好きな人と一緒にいたいから働かないと
イヤホンからダイレクトに染み込んでくる彼女の荒い息遣いを聞いていると、無性に会いたくなる。さすがに妄想しすぎだなと笑えた。
『今ウォーキング中』
「わたしも歩いてる」
『耳に響いてきて変な想像しちゃった』
「わたしも」
『一緒でうれしい。何ならわたしのところに来てくれてもいいのに』
恋人の架純と話すたびに我慢させている罪悪感が染み込んでくる。しかし美樹は親や弟夫婦に恋人を友だちと紹介したくない。
『美樹にも考えがあるんだろうし。わたしも我慢しないとね。い・ろ・い・ろ・ね』
「ごめん」
『深すぎる深すぎる!』
美樹は再び故郷から上京し、再就活に精を出していた。稼ぐことがすべてではないが、恋人のためにも自分のためにも自分で生活しなければならないと考えている。もっぱら恋人からはマジメすぎると笑われるが、これくらいは当然だと思うし、同棲するにも招きたい派だ。
☆☆☆☆☆
早く会いたい。
でも彼女を養う力を作らないと。
よし決めるぞ!
空に突き刺さるほど背の高いオフィスビルを見上げた。エントランスの掲示板にはテレビCMでも観る会社がいくつもある。
美樹はエレベーターに押し込まれ、何とか十三階のボタンを押して息を止めていた。隣の女の人も息を止めていた。理由は違う。こちらは緊張していて、隣は美樹の放つナフタレン臭いスーツのせいだ。さいわいまず美樹が吐き出されるように降ろされた。彼らはもっと上のもっといい会社で働き、充実しているのだろう。
フロントの前まで歩いた。
履きなれないパンプスが沈んだ。
フロントのキュートな女性は美樹を見て立ち上がると、静かに礼をした。美樹はスマホの画面を見せると、彼女の網膜認証からガラスの引き戸が左右に開き、面接室に通された。
「よく来てくださいました」
また驚くほどの美人が招き入れてくれた。モデルのような姿と振る舞いは、レストランから見た夜景を思わせた。ウエストを締めたパンツルックが似合い、背は美樹と同じくらいだ。
「前は建設業界とのことですね。現場監督をしていたということですね。辞めた理由は?」
彼女はタブレット端末を操作していた。
「国も文化も違う人を使い捨てのようにするのが許せなくてケンカしました」
今でも美樹はヘルメットがコンクリートに跳ねるのを覚えている。発注したゼネコンの現場で使いもできない上司とケンカして辞めた。
「辞められて一年の間何を?」
「実家に熊野に帰郷していました」
「熊野といえば
枯木灘のことが出てくるとは思ってもいなかったた。エメラルドのような海、断崖に打ち寄せる白く砕ける波、太平洋から吹き上がってくる夏の海風が懐かしい。東京の見知らぬビルの見知らぬ美人の口から出てくるとは驚いた。
「どうかしましたか?」
「いいえ。まさかこんなところで熊野の話が出てくるとはと。故郷を思い出したものでして」
「誰しも故郷は必要ですわ」
「ええ」
相手はタブレットを見せるとき、美しい髪から甘い匂いが流れ、くらくらしてくる。この人は魅了する何かを持っている気がした。ただ美樹自身、仕事を辞めてから無性に甘えたいからそう思うだけなのかもしれないと思った。
「主に公共事業をしてます」
断崖を背にした城が見えた。
「お越しいただけますか?一度現場を確かめてください。すぐ隣ですから」
「隣!?」
ソファから立つように促されて、隣室に案内された。薄暗いところに紫や青の光が塵のように浮かび、何だろうと眉根を寄せると、腰に腕をまわされて豊かな胸に押しつけられた。
「え!?え!?」
闇に包まれた。
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