君が還る日

@NisimiyaMinato

第1話

春の匂いが胸を刺す(蒼真)


春の風は、どうしてこんなにも懐かしさを運んでくるんだろう。

駅前のロータリーに降り立った瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。目を閉じれば、ほんの数秒前までいたはずの未来が、遠ざかっていくのがわかる。まるで、そこに確かに存在していたものが、音もなく消えていくような感覚だった。


改札を抜けて、見慣れた街の景色が目に飛び込んでくる。コンビニの看板、古い喫茶店、信号待ちの列。どれも十年前とほとんど変わっていない。でも、そこにある空気が、確かに「過去」なのだと教えてくる。


ここは、僕が生まれ育った町。だけど今は、僕にとって過去の世界だ。


どうして、こんなことになったのか。理由はまだわからない。ただひとつ確かなのは――僕が、時間を越えてしまったという事実だ。


気がついたとき、目の前にあったのは古びた自宅の前だった。塀のひび割れも、表札の錆も、すべてが僕の記憶の中と同じだった。でも、玄関のドアに貼られたシールは見覚えがない。細かな差異が、ここが十年前の世界であることを突きつけてくる。


ポケットの中には、見慣れないスマホ。操作しようとしたが、圏外表示のまま固まっていた。カレンダーアプリを開くと、「2025年4月2日」と表示されていた。僕がいた未来は2035年。やはり、僕は時間をさかのぼってしまったのだ。


その事実に戸惑いながらも、どこか懐かしさを感じてしまう自分がいた。十年前の世界は、何もかもがゆっくりとしていて、人も街も静かだった。


歩き慣れた道を進むと、桜並木が続く坂道が見えてくる。そこを越えれば、僕の母校――かつて通っていた高校がある。自然と足がそちらへ向かっていた。


坂の途中、制服姿の女子生徒たちがこちらに気づき、ちらりと視線を向ける。僕はとっさに視線を逸らした。年齢的には、たぶん僕も同じくらいの高校生に見えるのかもしれない。だが心は二十代のままだ。


校門の前まで来ると、懐かしいレンガ塀と鉄製の校章が目に入る。思わず足を止めた。ここで、あの頃のすべてが始まったのだ。


――そして、彼女に出会った場所でもある。


名前も、声も、手の温もりも、忘れたことはない。十年という時間を経ても、僕の心の奥底で、彼女の記憶はずっと色褪せなかった。


もし、また会えるのだとしたら。


この時間に僕が来た意味が、本当にあるとしたら。


そのために、僕はもう一度この世界で生きようと思う。

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