第20話 エリクサー
日の出前の調合部屋は、ほのかな光に包まれていた。窓の外にはまだ朝日は昇らず、白みかけた空が、少しずつ夜を押し返していく。
準備の整った器具たちは、静寂のなかで息を潜めるように佇んでいた。
調合台の上には、準備してきた素材が静かに出番を待つように並べられている。
深く群青に揺らめく青藍石。
ほのかに銀色の光を放つ月の雫。
翡翠色の風に、青く透き通る水。
赤く脈打つカーディナイト。
抗いようのない依頼と、静かに忍び寄る病。
そんな理不尽に、呑まれぬよう、流されぬよう。
積み重ねてきた意志が、ついに形を成そうとしている。
ネマは調合台の前に立ち、改めて器具を点検していた。
「……今更だけど、水底と月で、良かったんだよな?」
急に不安になってカイルが聞くと、ネマは手を止めずに答える。
「それ以外、考えられないけど……間違ってたら、お兄ちゃんのせいってことで」
「ひどくない?」
カイルが言うと、ネマの横顔にほんの一瞬だけ笑みが浮かんだ。
「でも、きっと大丈夫」
それは自分に言い聞かせるようでもあった。
点検を終えると、ネマは調合台に向きなおり、深く息を吸った。
肩の力を抜いて、魔力の流れを整えるようにゆっくりと両の手を開く。
「……始めるね」
カイルは頷いた。
ネマが調合台の魔法陣に手をかざすと、低いうなり音と共に魔法陣が淡く発光した。
まずは、温めておいた高位の鎮痛ポーションを魔法陣の中心へ注ぐ。透明な液体は、魔法陣の上で球形を保ったまま静かに浮かび、淡く揺れていた。
続いて、水の元素素材を一滴ずつ加えていく。青く澄んだ液体が、中心の球体に吸い込まれるように溶け込み、ゆるやかな渦となって回っていく。
ネマは風の素材の瓶を手に取り、慎重に栓を抜いた。翡翠の霧がふわりと立ち昇り、ネマの魔力に導かれて液体の上層へとゆっくり吸い込まれていく。
あらかじめ魔力炉で溶かしておいた青藍石は、深い群青色の液体となり、表面に淡い発光を帯びていた。
ネマは、黒曜石の保護ケースから月の雫を取り出し、青藍石の液と共に中心へと投入した。
魔法陣の紋様がかすかに脈動し、素材たちが互いに溶け合っていく。
そして、最後の素材に手を伸ばす。
ネマは、白布に包まれた小箱の留め具を外した。中には、深紅の光を帯びた結晶──カーディナイトが静かに鎮座していた。
ネマは指先を慎重に動かし、ピンセットで結晶を挟み取った。魔力の乱れが構造に影響を与えないよう、息を整えてから、結晶を魔法陣の中央へと浮かべる。
その瞬間、魔法陣の光が一段と強まった。素材たちの魔力が応じ合い、まるで長く求めていた欠片がはめ込まれたように、静かに一つへと結びついていく。
ネマは両の手をわずかに開いた。調律の最終段階──魔力の流れを制御し、すべての素材が調和する状態に導く。
光が、魔法陣の模様の隙間からにじむように溢れ出し、中心の液体と結晶を包み込んでいく。
ネマは、言葉を発さず、ただ集中していた。ほんの少しでも気を緩めれば、すべてが崩れてしまうことを知っている。
そして──
魔法陣が、淡い振動とともにその輝きを収めていく。
最後に中央に佇んでいたのは──無色透明な液体だった。
あれだけ色とりどりな素材を注ぎ込んだはずなのに、まるで最初から何もなかったかのように。色も、沈殿も、匂いすらない。
ただ、完璧なまでの静謐を保ったまま、宙に浮いていた。
ネマは小さな瓶を取り出すと、慎重にその液体を封じ込めた。
「……完成、したんだよね?」
カイルが困惑を隠せずに尋ねると、ネマは静かに頷いた。
「そのはず」
がらんと静まり返った調合部屋の中で、二人はしばらく瓶の中で光を反射するその液体を、ただ見つめていた。
「……本当に、これで合ってるのか?」
カイルは言いようもない不安に駆られて口を開く。
「なにが」
ネマは少し訝しげにカイルを見た。
「だって……見た目は、どう見てもただの水にしか見えない」
ネマは肩をすくめて言った。
「……お兄ちゃん、こういうときだけ妙に慎重だよね」
少し困ったように笑ったが、すぐに真顔に戻って続けた。
「でも、大丈夫。本物のエリクサーだって、証明する方法がある」
「証明?」
カイルの疑問に、ネマは物語るように答えた。
「エリクサーは”万物を癒す薬”。古の錬金術師たちは、本物のエリクサーであれば、この世の最も基礎的な元素すら
「どんなテストなんだ?」
「……見せた方が早い」
ネマは棚からいくつか器具を取り出し、手早く準備をした。
「まずは、水の治療。濁った水に与えれば、その水は澄み渡る」
ネマはビーカーに濁った水を入れ、瓶の中の液体を一滴だけ垂らした。瞬間、水の濁りは消え、凪いだ湖面のような静けさと透明さを取り戻した。
「次は、火の治療。弱った炎に与えれば、燃え盛る」
小さなランプの火に一滴垂らすと、炎は一瞬揺れ、やがて橙から青白い光に変わって、勢いよく燃え上がった。ネマは眩しそうに目を細め、カイルも思わず一歩引いた。
「そして、土の治療。病んだ金属に与えれば、輝きを取り戻す」
錆びついた金属片に、ネマはエリクサーを一滴を落とした。 しばらくして錆が音もなく溶け、金属光沢が浮かび上がる。
ネマは瓶の栓を閉じると、それを静かに見つめた。
「間違いない。これは……本物」
その声は震えていたが、確信に満ちていた。
カイルは、夢にまで見た伝説の秘薬が、いま目の前にあるという現実に、しばし言葉を失った。
「……やったな」
ようやく絞り出すように言った。口に出して初めて、実感が伴ってくる。その実感は、じわじわ熱を帯びてカイルの胸に広がっていく。
「……やった。やった……やったんだ!!」
カイルはその瞬間、ネマに抱きついていた。
「ちょ、なに……」
ネマの困惑した声が聞こえた。カイルは涙で視界が滲むのも構わず、ネマを強く抱きしめた。
ようやく、辿り着いたのだ。
ネマが病に侵されきる前に。
間に合った。
ようやく、全てが報われたのだ。
ネマは少し気だるげにしながらも、カイルにされるがままにしていた。
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