第3話 戦後80年に思うこと(その二)
<モヤモヤ感>
八月十五日が何の日なのか、私にはすっきりしない。モヤモヤする。「敗戦」か「終戦」かの言葉の問題ではない。ポツダム宣言を日本政府が受け入れた日、すなわち敗戦は十四日であり、降伏調印により終戦となったのは九月二日だからだ。喧嘩をした一方が「もうやめた」と言っても、喧嘩の相手が合意しなければ、喧嘩が終わったことにはなるまい。
それはともかく、昨年の終戦記念日の報道に、私は違和感を持った。というのは、「戦争は恐ろしい、二度としてはならない」という、ニュースショー、戦争体験者の発言、新聞社説のオンパレードだったからだ。
私も戦争には反対である。しかし、最も大事なことが抜け落ちていないだろうか。日本のみならず、多くの近隣諸国に犠牲者を出したアジア・太平洋戦争の反省が、「戦争は恐ろしい、戦争反対」だけで済まされるのだろうか。
もし我々の反省や教訓が「怖い、恐ろしい」の感情論だけだとしたら、同じ過ちを繰り返すことにならないだろうか。それでは、戦争反対を叫ぶ意味が失われてしまうのではなかろうか。
しかし、「体験」は強い。前回述べたように、体験には説得力がある。何しろ強烈な戦争体験だ。私の親兄弟の体験とは言え、ほとんどの当時の日本人が経験したことである。私一人の語学体験ではなく、大勢の国民体験なのだ。
体験者の意見は重い。250万人の日本兵士が戦闘、病気や飢えで死に、58万人がシベリアに抑留され、60万人の市民がソ連兵の強姦やアメリカの空襲、更には原爆まで投下され殺されたのである。太平洋でのアメリカ軍死者数が92,540人というのだから、一方的な殺戮であった。そんな悲惨な戦争体験者の意見を否定することなど、戦争体験のない私などに出来るはずはない。
しかし、ここであえて疑問を呈したい。本当に体験者の意見は絶対なのだろうか。前回(第二話)、私は自分の語学体験から、小池氏のアラビア語会話が二歳半とか半年学べば出来る程度と評する大学教授の考えを否定した。
それでは、もし私が自分の体験から、アラビア語は難しいので学習するべきではない、と言ったらどうなのか。前回の私が述べたことには同意していただけると思うが、学習すべきではないという意見には首をかしげるだろう。
戦争は恐ろしい、二度とすべきではないという考えに、私は大賛成である。体験者の意見は尊重すべきだと思う。それでも、この80年間、同じ考えの繰り返しで良いのか、いつまで「反省」を続けるのか、それで良しとするのかとモヤモヤするのだ。これでは、全く成長のない愚かな民族だと馬鹿にされても仕方があるまい。
ロシアのウクライナ侵略、中国のアジア・太平洋における異様な海洋進出など国際環境が大きく変化し、平和が危機的な状況にある今こそ、何か新しい提案をすべき時ではないだろうか。「国際連合」とは名ばかりで、かねてから「安保理」は侵略国が牛耳る存在になっているのだ。
日本は深刻でなければならない。なにしろ、中国が台湾に侵攻する場合、中国はアメリカの後方支援を遮断するため日本の基地が使えないようミサイル攻撃すると、アメリカの研究機関が発表しているのである。(蛇足ながら、ミサイル攻撃された場合、12日間で基地補修が可能となるため、中国軍は電撃的に上陸を開始し、短時間で台湾全土を占領する計画らしい)
そもそも、八月十五日を終戦記念日としているのはオカシイのだ。日本政府がポツダム宣言を受諾して降伏したのは14日であるし、喧嘩相手が一方的にやめたと言っても、双方が承諾しなければ、もっと言えば契約に署名しなければ終戦と認められないのは前述したが、それが世界常識である。「玉音放送」があった十五日を、いつまで終戦記念日としているのか、私は疑問でならない。
であれば、ここで日本は終戦記念日を九月二日に変更すると世界に発表して国際常識に従うと宣言し、一方で、国連改革を訴えてはどうだろう。そもそも「国連」と「連合国」の英語は同じであり(the United Nations)、国連憲章には対枢軸国条項すら残っているのだが、国連が機能不全に陥っている今こそ、日本が自らのタブーと決別し、新しい世界秩序に貢献すると宣言すれば、多くの支持を受けるはずである。
モヤモヤ感の理由は他にもある。戦争反対の考えに疑問を投げかける私は、全く不埒な輩と思われるだろう。日本を戦争に駆り立てる、軍国主義者と見なされるかもしれない。しかし違うのだ。地震が怖いと言うだけではなく、地震に備えよと言いたいのである。
地震と戦争は違うと言われるかもしれない。地震は自然現象だが、戦争は人為的なものである。地震からは逃げられないが、戦争は人間の英知で防げると言う人もいる。
だが、ここで考えねばならないのは、その人間の英知である。もし戦争を防ぐ英知があるのなら、なぜ戦争が今以て行われているのだろうか。ロシアはウクライナを侵略し、ガザでは互いの国民を絶滅宣言しているが、その理由を我々は知らねばならない。
とてもではないが、人間に戦争を防ぐ英知があるとは思えない。民族主義、宗教、自国の利益第一主義は今も世界中に溢れているのだ。人道主義に名を借りた、キリスト教原理主義者による死刑廃止の圧力も、私は体の良い侵略戦争と考えている。(詳しい説明が必要なので、このことについては別項で書きたい)
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