ペダルを回して

ヤマグチケン

ペダルを回して

 高校に入学したとき、祖父母に自転車を買ってもらった。通学用の自転車は親に買ってもらっていたが、たまたまその当時に流行っていた漫画の影響でロードバイクに興味があったあたしは、祖父母に甘えた。置き場所の問題もあるからと、親は渋い顔をした。

 ヨーロッパのメーカー製の、エントリークラスのアルミフレーム。ロードバイクとしては安く、当時は十万円ほどだった。自転車なのにペダルすら付いていないのかと、お店で驚いた。


 ヘルメットや鍵、前後ライトを同時に買って、納車されたらどこに行こうかと思っていたら、店主に声をかけられた。

「パンク修理、わからないよね?」

 言われてみたらそうだ。あたしはパンク修理などしたことがない。一般車ではお店でやってもらうのが普通だろうが、どうやらスポーツ車では基本技能の一つらしい。

「じゃあ、ツールケースにタイヤレバーと予備チューブ。それと携帯ポンプ。うちの店ではセットにしてるから、お金に余裕のあるときにでもね。やり方はいつでも教えるから」

 実際には修理と言うよりも交換ではなかろうかと思うが、あたしの疑問をよそに祖父母はその場で財布を開いた。ありがたい話だ。

 納車日、店主によるチューブ交換講習をしてもらった。お店にある廃棄予定のホイールに、適当なタイヤとチューブ。これを使って数回脱着を練習させてもらった。指の皮がズルズルに剥けるかと思った。


 さて、なぜ突然こんな思い出に浸っているのかというと、今まさに目の前で友人がパンクをしているからだ。

 高校の入学祝いで買ってもらった、空色のエントリークラスのロードバイク。それを貸し出して一緒にツーリングに出掛けたのは良いものの、路面のくぼみを避けきれずにパンクをした。リム打ちだ。

「あー、後ろにいると気づけないよねぇ」

 早めに避けてハンドサインを出したのだが、彼女は対応に遅れたのだ。

 濃い青色の現愛車をガードレールに立てかけると、彼女に貸したロードバイクを逆さに立てて、前輪を外す。

 リムとタイヤの間にタイヤレバーを差し込み、ビードを持ち上げてレバーをスポークに固定。もう一本のタイヤレバーで一周ぐるっとビードを外すと、中からチューブを外し、新しいチューブを入れる。

「わ、すごいね。あざやかにやるものだねえ」

「あたしも何回もやらかしてるからね。レバーなしでタイヤを外しちゃう人もいるけど、あたしには無理無理」

 バルブに携帯ポンプの口金を固定し、少し空気を入れて噛み込みがないことを確認すると、あとはCO2ボンベで一気に充填。パンっと音がして、ビードが上がる。

「すごーい! 一瞬だ!」

「こんなちっちゃいポンプで空気入れてたら、腕がマッチョになっちゃうよ」

 ま、六〇〇円で使い捨てのボンベ、安くはないんだけどね……。


「さ、行こうか」

 チューブ交換の終わったロードバイクを元の向きに戻すと、彼女はまたがる。

「そうだね。目的地まであと十五キロくらいだっけ」

 あたし一人なら一時間もかからない距離だけど、初心者と一緒だ。ゆっくり、のんびりと流れる景色を楽しみながら走るのだから、さっさと走り出さないと帰りには日が暮れてしまう。

 またがり、右足をペダルに乗せるとパチンと音がして、クリートがペダルにハマる。

「その音かっこいいよねえ。これから走るぞってスイッチ入れてるみたいで」

 地面を蹴って走り出し、左のクリートもパチンとハマる。

 普段、一人で走るときよりもゆっくりとペダルを回す。サイクルコンピューターに表示される速度だけを確認し、直後に後ろも確認する。どのくらいの速度まで付いてこられるか。

 あたしも始めた頃は、そうやってお店の主催するツーリングでお世話になった。あの頃は女子高生だからと、余計に気を遣ってもらったのだろう。

 男ばかりの世界では、女子高生であるというだけでブランドだ。

「このあたりは車通りも信号もなくて、きもちいいねえ」

 風切り音もしない程度の、ロードバイクでなくても良いのではないかという速度。だからこそ、後ろを走る友人と会話も出来る。

「自転車は田舎を走ってこそだよ」

 遠くに見える山が手前の田んぼに映っている。右手を後ろに回し、停止するとハンドサインを出す。

「なに? どうかしたの?」

「こういうのも撮っておきたくてね」

 スマホでその景色を撮ると、彼女も理解したようで同じように撮影する。

「車だと通り過ぎるだけだけど、こういうこと出来るのも自転車の魅力だよ」

 そもそも、車だと安易に停められないどころか、気づけないことも多い。

「自転車楽しいって、ただ漕ぐだけかと思ったら、こういうことかあ」


 写真を撮り終え、再びペダルを回す。

 風も弱く、暑すぎない気候。その上、汗もかかないようなペース。これはこれで楽しい。楽しいが、やはりそれだけでは物足りないと感じる。この世界に足を踏み入れた人の性か。

「ごめん、一本道だし、先に行くからのんびり来て」

 そう告げると、脚に力を入れる。

 サイクルコンピューターに表示されるケイデンスと速度の値が一気に上がり、遅れて心拍数も跳ね上がる。呼吸がツラい。

 さっきまでゆっくりと流れていた景色が一気に後ろに流れていき、前方の安全と、過去の自分のタイムしか考えられなくなる。

 ヒルクライムとは言えない程度の、短く緩やかな上り坂。しかし、確実に脚に疲労がたまっていく。


 スマホアプリに登録されている計測終了地点まであと少し。


 ピークに近い心拍数とは逆に、じわじわとケイデンスと速度が落ちていく。

 速く、浅い呼吸を繰り返して計測終了地点を越え、道路脇に止まると一気に汗が噴き出す。呼吸を整えてドリンクボトルに口を付けると、ぬるくなった水が流れ込む。

 手応えはあった。自己ベストは出ただろうか。このサイクリングが終わってから、サイクルコンピューターのログを確認するのが楽しみだ。


 ややあって、友人が追いついてきた。

「わ、すっごい汗!」

「いやー、つい我慢出来なくってさ。って、あんたも汗すごいよ」

「だって、急にペダルが重くなったなと思ったら、気づかないくらいの上り坂じゃん。そんなトラップ聞いてないよ」

「いいじゃん。汗をかいてダイエットだよ」

 彼女はボトルケージからペットボトルを手に取ると、スポーツドリンクを流し込む。今日の運動量だと、それを飲んだ時点でチャラかな?


 それからも淡々と進み、目的地に到着した。

 個人経営の小さなカフェだ。ケーキがおいしくてお気に入り。

 駐車場に設置されたバイクラックにサドルを引っかけ、ワイヤーロックをかけて店内に入る。

 適当なテーブルに着くと、あたしは迷わずにチーズケーキとアイスコーヒーを注文する。彼女はモンブランとレモンティーだ。

「こんなところにこんなお店があったんだねえ。店内もお洒落だなあ」

「でしょ。あたしもお店のツーリングで連れてきてもらって知ったんだ」


 スイーツも自転車の楽しみ。二人でそれを楽しみ、お腹を満たすと来た道を戻る。

 まだ日は高く、しかし影は少し伸びてきている。

 さっきの坂も今度は下りだ。平坦に見えるが、足を止めていてもゆっくり進んでいく。

 頬を撫でる風が気持ちよい。


 今度は、どこに行こうか。



*後書き*

 お読みいただきありがとうございます。


 キャラクターの名前も出ない、現在大学生なのか社会人なのかもわからない、ただ女子二人がロードバイクでツーリングするだけの話。なんの事件も起きない、本当にただのツーリング。

 こういう、緩やかな時間いいですよね。


 スポーツ自転車になじみのない方に少しだけ解説。

 CO2ボンベは圧縮した二酸化炭素の入ったボンベ。そのままですね。これを使うことで、一瞬でチューブが膨らみます。最近では電動ポンプにお株を奪われてます。

 ケイデンスは足の回転数です。エンジンで言えばタコメーターの値ですね。

 そしてサイクルコンピューター。これは速度、ケイデンス、心拍数、GPSによって走った軌跡などを表示、保存するもの。あとで見るのが楽しいです。


 コロナ特需から引き波が来て業界が瀕死の今、輪界がまた元気になりますように。

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