない確認だった。だけど、私はなぜか上手くうなずけなかった。

 胸の奥が急に熱くなって、声が出なかったのだ。


 結局私は、かすかに笑って小さく「うん」とだけ答えた。


 そのあと、何気ない会話が少しだけ続いた。

 どこから来たのか、とか。まだこの辺のことよく知らないんだ、とか。

 私はできるだけ自然に、いつもの調子で話そうとした。でも心はずっと落ち着かなかった。


 神谷くんは、普通の転校生には見えなかった。

 たぶん誰かと間違えた、とかじゃない。そんな曖昧な理由じゃなくて、もっと根っこの方――魂みたいな部分で、私は彼を知っている気がした。


 それは、たとえば遠い昔に夢で見た景色を、現実で見つけたときみたいな感覚。


 まるで、記憶が逆流してくるようだった。


 放課後。校庭のベンチに座って、私はひとり風に当たっていた。

 その隣に、神谷くんがそっと腰を下ろした。


 「さっきはありがとう。教室の場所、助かった」


 「……ううん。気にしないで」


 桜の花びらが、風に舞って彼の肩に落ちた。

 私は思わずそれを手で払って、はっとした。


 彼の肩に触れた瞬間、胸が大きく脈打った。

 その感触に、どこかで覚えがあった。


 ――ねぇ、どうして私は、あなたのことを知っている気がするの?


 その問いを喉まで出しかけて、私は飲み込んだ。

 だって、彼にそんなことを聞いても、きっと困らせるだけだ。


 それでも私は思ってしまう。

 名前を呼ばれるたびに、何かが始まるような気がしてしまうのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君に還る日 @NisimiyaMinato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ