4 泣かないでおくれよ

 森に分け入ってみると、紅葉の進んだ森は次第に葉を散らしているらしく、空の極めて青いのがわかる。それは紅葉のオレンジ色との対比なのかもしれない。

 とてもきれいな森だった。

 ずっとそこにいたら、いままでの嫌なことなど、全て忘れてしまいそうにきれいな森だった。


 キツツキが木を叩いて虫を探す音や、野生のシカの群れ、小川の流れを行き交う魚、すべてがズザナには珍しく感じられた。

 なんて美しいところだろう。ズザナは急に胸が震えるのを感じた。きっとガイウスが切ったのであろう切り株に腰掛けて、足元を這ってゆく見たことのない虫を見ていると、ズザナは苦しくなった。泣きたくなった。

 森でも忘れることのできない、ここにくるまでのことを思い出して、止まらない涙を止めようとえっくえっくとしばらく泣き続けた。陽は傾き、このままでは夜になってしまうから、ズザナは帰ろうと引き返す道を探した。


 ……わからない。


 不安になった。恐ろしかった。ズザナはまた泣き出してしまった。

 ガイウス。ガイウスはどこだろう。探そうにも北方の森はすぐ夜になる。えっくえっく泣きながら、ズザナはガイウスを呼んだ。

 次第に、ガイウスのかけてくれた痛み止めの魔法が薄れてきた。背中が痛い。焼け付くように痛い。

 ズザナは、きっとここで死ぬんだろうな、と思った。夜の森には危険な生き物がいるに違いない。ましてやこの森は魔族領と人類領を隔てる森だ、いつ魔族が現れるかもわからない。


「ガイウス……」


 ズザナは地べたにへたり込んだ。

 武器商人の娘なんて、こんなふうに死んでしまえばいいのだ。ロビンの店で見た、実家の紋章が入った箱は、銃の弾薬を入れる箱だった。

 きっと父親が、ズザナを貴族に輿入れさせる金を作るために、たくさんの人が命を落とし、この森になったのだ。

 それならばこの森に還るのが、妥当ではないか。


「――ズザナ!」


 カンテラを持ったガイウスが、薄暗くなった森を踏み分けて現れた。ズザナは、これこそが救世主だと思った。救ってくださる神だと思った。それは司祭に言ったら鞭で叩かれることだろう。

 どんな教えの神よりも、ガイウスはズザナの救世主だった。


「なんでこんなバカなことを。北方はすぐ陽が沈む。帰れなくなったらどうするつもりだったんだ。狼だって熊だって出るんだぞ」


「ごめんなさい。ごめんなさい……」


 ガイウスに抱きついて、ズザナはわんわん泣いた。ガイウスは木こりという仕事からか、とてもがっしりした体格をしていた。


「泣くなよ。泣かないでおくれよ。無事に見つかったんだから。帰ろう。なんかうまいもん食べよう」


「ガイウス、背中が痛いの。痛み止めの魔法をかけてくださらない?」


「わかった。じっとしててな」


 ガイウスはズザナを抱きしめたまま、小声で呪文を詠唱した。ズザナの背中の痛みが引いていく。


「あ」


 ズザナはガイウスから離れ、その場で木靴を脱いでみた。手編みと思われる靴下には血のシミができている。靴擦れしたのだ。その痛みまで消えていて、ズザナは思わず顔をほころばせた。


 ◇◇◇◇


 ガイウスの小屋に戻ってきた。ガイウスはカンテラを高いところに吊るして灯りをとり、昼のセロリアックのスープを温め、マッシュポテトを焼いたソーセージに添えて、黒パンにバターを塗って焼いた。


「できた。食べてくれ」


 ガイウスが食器を差し出す。

 ズザナは腹ぺこであることを思い出した。それを思い出したら、食べものはあっという間になくなってしまった。


「足りないか? それなら俺のソーセージをやるよ」


「……結構ですわ。太るといけないもの」


「いいから食えって。あの司祭のとこでろくなもん食ってなかったんだろ。食えば元気が出るし傷の治りも早くなる」


「ガイウス、あなたはお腹が空かないの?」


「俺はズザナには内緒で燻製のニシンを焼いて食う」


 ガイウスの陽気な冗談に、ズザナはうふふと笑い出した。


「このお家、ベッドは一つだけですの?」


「今は俺しか住んでないし、ガキのころはオヤジとお袋と一緒に寝てたからな……心配すんな。俺は床で寝るよ。村の連中は噂好きだからな」


「だから村のほうの窓はカーテンを閉めていらっしゃるの?」


「まあそういうことだな。あの村の連中、どうも鋼の民が嫌いなんだよ。3年前の魔族との戦争で、鋼の民の軍人が村や畑をめちゃくちゃに踏んでいったからな。それに従軍した男はみんな鋼の民が嫌いだ」


「あなたも?」


「……まあ、な。でも旅籠のハーフリングの飯盛女に手を出すほど嫌いじゃない」


「飯盛女……?」


 ズザナは首を傾げる。ガイウスはひひっと笑う。


「要するに属州政府公認の娼婦だ。鋼の民にも、泊まるついでに1発、っていう人が結構いるんだそうだ」


「まあ。鋼の民がハーフリングに手を出すなんて」


「ヘンタイさんに人気だぜ、ハーフリングは鋼の民の子供に似てるからな。でも14歳くらいで結婚して子供を持つんだよ、ハーフリングってのは。そのぶん離縁するのも早いらしい。寿命も鋼の民より短い」


「じゃあ、カンナステラさんは離縁なさったの?」


「なんでカンナステラに夫がいないと思うんだ?」


「王都では働く女性は、だいたい未婚の女の子かやもめか、離縁したひとり親だから。宝石を磨くお仕事をなさっているのでしょう?」


「そうか。カンナステラはやもめだよ。旦那さんは3年前の戦役で亡くなった」


「まあ……」


「この村じゃやもめやひとり親じゃなくても、女が働くのは当たり前なんだ。産業が乏しいからな。畑もやらなくちゃいけないし、豚小屋も持ち回りで世話してる。俺は村人には嫌われてるが、オヤジが人格者だったから俺も豚小屋の世話をやらせてもらってるんだ」


「豚小屋を手伝うと、屠殺したあとのお肉を分けてもらえるということ?」


「そういうことだ。ズザナは賢いんだな」


 ガイウスは嬉しそうだった。そして本当に燻製のニシンを取り出して焼き始めたので、ズザナも少し分けてもらった。

 燻製のニシンは煙臭くてしょっぱくて、そんなにおいしいものだと思わなかったが、ガイウスが焼いてくれたと思うととてもおいしいような気がした。(つづく)

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