第二楽章

「あっ、死ぬって認めた」

 図星をつかれた彼女は、心底軽蔑の目で私をみている。奇遇、私も同じようなもの。でも、軽蔑じゃない。これは憐れみ。人をいじめておいて、それでもなぜか自殺を選ばないといけない彼女を憐んでいる。

「ほら、邪魔はしないから、ね?」

 チッ、っと舌打ちをして楓は扉を開ける。普段からそんぐらい物分かりがよけりゃいいのに。普段は学生モデルとやらで、私より身長も高いし体型もスリムだし顔も可愛いし、おまけに私より頭が悪い。ムカつく。

「うわぁ、まあまあ高いね」

 恥ずかしながら私は高所恐怖症というやつで、屋上から見下ろすのはなかなかきついものがある。

「じゃ、私飛び降りるから、1人にして。邪魔なんだよ、お前」

 彼女の隣に立って、下を眺める。

「うーん、16mか17mかぐらいかな。4階建てだし」

「ちょっと、邪魔だって言ってんだろ」

「いいの?こっから飛び降りるんでしょ。飛び降りって、ギャンブルじゃない?」

 鬱陶しそうな顔で私を見る。困れ、困れ。

「知ってる……人って、理論上は1万mから落ちても、助かる可能性はあるんだよ」

「それが、どうしたの」

 おお、ちょっと声が震えてる。本当はわかってるくせに。

 私はフェンス越しに、地平線へ手を伸ばした。掴めそう、なんて思っちゃいないけれど。

「こんな高さで本当に死ねる?飛び降り失敗した人、SNSでよく見るけど悲惨だったなーって思い出しただけ。私はやめた方がいいと思うけど。知ってる……アメリカだと、飛び降りってあんまりされないんだよ。一番は銃。一発ですぐ死ねる。それでも未成年は銃を持てないから、二番手には首吊りが来るらしいね。それでも、飛び降りを選ぶってどうなのかなって」

 もちろん、個人の感想だけどね、と付け加える。死にたいのに死ねない。その苦しみは想像を絶するだろう。私だって嫌だ。それを想像した楓はまあ、案の定震えている。不確定の死を目の前にした人なら、ほとんどの人がこうなるだろう。

「じゃ、私もう行くから、お好きにどうぞ」

 ここで1人にする。楓が1人で死の恐怖に耐えられるような人間じゃないことは、これまでの学校生活もとい、いじめの経験から容易に想像できる。まあ、いじめが続くのも癪だけど、死なれるよかマシだ。一緒についてきてしまった以上、学校のどっかにある監視カメラには彼女についていく私が写ってしまっているはず。

「ねえ、待って」

「ん、どうしたの?」

「一緒に、飛び降りてよ」

 ……は?

 

「憐憫に咲く」序盤のシーン。あまり僕はこの場面が好きじゃなかったけれど、世間的には良かったらしい。主人公東雲鶴花しののめ つるかと主人公をイジメている雪村楓ゆきむら かえでの物語だ。

 初めての長編小説だったものだから、やっぱり感慨深い。

 作中ではイジメの描写がちょくちょく出てくる。僕自身小さいイジメは沢山あったけれど、凄惨なイジメを受けたわけじゃなかったから、色んな人にどうしたらいいかを聞きまくっているうちに自分まで陰鬱になった覚えがある。でも、書いていくうちに物語を作ることが楽しみになっていって、気付けば現在に至った。

 この物語は、小さなイジメの雨から助け出してくれた朱莉へ捧げるものだった。

 だから、後書にはこう綴った。


 今までに生まれてきたいのちへ

 これから生まれてくるいのちへ

 今生きているいのちへ

 たった1人の女性へ

 困難であった時、私を助けてくれた全てに感謝を捧げます。


 


 「本郷さん、長編の二作目、書きます」

「おお!ほんと!?」

「はい、実はプロット自体はもう作ってあったんです。一作目ができてからすぐ、勢いで書いちゃったんですけど」

 相変わらずハイボールを飲んでいる本郷さんは、まるで自分のことのように喜んでくれる。いつだって本郷さんは僕に優しくしてくれている。

 いつもの居酒屋にはテレビが置かれていて、僕の「憐憫に咲く」が文庫化した宣伝のCMが流れていた。その話は聞いていたけど、こんな感じになったんだ。

「後でデータ送りますね」

「会社のみんな待ってたんだよ!もちろん私も!でも、なんでいきなり書こうと思ったの?」

「宿題、あったじゃないですか。中学校の時の友達と連絡を取って、そこからモチベーションが上がったというか」

「えー!やっぱりやってよかったでしょ?」

「はい、おかげさまで」

 朱莉は、どこにいるんだろう。彼女が眠る墓とやらに案内されたけど、そこにあったのはただの石だった。母を名乗る綾子さんはその石に手を合わせて泣いていたけど、それは石だったじゃないか。もしかしたら、どこか遠くへ逃げてしまったのかもしれない。、まだ悔いているのだろうか?正直に言えば、許しているわけでもない。僕の心は、まだ傷つけられたまま。

 ウーロン茶を飲み干すと、本郷さんがおかわりを聞いてくるので笑顔のまま、要らないですと答えた。

「三明君さ」

「はい、なんですか?」

「何を隠してるの?」

 酔ってるとは思えない真剣な眼差し。その目には明らかな疑いの意が込められている。いなくなった片思い相手を探すために小説を書きたい、なんて言ったらどう答えるだろうか。

「何をって、そんな隠してる前提みたいな……」

「編集はね、何も小説に関わるだけじゃないの。マーケティングとか、営業だってする。でも、いろんな仕事の中で一番大切なのは作家のメンタルケア。こう言っちゃうと申し訳ないんだけれど、出版社にとって、作家というのは大切な利益を作り出すリソースなの。会社は結局のところ、お金を得ないと潰れちゃうからね。だから、私たちは本を売ることも重要だけど、人を見る力が一番大切なの」

 僕の知らない世界だった。もちろん、製本に携わることだけが仕事じゃないことぐらいは考えついていた。なるほどそうか、こうやって定期的に食事に誘われるのも、極めてビジネス的なものだったのか。つまり、僕がもし失敗をして小説家だと思われれば、すぐに捨てられるのだろう。

 

 甘かった。これが、大人の世界。まだ高校二年生の僕なんかが、生半可に介入するべき世界じゃなかった。結局のところ、僕は金のために罠に誘い込まれた小動物。そう考えると、全ての辻褄が合う。僕なんかが一作目でヒットを起こせた理由。こうやって本郷さんに優しくしてもらっていた理由。僕の小説が、お金になることへの抵抗感。大人の世界、社会とはすなわちお金だった。

 僕は、そんなもののために文学を使いたくない。

「ごめんなさい、僕、帰りますね」

「え、いきなりどうしたの?」

 本郷さんは困惑した様子を隠さずに僕を引き止めようとする。やめてください。僕は、目的を持って書いていたわけじゃない。でも、書くことに理由をつけるのなら、朱莉のために書きたい。それがお金に変換されるぐらいなら、死んだ方がマシだ。

「これ、お金置いときます」

 少し多めに財布から取り出し、本郷さんの前に置く。本郷さんは目をパチパチとさせながら、僕を見ている。

「プロットは送ります。長編も書きます。でも、これで……お金のために書くのは最後にしたいと思います」

「待って、本当にどうしたの!?何かあったんでしょ。まだ三明君は子供なんだから、大人に相談して……」

「そうですね、僕は子供です。それでも……会社の皆さんに、期待されてここにいます」

 会社の利益になるから。僕の小説を、お金にすることにどれだけ力を入れてくれていたのか。僕には想像できない。想像したくない。

「だから、冷静に、ね?疲れたなら、休めばいい。受験のこと?それか、ご家族の方とか……」

「これは、僕と文学それ自体の問題なんです。だから、誰かに相談なんてできないんです。休むこともできない、だって、問題は僕の頭の中にのみあるんです。頭の中にあるなら、それは僕が解決すべき問題なんです」

 全ての悩みは、対人関係からくる。もし僕に対人関係がなければ、確かに悩みなんてないだろう。朱莉のこと、お父さんのこと、社会のこと。でも、それは僕にとっての文学との繋がりすら消してしまうことになる。折り合いを付けないといけないのは理解している。それでも、今はどうするべきかわからなかった。逃れることはできない。僕の頭の中に存在するのだから。

「……うん、わかった。まだ高校生なんだから、悩むべきだと思う。でも、もし誰かの助けが欲しいなら、私にでも、友達でも相談して。それが条件」

「……ありがとうございます」

 お辞儀をして、お店を去る。ああは言ったものの、誰かの力を頼るなんて無理だ。

 お父さんには、いつも大変な思いをさせていたな。

 お店の外は、満点の星空。都市部といえど、田舎の方だと街頭やお店が少ないから、星がよく見える。朱莉ともよく見に行っていたっけ。学校の宿題でちょっとした天体観測をしたり、海を見に行ったりしたっけ。

 そうだ、海。朱莉は、学校で嫌なことがある度に僕を誘って一緒に海に行ったんだ。砂浜に敷物も使わず座り込んで、ただ黙って海を眺める。彼女の気が済むと、また立ち上がって一緒に帰る。僕はそれが嬉しかった。もちろん、彼女に何か嫌なことがあると言うのは辛いことだったけれど、それでも辛い時に一緒にいる人間として選ばれていることに、優越感すらあったのかもしれない。

 海に行けば、彼女に出会えるかもしれない。なんとなく、そんな気がする。何かあった時彼女が行くとしたらそこだ。早く居酒屋を出たから、今から行けばちょうど20時ぐらいに着くだろう。スマホを取り出して、地図アプリから海の近くにピンを刺す。人工音声が、海への案内を開始した。


 最終バスに乗り込むと、僕以外にも2、3人乗車していた。そのうちの1人は赤ん坊を抱いている。乗車してしばらくすると、赤ん坊が泣き出した。うるさいな。でも、赤ん坊に沈黙を求めるのなんて無理な話だ。

 赤ん坊は苦手だ。一番神様に近い。自分の世話をしなくたって、他の誰かを頼ることができる。まだ他人との会話が出来ないから、親やその周辺の人間は赤ん坊に誇大とまで言えるほどの期待を募らせる。小さな神様。僕はずっと独り身でいい。小説を書いて、誰かに読んでもらえるならそれでいい。なぜ、人は子供を残そうとするんだろう。

 バスに揺られて2、30分。自分以外の乗客は降りてしまい、すっかり静けさがバスに乗り込んできた。

 朱莉と一緒にこのバスに乗るときはいつも僕が先に寝ちゃって、起こしてもらってたっけ。でも、僕の隣にはいないから寝るわけにはいかない。こんな夜中に1人、家から遠いところで置いてけぼりはごめんだ。なんて思っていたけど、よくよく考えればこのバスが最終バスなのだから、どちらにしろ同じか。

 

 海岸は、最終駅の一駅手前にあった。バス停の近くには踏切があって、その遮断桿の向こう側に海がある。

 こんな田舎の海辺はやっぱり人がおらず、ほとんど山、自然、海、そしてちょっとの人工物。

 からん、からん、からん、からん。暗くなった風景に、踏切の音と警告を表す赤い光が満ちる。

「ねえ、ちょっとスリルが欲しくない?」

 そう彼女が笑いかけると、何を思ったのか僕の手を引いて下がり始めた踏切の中に突っ込む。

「何してるの!?」

 彼女の手から離れようともがくけど、彼女の力には勝てない。彼女はバレー部でそこそこ力強い一方、僕は新聞部の幽霊部員。筋肉も少ないから、抵抗も一苦労だった。腕を掴んでいる彼女はというと、じっと遮断桿の向こう側の海を見ていた。

 からん、からん、からん、からん。踏切の警告音がずっと耳に入ってくる。遠くで、車輪の擦れる音が聞こえてきた。それにも関わらず、朱莉はずっと海を見ている。その間も僕はずっと抵抗してたが、いきなりきゅっと彼女の手にさらに力が加わって、今にも握りつぶされそうになる。

「ちょっと、轢かれちゃう!」

「3、2、1」

 さっきからずっと数えていたのか、カウントダウンを終えると今度は海側の遮断桿の方へ思いっきり引っ張られる。

「おわっ」

 腑抜けた声を上げながら彼女に続く。踏切を渡って10秒ぐらい。さっきまでいたところには、試運転だろうか、電気のほとんどついていない電車が高速で走っている。

「うーん、もうちょっとだったか」

「死ぬとこだったでしょ!」

 僕の叱責にもほとんど反応せずに、海の方に歩き出す。仕方ないから、僕もついていく。

「さっきの、何のカウントダウンだったの?」

「私たちが知り合った日の分だけカウントダウンしてた」

「嘘でしょ、もうちょっと早かったら死んでたじゃん」

「そうだね、死んでた」



 からん、からん、からん、からん。

 気付けば僕は踏切の中で立ち尽くしていた。あの日のように。僕を引き止めるものはいないから、すぐ逃げ出すこともできる。でも。

「これでいいのかな」

 そんな言葉が出た。もし、綾子さんの言う通り朱莉が死んでしまっていたのなら。もし、朱莉が生きていたとして僕を嫌っていたのなら。もう、僕はいらない。元はと言えば、小説を書くのは……僕が書きたい、そう望んでいたから。でも、小説を外の世界へ公開する、と言うのは、彼女のためだ。

 でも、彼女のため、なんて言いながらも、無意識下で僕はお金のために小説を書いていた。たとえ僕がお金を望んでいないとしても、結果的にはお金は僕に付きまとう。彼女のため、僕のための小説。それにお金はいらない。ただ、彼女がいるのなら僕もここにいる。でも、いないのなら……

 からん、からん、からん、からん。車輪の音と、踏切の音。あの時と同じ。

 ただ小説を書くだけじゃ、生きていけない。


 四つん這いになって、だらしない姿のまま肩で息をする。結局、怖くなって踏切を渡ってしまった。踏切を出てすぐ、電車が風を切る音が後ろからしてきた。もうすぐで、死んでいた。死ぬのは怖い。結局のところは。だって、死んだら死ぬじゃん!死ぬと言うことは、無限に枝分かれした可能性をぶった斬るようなものだ。死んだ後、天国だとか地獄に行くとかは信じていない。やっぱり、死は空白にしか見えない。死後の世界なんて信じていない。

 息を落ち着かせて、なんとか立ち上がる。どうせ時間はあるのだから、急がなくたっていい。それでも、もうすぐで朱莉に会えるかもしれない。そう考えると、自然と足が動く。波打つ音が聞こえてきて、海が近いことをより認識できた。

 満月だ。最初に見た感想はそれだった。海はどこまでも黒くて、こんな暗い中だと存在するかさえ怪しい。でも、海水が光を反射すると途端に照らされた水面が揺れ始めて、広大な海の一部分が強調される。僕はその光景が好きだった。たぶん、彼女も。

「朱莉?」

 その姿を探す。こんな暗いと、探すのも一苦労だ。朱莉、朱莉、そうやって声を出すことでしか、彼女を見つけることはできない。この声はほとんど祈りだった。無事であるように、まだ僕を愛しているように。

 でも、返答はなかった。海はどこまでも冷たい。そう、どこまでも。今思えば、彼女は死にたがっていたのかもしれない。僕を傷つけた日から、それは特に。手首を切るとか、薬を大量に飲むとかは聞いたことはなかったけれど。崖の上から底を見渡した時、つい吸い込まれしまいそうなあの感覚。ずっと彼女からはそれに近いものをずっと感じていた。

 踏切。海。彼女は、何を考えていたんだろう。

 彼女の名を呼ぶのをやめて、ただひたすら歩く。彼女と一緒に歩いた時と比べて、やっぱり狭く感じる。それに、寂しいよ。

 歩いて歩いて、やっぱり彼女の気配はないから引き返そうとしたとき、人影を見た。暗くてよく見えないけれど、朱莉に似た雰囲気。一瞬、朱莉だと思ったけれど、やけに大きい影がそれを否定する。

「清水?」

 返事はなかったけど、明らかにその姿は清水だった。月と、海が反射するその光で照らされている。ギターを掛けているが、手は動いていない。真っ直ぐ海に向いていて、立っているだけ。海に宣戦布告したとかいう偉人の話を、なんとなく思い出した。それほど、何か強大なものに意思を示しているよう。

 彼女の後ろに近づく。サクサクと砂が擦れる音を妙に感じながら。その間も彼女は全く動かない。

 そーっと肩を叩こうとした時、いきなり影が大きく動いた。

「ばーっ!」

 清水がそう言いながら振り返るのと同時に、僕の脇腹にギターが思いっきりぶつかって、ほぼ跳ね飛ばされる形で尻餅をついてしまった。

「あれ……当たった?」

「す、すごく……」

 そのまま力が抜けて、倒れ込んでしまう。

「え、ちょっと!大丈夫!?」

「しばらく動けない、かも」

 夜空を見上げてぐったりとする。綺麗だ。でもそれ以上に、まだ脇腹がジンジンと痛かった。呼吸するたびに痛むけれど、深呼吸しないと地上で溺れ死にしてしまいそうだ。しばらくこうしているうちに痛みも引いてきて、体を目一杯のばす。でもやっぱり動かすと痛い。

「落ち着いた?」

「ん……」

 夜空に手を伸ばして、曖昧に答える。急に、清水が顔を覗き込んできたからすぐ手を引っ込めた。

「ごめん、ギターのことすっかり忘れてて……」

「大丈夫、て言うか、なんでこんなところに?」

「軽音部入ってからさ、私、歌もギターもすっごく下手だなってすぐ気付いたんだ。だから練習したかったんだけど、家で音出してやるのも厳しくて。そんな時たまたまここを知って、夜練習するようになったんだ。あんまり人もいなかったし、警察なんかもいないから練習し放題!」

「練習し放題って、ギターとかアンプとかそのまま持ってきてるの?」

「どっちも練習用だから、砂とかはそんなに気をつけなくてもいいんだよね」

 へぇ、ととりあえず返しておく。そう言うところはあまりわからなかった。

「三明こそ、なんでここに?」

「あー、えっと、人探し?」

 良い言い訳が思い当たらなかったから、とりあえずぼかして本当のことを言った。

「人探し……さっきの朱莉、って人?」

「えっ?」

 よくよく考えればその名前を知っているのは当たり前だった。大声で名前を呼んでいたのだから、そりゃ分かる。

「でも、こんな時間に?なんか変なことしてないよね」

「し、してないからね?」

「わかってるわかってる。ここ最近は、私もここに入り浸りだったから。」

 初めて知った。霧島と三人で帰る時も、普段と雰囲気は変わらなかった。彼女は彼女で、音楽に向き合っているんだな。

「人探し……あっ、そういえば!」

 横たわる僕の隣に座り込んで、清水は話を続けた。

「実はさ、2、3週間前ぐらいだったっかな。ずっと海を見てる私と同じくらいの女の子がいたんだよね。」

 彼女を見る。ずっと海を見ていた。

「最初のうちは私も気にしてなかったんだけど、ずっといるもんだから話してみたの、そしたら、色々教えてくれてさ」

「なんだっけな。昔ひどい事をしちゃった男の子にあやまりたい?って。よく2人で夜の砂浜に来ていたから、もしかしたらここにくるかも、って言ってた」

「それって……名前は!?」

「女の人の名前は教えてもらってないけど、確か男の子の名前が……」

 ずっと海を見ていた清水が、こっちを見る。信じられないものを見るかのように。

「空」

 急いで上体を起こした。脇腹の痛みは気にならなかった。だって、その人は。

「その人って、ポニテだった!?身長は高め!?」

「お、落ち着いて!その、三明が探してた朱莉って人……」

「……うん、その人だと思う。酷いことって、まだ、覚えて……」

「や、やばい!その、隠してたんだけどその人……自殺したいって、言ってて」

 

 え?自殺?朱莉が。ああ、いや。そうだ。そういえば綾子さんが言ってたっけ。

 朱莉は首を吊って自殺したっけな。あはは。本当に死んでたの?朱莉。本当だったんだ。ああ、あの墓も本物か。母親も。なんだ。本当に。

 

「もう、死んだよ」

 

「もうって、嘘……」

「この前、朱莉のお母さんが家に来て教えてくれた。最初は嘘だと思ってたんだけど、清水が知ってるなら、本当なんだろうね」

 ああ、本当に死んじゃったんだ。朱莉の死を、認めたくなかった。逃げたかっただけなんだ。僕と朱莉の思い出に。

「その、ごめん」

「なんで謝るの?」

「私が、その人を止められたら、こんなことには」

「いいよ、もう。たらればは悲しくなるだけ」

 全てがどうでもいい。そりゃ、小説は書かないといけない。書かないといけないと感じるけれど、書きたい、と思える理由はもういなくなった。一作目の感想すら聞けずに、二度と会えなくなってしまった。全てが無気力だ。綺麗な夜空に浮かぶ星の一つ一つが、この体を刺して殺してほしい。もう、会えない。会えない。遺体となった彼女の姿すら見られずに、手の届かないところで、死んでしまった。

 虚無だった。死んだ後、天国とか地獄に行くとか、そういうことでもなく。ただただ虚無。僕には何も残されていなかった。

 何もないなら、涙が溢れる理由もない。立夏の夜に吹くこの涼しい風が、ただの物理現象でしかないことをより実感できる。ただ、ぼーっと夜空を眺めていた。ああ、星だなぁ。

「三明、なんで?」

「なんでって、何が」

「もっと、悲しい顔とか、涙とか、そういうの……ないわけ?三明だって、その人を探してたんでしょ!?なのに、何その顔。興味ないわけ?あの人、ずっと三明のこと待ってたんだよ!?」

 泣くなよ。なんで清水が泣いてんだよ。出会ってまだ一ヶ月も経ってないのに、僕らのことをわかった気になって。

「私を助けてくれた時、言ってたよね。物語で、人を殺したいって。朱莉さんが、その1人だっていうの!?」

「そんなわけないだろ!」

 違う。いきなり大声を出して立ち上がる僕に、清水は驚いて少し後ずさる。

「確かに、そうだよ!物語で人を殺せたなら、どれだけ小説家としてすごいことか!でも、朱莉は違う!殺したくなんてない!死んでほしくなかった!朱莉だけなんだよ!僕が小説を書く理由!」

 力いっぱい叫んでいるうちに、涙が止まらなくなっていた。なんだ、まだ残っていたのか。波打つ音が拍子を取って、僕はそれに合わせることもなく言葉を続ける。

「僕が小説家になりたいって伝えたのも、僕が小説を書く理由も、小説を書き続ける理由も、全て朱莉のためだった!朱莉が、僕の全てだったんだよ!」

 瞬間、左の頬に強い衝撃が加わった。脇腹にくらったギター程じゃないけれど、すごく痛い。一瞬何が起きたのか分からなかった。清水の手が離れた後も熱さにも似た痛みがじんわり広がっている。僕は彼女の目を見ることもなく、立ち尽くすしかなかった。

「ふざけんな!他人に理由ばっか押し付けて、三明はどうなの!?朱莉さんに出会うまで、三明は……空は、何もなかったって言いたいわけ!?」

「違う!僕は、小さい頃からずっと、小説を……物語を作らないといけないって、そんな漠然とした使命感で生きてた。ただ、その動機付けが……朱莉だった」

「そんなの、朱莉さんがかわいそうだよ……空だって、朱莉さんに自分を縛り付けてるだけでしょ……」

 清水の目には、ずっと涙が浮かんでいて、ぽろぽろと涙を流す。月明かりが、ここまで人を照らすのか。

「それは……」

 そう、なのかもしれない。もう、彼女はいない。死んだ人の言葉を言い訳にして、ずっと小説を書いていたって一体何になるというのか。僕には、新しい理由が必要なのかもしれない。小説を書く理由。物心ついた頃から僕について回る、何かを生み出さないといけないという曖昧な使命感だけでは、僕は本当に生きているとは思えない。僕は、僕の意思で小説を書きたい。

「……書きたいよ」

 僕の本音。

「それでも、小説は書きたい!朱莉の言葉だけじゃない!好きなんだ、物語るのが!」

「たかが数十万文字で人生が語れるわけない!でも好きなんだよ!だって、それでも、美しくて……」

 いろんな感情が、僕を襲ってぐしゃぐしゃに涙を溢した。声にならない叫びが、喉から飛び出す。足に力が入らなくなって、膝をついてしまう。砂まみれになるのも構わずに、朱莉と一緒に見ていた海を目の前にして僕は無力だった。

 ふと、僕の体が清水に抱かれる。絵本の中の母が泣きじゃくる子をあやすかのような、優しい抱擁だった。

「寂しいよ、朱莉……」

 



「うわ、髪の毛が砂だらけだし……」

 あの後、そのまま泣き疲れて少し眠ってしまっていたみたいだ。僕も服の中やら髪に砂が大量についている。片手で服をパタパタさせながら、スマホを取り出す。こっちも砂がついていたから親指で拭いてみると、ちょうどメッセージアプリの通知が来た。本郷さんからだった。とりあえず、時間を確認する。

「え、2時!?」

「待って、そんな寝てた!?」

 多分、ここについて水音と話して……12時ぐらいに寝てしまったのだろうか。2時間も寝てしまってたなんて、急いで帰らないと。

「もうバス出てないだろうし……どうしよう、清水」

「水音って呼んでよ、いい名前って言ってたじゃん」

 悪戯っぽく笑って、彼女も服から砂を落としている。どこを見ればいいかわかんなかったから、とりあえず後ろの方を向いた。

「途中、空って呼んでなかった?」

「いいじゃんいいじゃん、下の名前で読んだ方が仲良しって感じで。でも空の名前は、フルネームで呼びたくなるかも。やっぱりセンスいい!3回明ける空って、マジですごい!」

 さっきまでの会話が嘘みたいな明るさ。すぐ気を取りなおせるのは、水音の長所なんだろう。僕も見習わないといけないな、なんて考えてしまう。

「どうする?バス停で明日まで寝る?」

「んー、いいや。歩こうぜ!」

 ボディビルダーみたいなポーズを取りなが自信満々に答える。その腕に筋肉らしい筋肉はなかったけど。

「ギター背負ってるけど大丈夫なの?僕が持とうか?」

「いい、いい!軽音部って結構筋肉使うんだよ」

「え、嘘!僕良い部活なかったら軽音入ろうと思ってたんだよね……危なかった」

「まじか!入ってたら一緒にバンドできてたのにね!でもほんと筋肉使うよ。ライブの設営とか地獄。超ヤバい」

 水音が荷物を纏めている間に、本郷さんのメッセージを、確認する。

『お疲れ様。深夜にごめんね。居酒屋でのこと、あんなことを言って本当にごめん。この会社で初めて小説を書いた時からずっと、三明君が苦しんでいたことをやっと理解できた気がする。長編も、無理しないで欲しいんだ。実は最近、うちの会社でも小説投稿サイトを立ち上げたの。もちろん、それでお金が発生するとかは一切ない。確か、中学校の時にもネット小説を出してたって言ってたよね。そっちでの投稿をメインにしてみたらどうかな?』

 今すぐ返信するのも本郷さんに迷惑をかけてしまうかもしれないから、そっとスマホを閉じた。

 確かに、お金なんかに僕の小説が変わるのは嫌だ。大人はお金の話ばかりをする。僕は、ただ純粋に物語を描いて、みんなに読んでほしい。確かに、ネットでの投稿は魅力的だ。電子データとして、この世に存在することは今後も価値あることだろう。それでも、僕は紙の本が好きだ。なんで好きなんだろう。手触りとか、五感とかもそうだけれども。

 きっと、それはいろんな人が関わっているからだ。著者、編集、出版、会社。物流、販売店舗、広告代理店。もっと細かく考えたなら、一冊の本に何百もの人間が関わっているはずだ。

 その中には、お父さんも、本郷さんも、朱莉も、水音も、霧島も。僕を支えてくれるみんながいる。

 

 許していないのは、僕だけだった。



「想像以上にきついね……」

 森林の中に切り開かれた道路。道路の両脇に置かれたガードレールの反対側には木が呆れるほどに生えていて、奥の方を見ようとするのはちょっと怖い。幸い、街灯は定期的に設置されていて明るさは十分にあった。

 歩き始めて20分ぐらい経っただろうか。自ら歩いて帰ることを提案した水音が早速根を上げた。僕もきつい。

 流石に女子にばかり荷物を持たせるわけにもいかないから、ギター以外は僕が代わりに持っている。ギターこそ重そうだけど、「これが私の全てだから」と頑なに拒否するから仕方ない。

「自信満々だったじゃん、まだ1/4も歩いてないんじゃない……?」

「やめて、現実突きつけないで!」

「僕も受け入れたくない……ていうか、喉乾いた、ちょっと休憩しない?」

 ちょうど、自販機が見えてきた。僕のポケットから財布を取り出す。中にはせいぜい6、70円ぐらいしかない。そうだ、本郷さんに渡したぶんとバスの代金でかなり使ってしまった。いつも奢ってもらってるから少ないお金しか持っていなかった。

「やば、お金ない……」

「私も、財布ないんだけど!あ、でも交通IC使えるかな?」

 そういうと水音が小走りで自販機に近づく。がしゃん、と音がして、一本だけスポドリを買って戻ってきた。

「使えたけど、残高なくて一本しか買えなかった、ごめん……」

 と言って、僕に一本だけのスポドリを渡してくる。

「いいよ、水音が買ったんだから、飲んで飲んで」

「荷物持ってもらってるんだし、悪いよ、ほら!」

 ぐい、と僕に近づけるから、結露で濡れたそれを受け取る。

 ちょっとしょっぱいそれを一口飲んで蓋を閉めようとした時、水音が僕の手からペットボトルを奪い取って飲み始めた。

「やっぱダメ!喉乾いて仕方ないんだもん!」

「僕が飲んだやつ……」

「いいじゃん、私が買ったんだし、ね?」

 そういう問題じゃない気がするのだけれど。これしか飲み物が無いのだから仕方ないと言えば仕方ない。でも、やっぱり間接キスとなると、意識してしまう。

「そうだ、プロジェクトの小説にこんなシーンあったよね」

 また歩き出した彼女についていきながら、また緊張してしまう。

「え、どんなのだっけ?」

「ほら、アメリカで男の子2人が汚職警官から逃げる話。警官が殺人事件を起こしたのを、偶然見た2人が森の中まで逃げ込むやつあったじゃん」

 ああ、「憐憫に咲く」の3つ前に書いた短編か。よく考えれば確かに、今みたいな状況があったな。2人は無我夢中で逃げ出して、森の中で作戦を立てる。隣町の警察署までおよそ20km、体力も銃もある警官から逃げながら旅を続ける話。

 深夜、2人はモーテルで少ないお金を分け合い、まさに今みたいに1つの飲み物を分け合う。その時、警官を説得して、僕らは何も見なかったことにしよう。そう主張する主人公と、あの警官の不正を暴かないといけない、と主張する親友で対立する。

「空も読んだ?あれ、ラストどうなったんだっけ……」

「警察署目前で主人公が、汚職の証拠が無いことに気づいた。そこで主人公は警官を挑発して、わざと撃たれることで証拠を作って……」

「すご、よく覚えてんね!」

 まあ、僕が著者だからもちろん覚えている。

 少し風が吹いて、葉擦れの音が強くなる。歩きながら感じる風はどこか心地よくて、ずっとどこか遠くへ歩いていきたくなる。

「あれ読んで、水音はどう思った?」

「え、うーん……友情とか、自己犠牲とか?あと、旅の描写が好き、とかぐらいかな。空は読んで何を感じた?」

 読んで、というのは誤りかもしれない。書いているときに、僕が表したかったもの。

「目的のためなら手段を選ばないこと。世の中だと、これは悪だって思われがちだけど、本当は違う。何かのために最善を尽くすことがどれだけすごいことか。主人公たちもそうだし、警官もそう」

「でも、その警官は人殺しじゃん」

「そう。それでも、善悪なんて人によるでしょ?人を殺したから悪っていうのは、普遍的な価値観ではある。でもその価値観は簡単にひっくり返る。戦争のための殺人。復讐のための殺人。世界平和のための殺人。そういう奴らの当事者からしたら、むしろ殺人は善にもなる。だって、それは何かの「ためになる」ものだから」

「うーん、確かにそうかも。小さい頃、虫を潰して遊んでる時は命を奪ってる、なんて感覚がないのと近い感じかな」

「うん、それも一例。小さい頃なんて、虫を潰すのが楽しいから潰していた。楽しいことが、自分の「ためになる」行動だからだよ」

「なんか、プロジェクト本人と話してるみたい」

「そう?ちょっと嬉しいかも」

 少し間をあけて、水音が後ろ歩きでこっちを見る。どうしたの、と僕が聞くと。

「『AS=A=RARE』」

「アザレア?」

 突拍子もない言葉が飛び出してきて、酷く困惑してしまう。アザレアって、花の名前だったっけ。

「そう。ほら、これ見てみて」

 スマホを取り出して、何か操作したかと思うと僕に画面を見せる。後ろ歩きで、器用なものだ。動画配信サイトのチャンネル管理画面のようだ。画面にあるいくつかのサムネイルは見たことある気がする。人工音声の音楽。

「AS=A=RARE……チャンネル登録者10万!え、この画面って本人じゃないとみれないやつだよね、これって……」

「そう、私がAS=A=RARE。知ってたりする?」

「うん、まぁ、いくつか聞いたことある。ていうか、すご!」

 すごい。身近な人に、こんな人がいるとは思わなかった。ネットが発達した今、確かに何百万登録者の人たちは多い。それでも、高校生でここまで伸びるとは。

「そんなすごいもんじゃないよ。SNSとかに上げ続けてたら、こうなってたんだよね」

「いやいや、ほんとすごい!でも、いきなりどうしたの?」

「初めてあった時さ、私の飛び降りを止めてくれた時、言ってたよね。人を殺せるような物語を作ってやるぜ!って」

「なんか、言い方……まあ、そうだけど。今も変わらないよ、それは」

「これは私の宣戦布告。空が物語で100人殺すなら、私は音楽で1000人救ってみせる」

 思わず僕は笑った。いきなり何を言い出すかと思えば、子供っぽい挑戦状。でも、彼女は本気らしい。誰かを救う音楽。いかにもありきたりで、素晴らしいもの。

「笑わないでよ!結構真面目に言ったつもりなんだけど」

 そう言いつつ、恥ずかしくなったのかまた前の方を向いてしまった。

「いや、急に日本神話みたいなこと言うもんだから、おかしくって」

 ふう、と一息ついてから、水音の隣に並ぶ。

「僕からもいい?」

「なに、煽り?」

「違うよ、実は……」

 命を助けた相手、人を殺す物語を作るという目的。そして、文学を続けたいと思わせてくれた人。水音は、僕に活動名を教えてまで挑戦状を叩きつけた。それなら、答えないといけない。

「僕がプロジェクトなんだ。「憐憫に咲く」を書いたのも、ファンレターの返答を書いたのも。僕だ」


 

「なんで、死にたいと思ったの?」

 案の定死ぬことを躊躇った楓は、ぐったりとフェンスに背を預けて座り込んでいる。意気地なしが。

 まあ、それを妨害したのも私ではあるのだけれど。どっちにしろ、私にメリットはない。生きていれば、またいじめが始まる。死んでしまえば、私の関与が疑われる。天秤で測ったら、たまたま前者の方がマシだと思っただけ。

「あんたに関係ないでしょ」

 あーあ、なんでいじめる側の人間が泣くんだよ。

「一緒に飛び降りようって、そんなこと言われるとは思わなかったし」

「……怖かったから」

「1人で飛び降りるのが?」

「それもそうだけど!でも、わ、私、お父さんを殺したの」

 何を言っているかわからなかった。楓の告白が無限に引き伸ばされているかのよう。

 こいつが、お父さんを殺した。殺した?

「わ、私。ずっとお父さんに、無理やり、服の下触られたり、されて」

「ちょっと!落ち着いて!」

 気付けば、いつものいじめっ子としての楓の姿はそこにはない。ただ1人のか弱い少女が、神父に罪の告白をしているよう。もちろん、神父でもなんでもない私に縋られても困る。

「耐えれなくなって、気付いたら、私の手が、包丁と血で」

 どうしろって言うんだ、私に。とんでもないことを聞いてしまった。とりあえず気を落ち着かせないと。こんな状態でまた自殺を図られたら、今度こそ妨害できないかもしれない。

 でも、どうやって?なんで私をいじめてきた人間を落ち着かせないといけないの?て言うか、なんで楓は私をいじめてたの?やるべきことが、疑問の波に押しつぶされて思考がまとまらない。ただ、憐憫の感情が私を襲う。




「私、あの本を読んで死のうと思った」

 あれから2、3時間ほどかけてやっと市街地へ戻ってきた。水音も僕も、家が近い、とは言えないものの最寄駅は同じだった。

 とりあえず駅前で荷物を下ろして、休むことにした。バス停に備え付けられた椅子に荷物を置いて、少し周りを歩く。

 ちょうどスポットライトのように街灯に照らされるところで、水音が止まった。街灯の光には蛾が何匹か飛んでいた。

「なんて言うんだろう。小説の中の登場人物に、共感して死にたいと思ったわけじゃない。状況とか、空気とか。そう言うのじゃなかったんだよね。文章そのものが、私に問いかけてきた。ねえ、死んでみない?って感じに」

信じられない。僕宛のファンレターのほとんどは、やれ希望だ生きる意味だの常套句しかなかったのに。僕の文章に感じた恐ろしさ、それがまさに彼女が言う「文章そのもの」の問いかけなのだろうか。

「私は、いろんな人に生きて欲しくて音楽を始めたんだ。ギターが好きなおじいちゃんが亡くなって、それを決心した。親に頼み込んで、PCとDTM機材を揃えてもらった。すごく楽しかったんだ。音楽が作られていく過程が、直に経験できたから」

「作って、投稿して、作って、投稿した。私には、多分作る才能があった。短期間でフォロワーがどんどん増えていって、気付けば私は、評価のために作ってた」

「承認欲求、ってやつ?」

「そう、それそれ。もちろん、悪い意見だってある。でもそれだって、私の曲を聴いてくれた証ではあった。でもね、コメント欄には、決まってこんな文章が残されてるんだ」

 

「あなたは偽善だ。見せかけだ。父も母もいない俺への嫌がらせだ。」

 台本を読むように、醜い感情を込めた声。

「初めて見た時、びっくりしたんだ。曲自体の良し悪しを評価されることはあったけれど、私自身に対しての憎しみは考えたことがなかった」

「わからない、わからないんだけど。私が本当に救いたい相手っていうのは、この人みたいに苦しんでいる人間なんだ、って思った。誰かに憎悪を向けるしかできない、そうすることでなんとか心を保っている人。ただ、助けたいと願った。評価を気にすることは無くなった」

「でも、憐憫に咲くを読んで、わかったんだ。私の感情は、助けたいという願いは所詮憐れみでしかなくて。だって、私は恵まれた環境で生きてる。両親は仲が良くて、一人っ子だけど一人なんだ、って感じたことはなかった。」

「そんな感情で誰かが救えるもんか、って。今までの活動は全部自己満の押し付けがましいものだったんだ。そう考えて、私はあの日屋上に立った。言い忘れてたんだけど、鍵、空いてたでしょ?あの日、霧島が屋上の鍵を借りたって言ってたから盗んで先に開けといたんだ。ほぼ賭けだったけどね。それで、鍵を戻した。もちろん返しちゃったから、飛び降りるまでずっと屋上の扉は開けっぱなしでね」

 そうか、屋上で霧島が唖然としていた理由。水音と霧島は前から知り合いだったのか。だから鍵のことも知っていたし、霧島はあそこまでショックを受けていた。

「そこで、空に助けられた。いきなり抱き抱えられた時は、正直ちょっとキモかったけど」

「わ、悪かったって……」

「いいっていいって。助けてもらったんだし。それに、嬉しさもあった。誰かに自殺を止められるなんて、考えてもなかったから。……あと、私と正反対の人間がいることも知れた。誰かを物語で殺したい、なんて聞いたら死ぬ気も失せるよ、そりゃ」

「止められて、良かったよ」

 もちろん、心からの本心。あの時屋上に僕がいなければ、霧島は水音を助けられず失意の底に叩きつけられ、水音も落下死していたかもしれない。誰かを殺したい、なんて言っておきながらではあるけれど。

「しかも、助けた張本人がプロジェクトなんて凄い、運命じゃない?ファンレター届いたって話してた時、内心バカにしてなかった?本人にあんなこと言ってて私も恥ずかしいし。まあ、それは置いといて」

「そこで気付いたんだ、私が救うために必要なのは無償の愛でも、押しつけの優しさでもない。」

「理解。誰かを救うには、その人を理解しないといけない。私も、自殺しそうだった身だし、カウンセリングを受けた。でもやっぱり、その時にカウンセラーさんがしようとしたことは、私の理解だった。」

「でも、私にはその力がない。恐れ、絶望とか……そういうダークな感情をあまり感じずに育った。『憐憫に咲く』を読んだ時、私が感じた恐ろしさは多分、そういう感情なんだろうね」

「だからその、空には、私にはない能力を持っているってわけ」

「……そうだね、それを言ったら、僕は音楽を作る才能なんて全くないよ」

 水音が軽く微笑むと、俯いてしまう。街灯に誘われた蛾が、小さな影を作りながら舞っている。ずっと俯いているものだから、どうしようかオロオロしているといきなり水音に手を掴まれた。

「私と付き合ってほしい」

 僕の手を掴む力が、強まる。彼女の手は熱がこもっていて手汗で湿っていた。僕はというと、同じようなものだ。人から好意を伝えられることに慣れていない。

「あの屋上で助けられてから、ずっと言いたかった。私の命を救ってくれた。たとえ、誰かを殺そうとしていても。その事実が、ただ嬉しかったんだよ。私に足りなかった何かが、満ち足りる感覚。作りたい生きたいって思えた」

 ぐっ、っと僕の体が彼女の方へ引っ張られる。同じ背丈だから、水音の顔が近くなって思わず目を逸らしてしまう。実際、水音はかなり可愛いとは、思う。

「ち、近いよ……」

「屋上の時と大差ない、でしょ?それでどうなの。私だって……勇気を出して告白したんだから、曖昧な答えしたら小説書けない体にしてやろうか」

 いつもの水音を演じているのはすぐわかった。顔は赤くなっていて、声もちょっと震えていて。でも、やっぱり水音らしいと言えばらしい。

 正直に言えば、恋愛感情が無いわけじゃなかった。軽音部の練習をちょっと覗かせてもらったとき、笑顔でギターを弾き、歌う。その声も歌詞も、誰かを救うには十二分に感情が込められていたと思う。そんな彼女を見て……いや、その前から好きだったのかもしれない。

 それでも。

「……ごめん、だめだ」

 僕の手を掴む力が、一気に弱まる。それでも、まだ触れていたいと言わんばかりに、形だけでも僕の腕を掴んでいる。

「朱莉のことを、ずっと引き摺っていたくはない。けど、もう少し時間が欲しい。ちゃんと弔っていない。朱莉からの遺書も、ちゃんと読めなかった。そんな時に、誰かと付き合うのは……違う気がする」

「そう、だよね。朱莉さん、大事な人だったもんね」

「……うん、でも、僕も水音が好きだ。こんなことになっていなければ、付き合いたい、一緒に、いたい」

「一緒にいたいって!嬉しい。でもまぁ、お昼もっと空のとこ行くからさ」

 その顔に哀しみの感情はなくて、むしろ晴れやかな笑顔で僕を見る。

 ふと、街灯の灯りが消えた。

 停電かと思ったけれど、よく考えれば違う。もう5時になろうとしていた。太陽が、顔を出している。

 ソラは朱色に染まる。




 結局、朝五時に帰ったその次の日もいつも通りだった。違うことと言えば、僕と水音が下の名前呼びになったのを霧島がビビってたことぐらい。

「ねえ、空」

「ん、どうしたの水……」

 いつもと変わらない態度、と言わんばかりのスムーズな問答に霧島が割って入ってくる。

「ストーーーーーーップ!」

「い、いきなり僕の耳元で大声出さないでよ霧島!」

 教室の同級生たちが一斉にこっちを見る。他人のふりはできない距離だから、小っ恥ずかしくて仕方なかった。

「いや、え、ごめんごめん。待って、お前ら……」

 ちょっと霧島が考え込むと、芝居がかった小さい声になって

「下の名前で呼び合うとか、いつ付き合った?」

 まあ、確かにいきなり名前呼びになったらそりゃ、ああもなるだろう。

 僕と水音は顔を見合わせて、どうするか目線だけで相談する。いや、何考えてるかなんてわからないけれど。熟練夫婦じゃあるまいし、そもそも付き合ってもないし。

「えーっと、霧島、これには深い訳が……」

「付き合ってない!告ったけど振られた!」

 馬鹿?と思った。そういうの、直接的に言っていいんだ。

「え、水音から告ったの!?まあ、確かに空から告る感じはしないか……」

「サラッと霧島も下の名前で呼んでるじゃん!ま、まあ確かに僕から告るって考えづらいけどさ」

「いいじゃん、俺だけ仲間はずれとか、ズルすぎ。空も陸翔って呼べ!もちろん、水音も!」

「当たり前じゃん、陸翔!ていうか、私たちの恋バナ聞きたくないの?」

「いや、僕が断ったんだから恋バナっていうか失恋話じゃない?」

「やば、もしかして修羅場?今。俺逃げたほうがいい?」

「いいっていいって、修羅場になるぐらいなら私がこうやって集まってないでしょ」

 その一言に安心したのか、陸翔もいつもの購買のパンを齧った。

「その話おかずにしてパン食べるから話してよ」

「人の失恋をなんだと思ってるの、こいつ!」

 水音が笑いながらも陸翔を肘で突く。ぐえっ、と陸翔がそれに怯んだ。ギターを持ちながら3時間も歩く体力は伊達じゃない。

 僕と水音は、海で出会ったこと、気付いたら夜中の二時で、歩いて帰ったこと。駅前での告白についてを盛り上がりながらしゃべった。

 朱莉のことは、誰にも言わないようにお願いしていたからお互いそこはぼかした。

「へぇ、なんかロマンチックなんだか泥臭いんだか分かんないことになってたんだな」

「軽いロードムービーみたいなことしてたね、僕たち」

「そうそう。まさか空がプロジェクト……」

 あっ。水音がすぐ口を塞いだ。

「……好きだったなんてね」

 今の反応で隠し切れる訳ない。幸いなことに、同級生たちの注意はもう僕らに向いていなかったから、ほぼ聞かれていないことだろう。

「あれ、水音にもプロジェクトのこと言っちゃったの?」

「ああ、まあ……成り行きで」

 もちろん、陸翔は僕がプロジェクトだって知っていたから、そう驚いた顔もしない。

「え、陸翔知ってたの?」

「結構前から」

「空、私に隠してたの?」

「まあ、言う必要もないだろうし、陸翔も誰にも言わないから……」

 水音がため息をついて、ペットボトルの水を飲んだ。

「この話、やめない?」

「始めたの水音だろ!まじか、そうだよな、誰も言ってないわ!いやぁ、あのに助けられるなんてな」

 陸翔がニヤニヤと水音を煽る煽る。この性格の悪さ、なんでこいつプロジェクトのこと隠し通せてるんだろう、とつい思ってしまった。

「まあまあ、水音も、僕にあのこと教えてくれたからこれで対等だよ」

「教えてくれたって、何をよ?」

 水音にアイコンタクトをとる。いいよ、と彼女が返したので、彼女の正体を、『AS=A=RARE』のことを伝えた。

「AS=A=RAREって、あの?」

「うん、私のこと」

「す、すごいじゃん。俺大好きなんだよね、AS=A=RARE。歌っていることは音楽のことなんだけど、絵を描くモチベになる感じ?あはは」

 作り笑い。何かを隠す時、いつも陸翔はこの笑い方をする。普段のテンションの高い笑い声よりワントーン下がった声音。

 陸翔の嘘は分かりやすかった。今回は特に。AS=A=RAREに、一体何を感じていたのだろうか。

「ごめん、ちょっとトイレ」

 僕が問いただす前に、陸翔が行ってしまった。

「なんか……いつもと違う感じだったね」

「……うん、僕もあんな陸翔見たことない」

 

 結局、陸翔は次の授業まで戻ってこなかった。

 その後はいつも通りに接していたけれど、どうしてもその時のことを思い出してしまう。

 そういえば、一度だけ陸翔が家庭について話していたことがあった。両親を亡くして、今は父の従姉妹が親権を持ってるんだとか。なぜ話してくれたのかも、今だにわからない。母のいない僕に、共感したからかもしれないけれど。

 「あなたは偽善だ。見せかけだ。父も母もいない俺への嫌がらせだ」あの時、水音が言っていたことを思い出す。不特定多数が利用するネットで、この書き込みが陸翔だとは思わない。けれども、彼も同じことを思っていたんじゃないか?

 そのことを聞き出せないまま、夏休みを迎えた。


 

 

 

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