九十七話『エレベーターの怪』

 この話も前話と同様に、タイトルと原稿は容易に復元することができた。

 無論、リライトをしているとはいえ、大幅な展開などの変更はせず、極力、元の原稿と読み味が違わないものになるよう努めているつもりである。




 【九十七話 —エレベーターの怪—】


 資料室を出ると、エレベーターの方へと向かった。静寂の廊下に、カツカツとパンプスの音が響く。

 エレベーターの前に辿り着き、[▲]のボタンを押す。[▼]のボタンは無い。今いるフロアが最下層——地下八階より下の階は存在しないからだ。

 はあ、とため息をつく。腕時計を見ると、深夜二時だった。こんな時間から会議だなんて、部長はどういう神経をしているのだろう。

 自ら望んで就いた仕事とはいえ、こんなに多忙だとは思わなかった。やりがいはあるが、こんな遅くまで働き詰めの日々が続くとなると、否が応でも虚しく感じる瞬間が増える。

 ああ、今すぐにでも、こんな所から脱して、どこか遠くへ行ってしまいたい。何もかも放り出して。

 そんなわけにはいかないか、と両手に抱えている資料を一瞥してから、エレベーターの扉の上のインジケーターに目をやる。[B3]、[B4]、[B5]……。糸で釣られた箱が、ゆっくりと私を迎えにやってくる。

 異様に静かなせいで聞こえてくる、普段は気にも留めない、しゅるしゅる……という稼働音に耳を傾けていていると、

「……っ」

 不意に、視線を感じて振り返った。

 一直線に伸びている廊下には……誰の姿も無い。当たり前だ。こんな時間に資料室に出入りしている人間などいない。「いいからさっさと必要なものを揃えてこい」と部長から命じられて渋々出向いている私以外には。

 気のせいか、と向き直ると、インジケーターの[B8]が灯っていた。程なくして、


 ——―ポォーン


 という到着音と共に、扉が開く。

 中へ入り込むと、[1]のボタンと[閉]のボタンを押した。するる……と扉が閉まる。なんだか嫌な感じがして、エレベーターの外に視線は向けなかった。

 こんな時間に、こんな所に、一人でいるから――いや、こんなものを抱えているからか。

 参考資料に持ってこいと言われたのは、一人の女児が殺された虐待死亡事件についての記事が載っている古めかしい週刊誌だった。確認の為に目を通したが、でかでかと印字されている〝母親は鈍器で子供を〟の文字を見た瞬間に、読むのをやめた。

 そんな忌まわしいものを抱えているせいか、思わず嫌なものを連想してしまう。

 いい歳して、とは思うが、寧ろ年を取ってからの方が、恐れるものが多くなったような気がする。たとえ、子供を産んだ身でなくとも―――、


 ——―ポォーン


 と、到着音がして、我に帰る。もう着いたのか――え?

 頭上のインジケーターの、[B7]が灯っていた。

 なんで、と疑問に思うと同時に、扉が開く。

 誰も、いなかった。地下七階の、真っ直ぐに伸びる廊下は、暗闇に染まっていた。

「……」

 固まっていたが、我に返り、[閉]を押した。扉が閉まり、しゅるしゅるという静かな駆動音と共に、箱が上がっていく。

 きっと誤作動だろう。

 こんな時間に地下のフロアに出入りする人間など他にいるはずが、


 ——―ポォーン


「……え?」

 見上げると、インジケーターの[B6]が灯っていた。

 扉が開く。先程とまったく同じ光景が広がっていた。誰の姿も無い、暗闇の廊下。

 だが、


 ——―ぱたぱたぱた……


 と、去っていく足音が小さく聞こえた、気がした。

「あ、あの――」

 思わず、外に出て誰何しようとしたが――すぐに思い直す。

 この暗闇の中に、人が消えていった……?


 ——―しゅるる……


 と、今度は背後で音がした。振り返ると、エレベーターの扉が閉まりかけていた。

「あ――」

 慌てて手を差し込もうとしたが、すんでのところで閉まり切ってしまう。仕方なく、[▲]のボタンを押したが、扉は開かなかった。

 ああ、もう、と苛立つ。箱は一度、地上一階まで行ってしまうだろう。どこかの階でボタンを押している者がいたら、長々と待たなければ、

「……え?」

 インジケーターの、[B7]が灯っていた。程なくして、[B8]が灯る。

 なんで、下に。

 地下八階には誰もいないはずなのに。

 勘違いなどではない。だって、先程まで私が、私だけがいたのだから。

 では、誰が、


 ——―ぺた……


 不意に、背中に冷たいものが走った。

 振り返る。今、何か、


 ——―ぺた……


 聞こえた。

 ……足音?


 ——―ぺた……ぺた……


「……っ!」

 思わず、後ずさった。

 裸足の足音だ。それが、廊下の奥の暗闇から、こちらへ、

「ひ……!」

 エレベーターへ向き直り、上を見た。が、インジケーターは未だ[B8]が灯っていた。焦りに駆られて[▲]を連打するが、一向に上がってこない。

 その間にも、


 ——―ぺた……ぺた……


 裸足の足音は、暗闇からこちらへ迫って来ていた。

 早く、早く――と、その時、恐ろしいことに気付く。

 これから――人がいないはずの[B8]から――来るエレベーターに、誰かが乗っていたら……?

 瞬間、インジケーターの[B7]が灯った。


 ——―ぺた……ぺた……ぺた、ぺた


 背後の足音の間隔が、突然短くなる。


 ——―ぺた、ぺた、ぺた、ぺた


「い、いいいっ……!」

 血の気が引いた。

 得体の知れない二種類の恐怖が、私に迫っている。

 暗闇の中からこちらへ来ようとしている何か。

 何かが乗っているかもしれないエレベーター。

 そう、何かが―――。


 ——―ぺたぺたぺたぺた


 ——―しゅるしゅるしゅるしゅる


「あ、あ、ああっ……!」

 怖い、助けて、誰か、助けて、


 ——―ぺたぺたぺたぺたっ


 ——―しゅるしゅるしゅるしゅる


 早く、早く、早く、早くっ、


 ——―ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたっ


「い、いっ……いやあああああああっ!」




 ——―ポォーン




 ―――気が付くと、私は地上一階のエレベーター前にいた。

 記憶が、無かった。

 エレベーターの到着音が聞こえたと思ったら、次の瞬間には、息を切らしてフロアの床にへたり込んでいた。手には、ぐしゃぐしゃになった資料を握りしめていた。

 怪我を負ったりはしていなかったが、我に返った瞬間、いてもたってもいられなくなり、何もかも放り出して外の世界へ飛び出した。

 これ以上、この建物にいたくない。その一心で、必死に疲れ切った身体を動かし、自分の家を目指した。

 あの時、なぜエレベーターが勝手に動いたのか。あの足音は一体何だったのか。今でも分からない。

 だが、後に知ることになった。

 エレベーターのボタンには、取り消し機能——キャンセルコマンドがあると。

 階数のボタンを間違って押してしまった場合は、続けて二度押すことで取り消すことができるのだという。

 だとしたら、エレベーターの動作には説明が付く。私が押した[1]のボタンを、誰かが二度押しして取り消せば、[B8]→[B7]→[B6]→[B8]という順に稼働することは可能なのだ。

 しかし……その場合、その誰か――いや、視えない何者かは、エレベーターの中にいたことになる。

 ということは、[B8]にいた時点で、もしくは[B7]に止まった時から、私の傍には視えない何者かが同乗者として存在していたのでは……。




 【考察及び所感】


 前話がオチらしいオチの無い電波系の話だったのに対し、今回はストレートな怪談だったので、少しだけ拍子抜けした。どうやら、各話がそれぞれ独立している百物語形式の作品だったらしい。

 だが、前話の〝存在しないラジオ番組〟は妙に繋がりを匂わせるような要素が多かったので、この〝エレベーターの怪〟も、もしかしたら九十六話以前の話とリンクしている、もしくは作品全体を通して見るとひとつの物語が完成するような構成なのかもしれない。

 また、この話もリアルな手触りではあるが、恐らく創作怪談であろう。

 まず、描写からして日本で起きた出来事というのは間違いないのだろう。が、日本に存在している地下八階まである建造物はひとつだけ。

 東京都の千代田区にある国立国会図書館しかない。

 しかし、語り手の女性の口ぶりからして、舞台が国立国会図書館だとは思えない。

 国立国会図書館の職員の仕事内容や業務形態については事細かに知り様がないが、館内の構造を調べてみたところ、地下階へ通じるエレベーターは二基あるようだし、きちんと階段も備えられている。実地調査はできなかったが、ネットで軽く調べただけでも分かるほど、この話の舞台となっている建物が国立国会図書館でないことは明らかだった。

 また、女性の語る仕事内容についても、〝深夜に会議〟、〝部長に資料〟と、こう……なんだか記号的な印象を受ける。肝心の職種についても明かされない為、怪談の為に用意された登場人物と舞台のような気がしてならない。極限まで追い詰められているのに、あるはずの階段を使って逃げなかったことも含めて。

 無論、だからといって作中の恐怖が極端に薄れるということはない。創作であろうと、怖い話であることに変わりはなかった。

 だが……それは読むに当たって重箱の隅を突くような無粋な真似をせずに楽しんだ、ということではない。

 前話に引き続き、この〝エレベーターの怪〟にも、底気味の悪い背景が用意されている気がしてならないからだ。

 この話が創作怪談であることは間違いないのだろうが、だとしたら舞台を地下八階まである建物なんて奇異な設定にする必要はあったのだろうか?

 話の構造上、地下三階まであれば成立するし、地下階にこだわらなければ地上階を舞台にしても十分に怖い話として通用する。そちらの方がリアリティが増すし、故に恐怖感も増すし、読み手も場面を想像しやすいのではないか、そんな風に思うのだ。

 ではなぜ、わざわざ地下八階まである建物という舞台を選んだのか。それは、

 この話は地獄をモチーフにしているから、

 ではないだろうか?

 仏教では、犯罪等で悪行を積んだ者が死後に落ちる地獄(八大地獄、もしくは八熱地獄)は八階層あり、生前に犯した罪が重ければ重いほど下層に落とされて苦しみを受ける、とされている。

 あくまで推測だが、この〝エレベーターの怪〟は、地下――地獄に落ちた者が、地上——現世へ脱しようとしている話なのではないだろうか?

 他にも、物語の節々に、その背景を思わせる要素が見受けられる。

 エレベーターを〝糸で吊られた箱〟と表現していること。

 女性が携えている資料の内容が虐待死亡事故の記事が載っている週刊誌であること。

 女性はそれを、痛ましいではなく、忌まわしいと感じていること。

 記事には〝母親は鈍器で子供を〟と書かれていること。

 我が子を、とは書かれていないこと。

 女性は子供を産んだ身ではないが、たとえそうでなくとも世間から〝母親〟と呼ばれる身にあった可能性はあること。

 つまり、女性が地獄に落ちたのは―――。

 無論、これは個人的な考察であり、ただ単に深読みのし過ぎという可能性もある。描写されていない部分を都合よく補完すれば、それっぽく見えるというだけで。

 ただ……。

 この考察を書き連ねていた時、原稿を復元していた時に覚えていた違和感の正体が分かった。

 前話の〝存在しないラジオ番組〟では丁寧に描写されていた〝照明〟の描写が、この〝エレベーターの怪〟には、ほとんど無いのである。

 唯一、エレベーターの内外にあるインジケーターが、

 〝灯った〟

 と描写されているが……、

 〝光った〟

 ではなく、

 〝灯った〟

 だと、なんだか〝真っ暗闇の中にポツリと灯った〟という風に連想してしまう。建物の地下、そしてエレベーターという、明るく照らされていなければ不自然なはずの舞台だというのに。

 故に僕は、原稿を復元していた際、冒頭のエレベーターに乗るくだりで、語り手の女性が深い暗闇の中からぬらりと何食わぬ顔で現れてエレベーターのボタンを押す姿が思い浮んだのだが……。

 そういえば、エレベーターはネットロアにおいて、異界へ行く、もしくは迷い込む際の舞台装置として用いられることが多い。

 ……地獄も、異界と言えなくもないのではないだろうか。

 最後、語り手の女性が建物を後にしたことを〝外の世界へと飛び出した〟と表現しているのも、もしかすると……。

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