Scene2:栄養不足には

「今日は屋上で食べよう。」


和真の誘いにうなずき、俺は四階校舎の屋上へ向かった。


屋上には、昼休憩を取るためのベンチが転落防止フェンス沿いにいくつか設置されている。並んで腰を下ろすと、頭上には晴れ渡った五月の空が広がっていた。

風はやわらかく、頬をなでるたびにまぶたが重くなる。


最近、昼休みはよくここで過ごしている。陽気が心地いいのもあるけれど、それ以上に――“紺”の存在が理由だった。


俺と和真にしか見えない彼は、あの日以来ふっと現れて、ずっと傍にいる。今は姿が見えないけれど、その気配は、決して消えていない。


「姿が見えない時って、どこにいるの?」


前にそう訊いたことがある。


「うーん。あるようで、ないような存在だからね。しいて言えば、翠のお腹のあたりかな?」


あのときの彼は、ふわふわと浮かびながら俺の周囲をくるくると回っていた。


「お腹……?」


思わず手を当てると、鍛えてもいない腹筋が平坦に返ってくる。


「具現化するにはちょっとエネルギーがいるんだよ。だから長く出ていられないの」


「なるほど……」


「でも大丈夫。翠の見てるものは、ずっと一緒に見てるから」


……最近、やたら眠いのは、そのせいかもしれない。


昼食はというと、コンビニに寄り損ねたせいで、コーヒー牛乳しか持ってきていなかった。ストローをくわえて一口飲んだところで、和真が俺の手元をのぞきこんでくる。


「翠、それだけ? そりゃ栄養足りねえって」


「ちょっとだるいんだよな。食欲がないっていうか……」


「バカ。こういうときこそ食わなきゃダメなんだよ。ほら、俺の分やる」


和真は自分の弁当箱からおかずを取り出し、容赦なく俺の口に押し込んできた。


「感謝しろよ。栄養、栄養」


「……ありがとう。うん、うまい」


味はしっかりしていた。でも、咀嚼しているのに、どこか異物感があるというか、身体に入っていく感覚が重く、鈍い。


そのときだった。


「きゃっ……!」


フェンスの向こう、奥の方から小さな悲鳴が聞こえた。何かが倒れる音とともに。


和真が立ち上がり、駆け出す。俺も慌てて後に続いた。


そこには、白い足を投げ出して倒れている女子生徒の姿があった。スカートが乱れ、肩まで伸びた黒髪がぐしゃりと顔にかかっている。肌は青白く、指が震えていた。


それは――川崎由奈、だった。


以前、同じクラスだった。物静かで、どちらかといえば目立たない子だった。でも、こんなふうに“壊れかけた人形”のような様子ではなかったはずだ。


由奈の足には包帯が巻かれ、その下からじわりと血が滲んでいた。細い脚に絡むその赤は、どこか現実感を欠いているようにさえ見えた。


「なにしてたんだよ、お前ら!」


和真が怒気を含んだ声を放つ。


由奈のすぐそばには、隣のクラスの女子が二人立っていた。見覚えはあるが、名前は思い出せない。二人はバツの悪そうな顔で視線を逸らした。


由奈はうつむいたまま肩を震わせている。

泣いているのかと思ったが、違った。

目は見開かれ、唇が強く噛みしめられている。


俺が思わず手を伸ばしかけた――その瞬間。


……チリン……チリーン……


どこからともなく、かすかな鈴の音がした。


高く、透き通っていて……それでいて、空気の奥にしみ込んでくるような音。


由奈は一瞬だけこちらを見た。その瞳は、何かを訴えるような、助けを求めるような

……でも、すぐに視線を逸らし、ふらりと立ち上がる。

そして一言も発せず、足を引きずるようにして走り去っていった。


「……何だったんだ、今の」


和真が呆れたようにつぶやく。


「傷、結構深そうだったよな……」


「でも、声も出さずにあの走り方って……」


ふと、また鈴の音がした。


チリーン……チリン……チ……


今度は、確かに耳の奥で響いていた。


「和真、聞こえたよな……鈴の音」


俺が言うと、和真は黙って空を仰いだ。


視線の先――そこには、一羽のカラスが屋上のフェンスの上に留まっていた。


黒く、光を吸い込むような羽根。首をかしげ、こちらをじっと見つめている。


「いや……なにも」


和真はそう言ったが、瞳の奥に一瞬、何かが走ったように見えた。


直後、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。


でも、屋上を後にしても、耳の奥ではまだ――

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