第三章 藤野 芽衣の物語

第一話 色褪せた写真

藤野芽衣は、控えめな少女だった。

教室の隅で、いつも静かに本を読んでいる。

休み時間も、昼食時も、ほとんど声を発することはない。

目立つことを嫌い、誰かの視線が自分に集まるだけで、

息が詰まるような息苦しさを感じる。

人の輪の中心に立つことはなく、

自分の意見をはっきりと主張することも苦手だ。

まるで、押し花になった花のように、

そっと、誰にも気づかれずに存在している。

誰かに注目されることよりも、

ただ、平穏な日常の中で、

自分の小さな世界に浸っていることを好んだ。

彼女の小さな世界は、いつも静かで、穏やかだった。

だが、その静けさの中にも、確かな輝きがあった。


けれど、芽衣の心の中には、

誰にも見せない、秘めたる情熱があった。

それは、放課後の音楽室から聞こえてくる、

ギターの音色に宿っていた。

二学年上の先輩、ハヤトへの密かな憧れだ。

ハヤト先輩の指が、ギターの弦をなぞるたび、

芽衣の胸の奥で、見えない弦が震えるように響く。

その振動は、全身にじんわりと広がり、

芽衣の心を、まるで深い森の泉のように、静かに揺らした。

彼の奏でるメロディは、いつも芽衣の心を揺さぶり、

時に優しく、時に激しく、彼女の感情をかき乱した。

音楽室から漏れ聞こえるギターの音色が、

芽衣の単調な日常に、唯一、鮮やかな光を灯している。

彼の音楽は、芽衣にとっての唯一の癒しであり、

そして、誰にも言えない秘密の源でもあった。

音楽だけが、芽衣の本当の心を解放してくれた。

言葉では表現できない感情も、音符にすれば形になる。


ハヤト先輩とは、幼い頃からの繋がりがあった。

まだ制服を着る前の、あどけない頃。

汗をかきながら駆け回った、近所の公園の、朽ちかけた滑り台の裏。

そこは、二人だけの秘密基地だった。

古いアルバムをめくると、

セピア色に色褪せた写真の中に、二人で無邪気に笑っている姿がある。

泥だらけの服で、お気に入りのビー玉を見せ合っていた。

あの頃、交わした約束があったはずだ。

夕焼けに染まる公園で、

「また明日ね」「ずっと一緒だよ」と、小指を絡めて、指切りを交わした、はずだ。

けれど、その約束の本当の意味は、

今では霞がかって、曖昧にしか思い出せない。

まるで、遠い夢のようだ。

果たせなかった、何かがあるような気がして、

芽衣の心には、常に微かな後悔が残っていた。

その後悔の残滓が、胸の奥でチクリと痛む。

不意に、過去の景色がフラッシュバックする。

あの時、どうして、もっと素直になれなかったのだろう。

芽衣はそっと胸に手を当てた。

まるでそこに、小さな棘が深く刺さっているみたいだった。

あの約束を思い出すたび、少しだけ痛む場所。

その秘密の痛みは、誰にも話せない。

誰に話しても、きっと理解されないだろう。

一人で抱え込むしかない、重い秘密。


芽衣にとって、「ココロノオト」は、

そんな秘めた想いと、

誰にも知られずに抱える歌の才能を、

唯一、表現できる場所だった。

人前で歌うことはできない。

喉が固まり、声が震えてしまうから。

視線が自分に集まるだけで、息が詰まる。

足がすくみ、頭が真っ白になる。

でも、ボカロ曲になら、

私の歌声を乗せられる。

匿名というベールに守られて、誰の目も気にせず、自由に歌える。

そう信じていた。

匿名で投稿するボカロ曲だけが、

彼女の抑えきれない感情を表現する、

ただ一つの場所だった。

「つぼみ唄」という投稿者名で、

芽衣はこれまでも、

ハヤト先輩への憧れや、

果たせなかった約束への後悔を、

心の底から絞り出すように、歌にしてきた。

彼が、この歌に気づいてくれたら。

彼の心に、私の本当の気持ちが届いたら。

そんな淡い期待を抱きながら、

今日も、新しいメロディを紡いでいる。

彼女の歌声は、匿名というベールに包まれて、

静かに、しかし確かに、その存在を主張していた。

それは、芽衣自身の分身のようなものだった。


放課後。

音楽室の前を通り過ぎるたび、

ハヤト先輩のギターの音が聞こえる。

弦を掻き鳴らす音、指がフレットを滑る音、そして時折聞こえる彼の吐息。

今日は、少しだけ、悲しい旋律だ。

いつもより、深い闇を湛えているように感じる。

何の曲だろう。

芽衣は立ち止まって、そっと耳を傾けた。

音楽室の窓は開いていて、

夏の風が、先輩の奏でる音を、

やさしく、しかし切なく運んでくる。

その音が鼓膜を震わせるたび、芽衣の肩は小さく揺れた。

心臓が、そのメロディに合わせて不規則に跳ねる。

まるで、ハヤト先輩の心の声が、

直接、芽衣の胸に響いているようだ。

その音色に、芽衣の心は共鳴する。

私も、こんな風に、音で気持ちを伝えられたら。

言葉では伝えられない、この複雑な想いを。

音楽室のドアの向こうに、ハヤト先輩の横顔が浮かぶようだった。

彼の心にも、何か、悲しいことがあるのだろうか。


その日の帰り道。

校門を出て、まっすぐに伸びるアスファルトの道を歩く。

蝉の声が、降り注ぐ日差しの中で、耳元で鳴り響く。

少し前を歩くクラスメイトたちが、楽しそうに話しているのが聞こえた。

いつものように、スマホを覗き込みながら。

流行の音楽アプリの話をしているのだろう。

しかし、その会話の内容が、ふと、芽衣の耳を捉えた。


「ねえ、知ってる?最近、『ココロノオト』でQRコードラブレターが流行ってるんだって!」

一人の子が、興奮した声で言った。

「え、また新しいの?どんなの?」

別の友達が、目を輝かせながら尋ねる。

「自分の気持ちを歌にして投稿して、できた歌のページにQRコードがついてて、それを印刷したら簡単に誰かに見せられるらしいよ」

「マジで?それ、超本気じゃん!直接渡すわけじゃないから、ハードル低いし、匿名で気持ちを伝えられるってことだもんね!」

「うん、誰からの歌か、最初は分からないんだけど、

コメント機能で特定の人にだけ分かるようにできるんだって!

だから、相手だけには誰からのメッセージか、分かる仕組みになってるらしいよ」

「えー!それ、ドキドキするね!私、あの先輩に送っちゃおうかな!もしかして、両思いになれるかもって期待しちゃう!」

サキの声が弾んでいる。その言葉が、芽衣の胸に熱く響いた。


芽衣は、その会話に、思わず立ち止まった。

QRコードラブレター。

ココロノオトを、ただの投稿場所として使っていた芽衣にとって、

それは、全く新しい、そして恐ろしくも魅力的な方法だった。

自分の歌を、直接、ハヤト先輩に。

匿名で、けれど確実に。

それは、かつて交わした、

果たせなかった約束の、本当の意味を伝える、

唯一の手段になるかもしれない。

過去と未来が、一本の線で繋がるような感覚。

色褪せた写真の中の二人が、

今の芽衣に、そっと囁いているようだった。

「きっと、これが、最後のチャンスだ」と。

心臓の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

もう、迷っている時間はない。


家に帰り、自室の机に向かう。

ランドセルを置いてから、古いアルバムをそっと開いた。

懐かしいインクの匂いがした。

ページをめくる指が、わずかに震える。

そこには、幼い頃の芽衣とハヤト先輩が写っている。

秘密基地で、二人で描いた落書き。

壁に書かれた、意味不明な暗号のような記号。

無邪気な笑顔が、夏の光の中に輝く。

「また、一緒に遊ぼうね」。

あの約束。

あの時のメロディを、私は覚えているだろうか。

そのメロディが、私の歌を、もっと強くしてくれる。

ハヤト先輩にしか分からない、秘密のメロディ。

芽衣の胸の奥で、小さな、しかし確かな決意が芽生え始めた。

この歌に、私の全ての想いを込めて。

もう一度、ハヤト先輩に届けたい。

今度こそ、過去の全てを清算するために。

そして、止まったままだった二人の時間を、

もう一度、動かすために。

窓の外の夕焼けが、赤く燃え上がっていた。

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