Scene17:証

シャラン……シャラン……


その音が響いた瞬間、空気にひびが入ったように世界が揺らぐ。


地面には細かな線が走り、やがてそれは“鱗”のような模様へと変わっていく。


それは、まるで蛇が這ったあとの軌跡のように――うねりながら、和真の背後へと伸びていった。


和真の足元に、ぬるりと“何か”が触れたかと思うと、


その背後に、静かに影が立ち上がる。




それは――白い袈裟をまとった男だった。




「……遅くなって、すみません」


その声には、優しさと、底知れぬ深い悲しみが混ざっていた。


狐は、割って入った男の存在がよほど気に食わないのか、荒々しく鼻を鳴らした。


「……ん? 誰だ……?」


ぎろりと男を睨みつけたかと思うと、次の瞬間――喉の奥を震わせるようにして笑い出す。


「ククク……死人が、今さら何の用だ。我を止めにでも来たか?」


ゆっくりと、男がこちらに歩み寄ってくる。


――ああ……知ってる。この人。たしか……。


視界が滲み、遠くから思い出すような感覚が胸を打った。


男は無言のまま錫杖を振り上げると、僕に絡みついていた赤黒い舌を一閃――無造作に切り落とした。


「ぎィっ……!」


狐が短く悲鳴を上げる。断面からは黒煙のようなものが、じゅう……と漏れ出していた。


痛みにのたうつ狐をよそに、僕の意識は深く、静かに沈んでいった。


――遠い、遠い記憶のなか。


柔らかな声が、まるで過去から響くように聞こえてくる。


「私の用があるのは、あなたではありません。さぁ、翠。怖がることはありません。目を開けなさい」


――首の後ろが、焼けるように熱い。


「ククク……我を退けるつもりか、小僧が」


狐が口を開き、青白い炎を吐き出そうとした――その瞬間。


僕の傍らに立つ男が、静かに声を発した。


「……あなたは知っていたのですね。すべてを」


袈裟を纏ったその背中が、小さく頷いた。


「導いたと言った方が、正しいかもしれません」


彼の視線が、まっすぐに僕を見つめていた。


意識と意識が、静かな水面のように交わっていく。

名前のつかない、深くやわらかな声が、胸の奥で響いた。


――翠。


――あなたは、この瞬間を選んだのですね。


「それでも、あなたは翠を選んだ。それが――答えだった」


そう告げると、男は僕の頭にそっと手を添えた。


掌から流れ込む温もりとともに、何かが、僕の中で目を覚ましていく。


脳裏、血管、骨の奥――全身の細胞が、ひとつに震え上がる。



――もう一人の“僕”。



光が満ちる。蛹のような空間に包まれ、意識が、魂が、静かに融合していく。


柔らかく、透明な光。


何もかもが赦されるような、静かな慈しみ。


「さあ、翠。いきましょう」


その声を合図に、僕の瞳が、ゆっくりと開かれた。


――そこには、もう“翠”だけではない、誰かがいた。


その姿を見た男は、ゆっくりと漣を抱きかかえた。

ぐったりと力を失った身体が、その腕の中に静かに預けられている。


男は穏やかな声で言った。

それは僕に――いや、僕と清明の両方に向けられた言葉のようだった。


「――私は、私の果たすべきことを果たしましょう」


その言葉を合図にしたかのように、赤い尾が蠢く。

獣のような笑い声が、空気を切り裂くように響いた。


「我を止められると思うのか? あの時と同じように――」


だが、次の瞬間。

翠の瞳が、静かに開かれた。

そこに宿っていたのは、もはや“翠”ではない。確かに、何かが目覚めていた。



「……あぁ。お前は犬だろ」


その声に、狐の目が見開かれた。


「……っ! 晴明……!」


シャラン、シャラン――錫杖の音が静かに鳴り響く。

男は漣を抱えたまま、後ろへ下がった。


怒り狂った狐は真紅の炎を纏い、こちらへ向かって突進してきた。


僕は静かに両手を宙にかざし、呼吸を整える。

そして――唱える。


――ひらりひらりと、散りゆく魂のともしびよ。

――ゆらりゆらりといざなえば。

――還り流れ往け、無のもとへ。


その瞬間、天を劈く轟音とともに、紫色の光の渦が狐を縛り上げた。


「ぎゃあっ!」

炎と怨嗟の混ざった叫びが響き渡る。


狐は憎悪に満ちた瞳で睨みつけてきたが、すでにその身体は光に引き裂かれつつあった。


それを合図に、周囲に倒れていたカラスたちの亡骸から、ずるり……と黒い影が立ちのぼる。

焼け焦げた羽根、割れた嘴、すすけた羽毛――その一部をまとった影の塊は、ぬめるようにうごめきながら浮かび上がった。


その中には、泡のように無数の目玉が浮かび、

一つひとつが哀しみに染まった瞳で僕たちを見ていた。


「……哀れなカラスよ」


僕はつぶやいた。


その瞬間、黒い情念は鋭く軋んだ音とともに、白い帯へと吸い寄せられた。


帯はふわりと宙に舞い上がり、カラスたちの影を吸い込みながら、

その表面に、読めぬが確かに“力”を持つ古の梵字が浮かび上がる。


その模様は、まるで苦悶の声を文字に変えたかのようにうねり、

やがて白き帯ごと狐の身体へと巻きついていった。


「翠、こちらに!」


男の声に応え、僕は宙を仰ぎながら手を差し出す。


「やめろ……やめてくれ……!」


狐の最後の叫びとともに、その身体は光に包まれ、渦に巻き込まれていく。

やがて、まばゆい閃光が炸裂し――すべてが、静寂に包まれた。


――あなたはすべてを受け入れて、無に戻るのです。


気づけば、漣は男の腕の中で、穏やかな寝息を立てていた。

その右頬には、鳥居の印が浮かび、内側には静かに**「狐」**の文字が浮かんでいた。


――――封じられた証。


男はそれを一瞥し、そっと頷く。

そして、鳥居の刻印をその目に焼きつけたまま――

彼自身の輪郭もまた、静かに光へと溶けていった。


それは、記憶の底へと沈んでいくような、穏やかな消失だった。

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