Scene5:入水

山の奥、陽も差さぬ岩の裂け目から、透明な湧き水が流れ出ていた。細く、しかし確かに絶えぬ流れは、音を立てて小さな盆地を満たしている。


伏見千夜ふしみちやはその縁に立ち、静かに衣を脱いだ。

すべての音が止む。そこに生まれたのは、異質な静けさだった。


「……また、今日も“ほころび”が出たわ」


肩に触れた指先が、するりと皮膚のようなものを剥ぎ取る。

指先には、淡く光る灰色の膜。

そこから、じわりと中身が滲んでいるように見えた。


そっと湧き水に足を入れる。

膝、太腿、腹部……そして胸元まで、ゆっくりと沈んでいく。


冷たさが、輪郭を削いでいく。

まるで自分という存在の“縁”が、水と一体になって曖昧になっていくようだった。


(……これがないと、私は形を保てない)


水面に浮かんだ頬が、すこし波立ち、すこし溶ける。

その下で、かすかにひび割れた笑みが浮かぶ。


(どうして、こんな不完全なまま、在り続けなければならないの)


“人”であることを模したこの身体。それは美しく、魅惑的な形をしているはずなのに、どこか「貼りつけた仮面」のような歪さを孕んでいた。


(私の核は、どこにもない)


(誰かに見つけてもらうまで、私はきっと“形”になれない)


自嘲のように目を伏せたとき、水面がさざめいた。


―――千夜、千夜、


どこからか呼ぶ声がした。

懐かしさと拒絶がない交ぜになった、記憶の闇から這い出すような声。


「ああ……また、あの子たちが騒ぎ出すのね」


囁く唇がわずかに笑む。


その瞬間、水中で揺れる千夜の輪郭が、ふっと“にじんだ”。

髪も肌も、薄絹のようにほどけ、再び水と溶け合う。


まるでそれが、もともとこの世の存在ではなかったかのように。


――そしてまた、千夜は人の形を取り戻す。


“誰かに触れられるための仮面”として ――――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る