Scene3:声が聞こえる

泉のまわりには木々が鬱蒼と茂り、足元には和真の膝下ほどもある草が伸び、小さな白い花がちらほらと咲いていた。


一歩踏み出すたびに草がしなり、青く生きたような香りが立ちのぼる。


この泉は、父から「近づくな」と幾度も言い聞かされてきた場所だった。けれど和真は、どうしてもこの水を覗かずにはいられなかった。


――訪れるたび、決まって起こる現象がある。


水面に波紋が揺れていても、和真が覗きこむと、それがぴたりと消えるのだ。


まるで鏡のように静まり返った水面には、自分の顔が映る。

そしてその背後には、木々の隙間から覗く、真っ青な空がくっきりと反射していた。


――泉と自分、そして新緑と空。すべてがひとつの球体となって閉じたような感覚。




今、空を見下ろしている――




時間が止まり、風が止まり、音が消える。


嬉しさも、悲しさも。

さっきまで自分を満たしていた感情すべてが、すうっと水面の奥へ吸い込まれていく。


“はじめから、何もなかった”――


そんな静けさが、そこにあった。


それは「安らぎ」というより、「還る」という感覚に近かった。


和真は、その感覚に身を委ねる。


今まではただ覗き込むだけだった。

けれど、あの日以来――なぜか無性に、この泉の中へ引き込まれたくなる衝動があった。


和真は両手を伸ばし、指先をそっと水面に触れさせる。


想像していたよりも水は冷たく、背筋にぞくりと悪寒が走った。


胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと鼻先から水の中へと身を沈めていく。

耳の裏まで浸かる頃には、世界がじわじわと滲んでいた。


……チリーン……チリーン……


透き通る鐘のような音が、どこからともなく聞こえる。


耳鳴りかと思ったが、違う。確かに――そこにあった。


そっと瞼を開く。


一片の濁りもない水中。

ふわりと揺れる小さな水泡と、岩肌に張りついた藻が、静かに漂っていた。


泉の底は思っていた以上に深かった。けれど、なぜだろう――その最奥まで見通せるような、そんな錯覚があった。


そのときだった。


目の前にあったはずの景色が、急速に遠ざかっていく。

和真だけが取り残されるように、世界が、崩れていく。


全てが無数の光の帯となり、音もなく身体をすり抜けていった。


……チリーン……チリーン……


鐘の音が遠ざかり、やがて意識は、長いトンネルの先に出る。


そこに、真っ赤な壁のようなものが立ちはだかっていた。


けれどその瞬間、周囲を満たしていた光がすうっと消えた。


――今、空を見下ろしている。


ふと、記憶の奥底から、何かがゆっくりと浮かび上がる。


ああ……そうだ。思い出した。


これは、扉なんかじゃない――!


和真の身体がびくりと硬直する。

冷や汗が首筋を伝って落ちていくのが、はっきりと分かる。


――これは「蛇」だ。


全身が白く輝き、まるで神性のごとき巨大な大蛇。

その口が、今まさに自分を丸呑みにしようとしていた。


上顎の両端に備わる牙は、研ぎ澄まされた刃のように光っていた。


逃げようと思わなかったわけじゃない。


けれど、逃げるには、ここがどこなのかさえ分からない。


見えているのは、白い大蛇と、上下すら判然としない空間だけ。


自分が異なる次元に取り込まれていることだけは、直感で理解できた。


ゆっくりと見上げると、両側の黒い目と視線がぶつかった。


どこまでも深い、漆黒の瞳。

その中に、自分の姿が、くっきりと映っている。


開かれた喉の奥から、二股に分かれた長い真紅の舌が、微弱な振動とともに近づいてきていた。


そして――


ゆっくりと、その身が和真の身体に巻き付き始めた。




―――おかえり―――




「……ただいま」


そう。和真は、思い出したのだ。


自分の存在の意味を――


頭のなかに、鮮明な情報が伝達されていく。


膨大な流れの中で、僕はただ……見ている――いや、違う。

それは、身をゆだねているという方が正しいのかもしれない。


この大蛇は「今、ここにいる」存在ではなく、

「ずっと、ここにいた」存在だった。


大蛇は、遥か遠き過去よりこの場所に留まり、静かに、揺るぎなく、

――ただひたすらに、ここを守っていた。


本来ならば、大蛇は邪神となることなく天命を全うし、

その魂をもって龍へと昇華し、天界へと至るはずだった。


――そのはず、だった。


けれど昔、人々は災いや天災が起こるたび、

幼い子どもや若い女性たちを、生贄として差し出していた。


選ばれし生贄たちの悲しみ、苦しみ、嘆き。

その魂の代償によって――大蛇は、生き延びていた。


すべての負の感情が、大蛇の寿命を延ばし、

天界へと戻る道を塞ぐ鎖となった。


地上に縛られたその大蛇が、ついに邪神と化してしまわぬように――

その傍で慰め、讃え、寄り添うことこそが、代々の巳藤家の務めだった。


そして今、この瞬間。

巳藤和真みとうかずまは、その血を継ぐ者として、巳藤家の当主となった。


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