第55話 古刹へ

 翌日、早朝から志喜は一人バスに揺られていた。行き先は決まっていた。この旅で最初に足を運んだ古刹だった。

 停留所から約二キロ歩かなければならなかったが、志喜にとっては気になる距離ではなかった。急ぎ足になる。山門に着くころにはすでに肩で息をしていた。

 チコと会った林の中へ。

「確か、ここだったよな」

 そこでチコの名を呼ぶ。こだまと鳥の声が響いているだけだった。どんどん林の中を進む。チコの、そしてあおゆきの名を叫ぶ。しかし、ただ繰り返されるのは彼の声を、それとは無関係に鳴く鳥の声だった。葉擦れや風の音は、そこには誰もいないよと、答えているように聞こえた。

 林から出てうつむいていた顔を上げた。何の気なしに石段を見上げた。

 一匹のウサギが鼻を鳴らしてキョロキョロしていた。

「チコ!」

 志喜は駆け出した。ウサギはピョンピョンと石段を駆け上がる。観音堂の横を過ぎ、さらに奥の石段へと進み、駆け上がって行く。

「チコ! あおゆきさん!」

 志喜は息を切らしてそれを追いかけた。ただ単にウサギが人間を見て逃げているだけ、とも思わずに。最初の邂逅。あれはウサギを追いかけた時から始まった。それを思い出し再会を期待する。鼓動が早くなる。それは単に走っているだけではなかった。

 石段を駆け上がると、小さな堂があった。字が薄くなった案内板が長い月日の経過を感じさせるくらいに古びていた。奥の院とかすかに読めた。その前にウサギが静止していた。けれど、志喜にはそこまで関心を払う余裕がなかった。鳥の声も葉擦れも風の音も、自分がする呼吸の音も彼には聞こえていなかった。

 堂の木陰から現れた姿に目が釘付けになっていたからである。あおゆきが優しい笑みを浮かべ、ウサギの頭を撫でた。戦闘フォームだった。ウサギは大役終了とばかりにどこかに駆けて行った。

「あお……」

 あれだけ叫んでいたのに、志喜はその続きの名を声に出すことができなかった。胸の高まりが喉を押しつぶしていた。

「都筑君、やはり来てしまったんだね?」

 志喜は黙って頷いた。

「都筑君、本当にありがとう。君には感謝の念をどう表していいのか、見当がつかないくらいだ。そして、もう一度言わせてほしい、すまない、傷つけて」

 志喜はやはり黙ったまま頭を横に振る。

「これが最後だ。人とあやかし。君がこれ以上こちらに関わるのはやはり芳しくない。だから、別れだ」

 あおゆきはいつもと変わらず冷静な口調で事実を述べる。それを聞きとめて志喜はグッと身に力を入れた。そして次の瞬間には頭よりも先に身体が動いていた。

「良かった。本当に良かった。また会えて。消えてなくて、本当に良かった」

 志喜はあおゆきを抱きしめていた。彼にとって女性を抱きしめるというのは初めてのことだった。だから力の加減が分からなかった。

「都筑君、少し強いよ。また具合が……」

 そう言いながら、あおゆきは人の、志喜のぬくもりを感じつつ、その頬をわずかに赤くした。自覚はなかったが。そして、戦闘フォームはセーラー服姿になった。

「ごめん、でも今の僕は何をどう言ったらいいのか分からない。君に守ってもらった日々、君と意見が合わなかった時、チコと三人で並んで歩いた時、頑固な君がたまに見せる微笑みが……だから、僕は……」

 その先はなかった。言葉が浮かばないだけではない、身体が声を押し殺していただけでもない。言葉にすると何か胡散臭い気がして言えなかったのだ。

「また具合が悪くなってしまうぞ。私に、あやかしに近づいていると」

「かまうもんか、平気だよ。ぞれくらい」

 あおゆきは目を閉じて思った。

 ――ああ、そうか。私はこの人を守りたかったのか。姫様を口実にして。この人の優しさに心打たれ、この人の傍にいて、微笑みかけて、こんな言葉を言っていてほしかったのか。なんだろう、この胸のあたりのあたたかさと息苦しいような感じは。この感覚をずっとと思う。けれど……

 ゆっくりと、あおゆきは志喜の身体を遠のけた。

「都筑君、私には使命がある」

 志喜は、彼女の目が真っ赤になっているのに気付いた。あおゆきは、戦闘状態になってもいないのに。

「それ、聞き飽きたよ」

 鼻を啜ってから志喜は冗談めかして言った。

「そう、あおゆきには使命がある」

 重低音が聞こえた。志喜の耳元に、いつぞやに聞いた、チコの祖父の声だった。

「都筑志喜殿。これまでの経緯、感謝する。あおゆきが言っているように、人とあやかしのわずかばかりのひと時が終わりを迎える。そなたの中にあるチコとあおゆきとの日々の記憶を消す。それがそなたの新しい始まりとなる」

「止めてくれ! 忘れたくないんだ。思い出もこの気持ちも」

 徐々に意識が遠のいていく。すでに祖父からの術が執行されているのだろうと志喜は思いながら、薄れていく意識の中で彼は叫んだ。あおゆきに届くように、あおゆきに届けと願いながら。

「僕はまた来るから。絶対に会いに来るから!」

 そして彼の意識は切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る