雪女は辛いよ

タイシンエル

第1話 冷房22度、それが命の分かれ道

「外気温が35度で湿度が70%か……。体感温度は考えなくても地獄だわ」


 そんな真夏の通勤ラッシュ、私は氷嚢ひょうのうを首に巻いて生きている。もちろん、見た目はシルクのスカーフ風に偽装している。怪しまれない様にね。


 というのも、実は私、雪女の末裔なんです。私の祖母が純血の雪女で母から人間の血が混ざった混血らしいのよね。そして、私が混血二世ってな訳なんだけどさ。


 どうやら、雪女の一族ってのは東北とか北陸とか寒冷地の山岳部に隠れて住んでいたらしいんだけど、明治以降の文明開化と共に人との混血や現代への順応が進んで人間社会に溶け込める様な肉体を得る者が増えたらしい。


「それにしても生きにくいわ。マジで……」


 毎年夏になると、こんな呟きばかりが無意識に増えてしまう。私は、都内のオフィス街で派手じゃないけど地味でもない感じの中小企業に勤めるOLの雪代ゆきしろユキ26歳。


 氷点下で本領を発揮する系女子なのです。でもこの現代、夏がヤバい。とにかく暑い。冷房はあるけど、それすら味方してくれないのが人間関係ってやつですわ。


「ユキさーん、また冷房、下げました?」


 朝イチで聞こえるのは、開口一番のクレームである。総務課の女子達が、プリントアウトの束を片手にじとっと睨んでくる。あの眼差しをほぼ毎日浴びてしまう。


 知らんふりしてデスクに座るけど、視線が痛くて辛い。ていうか熱い。いや、そもそも私が下げたんじゃない。私の体が勝手に冷気を吸い寄せてるだけなんですってば。


 でも、誰にも言えないのよ。だって、『雪女なんで』って言ったら、産業医送りかスピリチュアル系女子のレッテル貼り確定でしょ。だから、耐えるしかないのよ。


 冷房22度。会社ではギリギリの設定温度だけど、私には命の境界線なんです。24度になったらマジで融ける。心も体もね。だからこそ、雪女にとって夏は戦場なのよ。


 まぁ、そんな事よりもメールチェック。画面の輝度を少し下げる。まぶしいのは苦手なの。冬仕様の目だから。机の下では、保冷ジェル入りスリッパが冷たく光ってる。


 そして、コンビニで買った『本気のアイスコーヒー』とやらを一口飲んで、ふぅ……。と、少しだけ溶けかけた心が凍りなおす。マジで、今の時代って何でもあって助かるわ。


 私が子供の頃、祖母の話を聞いた事がある。雪女は、代々夏になると寒村に引きこもっていたらしい。あまり冷やすものや場所が限られるから自由に動けなかったらしいのよ。


 だから、こうやって冷えるグッズや冷たい飲み物とかが何処でも手に入る時代は雪女の私にとって対策が取りやすい。でも、決して楽では無いのは確かだよね。


「おはよう、ユキさん」


 後ろから声をかけられてビクッとする。振り返ると経理の川口くんが水筒を手に立っていた。と言うか、川口くんは毎回ヌメって来るからビックリしちゃうわ。


「今日も暑いね。ほら、これ」


 差し出されたのは、彼お手製の『キュウリミントウォーター』だった。常温なのに、なぜかひんやり感じる。河童の血、恐るべし。それに、川口くんのこれ、地味に助かる。


「い、いつも、ありがとう」


「ユキさん、ちょっと顔赤いよ。冷房、足りてないんじゃない?」


 その一言に、少しだけ私の心が緩む。この会社で唯一、私の異常体質に気づいても咎めないで居てくれる人。まぁ、たぶんだけど、川口くんは妖怪のハーフ。だって、湿度と水気に異常に敏感なんだもの。


「今日も冷凍庫、空いてたら貸すよ」


「うん。ありがとう」


 あれがなかったら、昼休みは本当に危ない。マジで。だって、私みたいな雪女は普通の人間よりも何百倍も熱中症になりやす体質なんだもの。何なら溶けて無くなるわ。


 そして、昼休み。食堂も暑いし、コンビニのイートインは満席。だから、私はそっと給湯室の奥にある業務用冷凍庫の裏へと潜り込む。ここ、冷気が漏れててちょうどいいのよ。


「ふぅ……。気持ち良いわ」


 私は、背中に冷気を浴びながら冷凍庫の壁にもたれて氷菓子をぱくりと口の中で転がした。すると、溶けかけた体温が少しずつ落ち着いて来て安心した。


「雪女の昼休みは、冷凍庫で決まりか」


 声をかけられて振り向くと、また川口くんがヌメっと現れた。彼ったら、気づくといつも私の側にいるのよね。と言うか、いないと私が倒れちゃうから助かる。


「これ、新しいの。冷やしトマトときゅうりのジュレ。効くよ」


「おばあちゃんかよ……」


 思わず笑ってしまう。でも、こんな風に気を許せる相手は本当に少ない。だから、彼の存在にいつも甘えてしまう。


「そういえば聞いた? 今日から新しい上司が来るんだって」


「え、知らない。と言うか暑いの無理。男はだいたい暑苦しい」


「あー。たぶんね。暑苦しいと思う」


 すると、川口くんが珍しく苦笑いする。え、やめてよ。満更でも無い顔をしてさ。だけど、社内で噂になってるらしい。川口くん曰く、火のように熱い男だってさ。


「え。やめて、名前に『火』とか付いてたらどうしよう」


「いや、それがさ……」


 まるで悪い予感の序章みたいに、その瞬間、食堂からブワッとざわめきが聞こえた。そして、更に暑苦しく感じた。雪女の体質は、感情によっても体温が左右されるからやばい。


「来たっぽいね。新しい上司」


「お願いだから、温度高くない人であってくれ」


 それから、冷凍庫の冷気がなぜか頼りなく感じた。私の、ほんの少しだけ下がった体温が、何故だか、またじわじわと上がり始めている様な気がした。

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