第二話 揺れる片影
「ココロノオト」。
その言葉が、律の頭から離れなかった。
放課後、家に帰り着くやいなや、律は自室の机に向かった。
制服のまま、律はスマートフォンを手に取る。
指先が、わずかに震えている。
検索窓に、「ココロノオト」と入力する。
一瞬のロードの後、すぐにサイトの入り口が現れた。
そのシンプルなロゴが、律の心を捉える。
サイトを開く。
画面いっぱいに広がるのは、洗練された、けれどどこか温かみのあるデザイン。
決して派手ではないが、心を惹きつける何かがある。
トップページには、たくさんのボカロ曲が、新着順にずらりと並んでいた。
それぞれの曲には、タイトルと、匿名を示すアイコンだけが表示されている。
「この曲は、誰かの秘密の気持ちなんだ」
そう思うと、胸がざわついた。
見知らぬ誰かの、秘めたる感情が、歌という形になってそこに存在する。
まるで、見えない心の美術館に迷い込んだような、不思議な感覚に包まれる。
一つ一つの曲に、それぞれの物語があるのだろう。
その重みに、律は息をのんだ。
サイトの利用規約や、機能説明を読み進める。
自分の心を歌にする。
心に秘めた想いを、メロディと歌詞に乗せて表現する。
そして、歌われた気持ちを、匿名でサイトに投稿できる。
投稿された曲のページには、自動的にQRコードが生成される仕組みだ。
そのQRコードを印刷して、誰かに渡すことができる。
受け取った相手がそのQRコードをスマートフォンで読み取れば、歌のページに繋がり、そこに込められたボカロ曲が流れ出すのだ。
送り主の秘めた想いを、直接相手に届ける、新しいコミュニケーションの形。
さらに、その歌のページに、QRコードを介してコメントを送れる機能がある。
そのコメントは、送り主と受け取り手の二人にだけ、誰からのコメントか識別できる特別な機能を持つ。
つまり、匿名でありながら、特定の相手との間でだけ、心の交流が可能なのだ。
陽太に、この気持ちを。
律の心臓が、高鳴った。
これだ。
この方法なら、陽太に、私の本当の気持ちを、伝えられるかもしれない。
直接、面と向かって「好き」だと言う勇気は、まだない。
でも、歌になら、できるかもしれない。
秘めたる想いを、匿名で、しかし確実に、彼の心に届けることができる。
それは、まるで魔法のようだ。
律は、「新規投稿」のボタンをタップした。
投稿者名を入力する欄が表示される。
律は迷わず、「ひびきノート」と入力した。
それは、律が小学校の入学祝いにもらった、少し色褪せた、大切なノートの名前だ。
陽太との思い出がたくさん詰まった、律だけの秘密の宝箱。
初めて陽太と交換した手紙。
二人で描いた落書き。
些細な出来事も、律にとってはかけがえのない宝物だ。
その大切なノートの名前を、ここに刻むことに、小さな覚悟が生まれた。
もう、後戻りはできない。
そして、曲作りが始まった。
真っ白なキャンバスに、色を乗せるように。
律の脳裏に、陽太との思い出が、次々と鮮やかに蘇る。
放課後のグラウンドで、サッカーボールを追いかける陽太の横顔。
風に揺れる、少し癖のある髪。
いつもの帰り道。
律より少しだけ前を歩く彼の、広くて優しい背中。
夏の夕暮れ、二人で食べたアイスの味。
些細なことばかりなのに、どれもが愛おしい。
放課後の教室で、一人きり。
ヘッドホンから流れる、インストゥルメンタルのトラック。
ピアノの旋律が、律の心の奥底に響く。
指先が震える。
想いが込み上げるたびに、音符がピアノロールに打ち込まれていく。
言葉にならない、もどかしい気持ち。
届かない、切ない想い。
それら全てが、メロディになって、溢れ出した。
歌詞も、陽太への想いをストレートに綴った。
「君の笑顔が、私のすべてだった」
「この声が、君に届くなら」
何度も書き直し、何度も歌い直す。
魂を削るように、言葉を紡いでいく。
タイトルは、「揺れる片影」。
この曲に、律の全てを込めた。
誰にも言えなかった、陽太への片思い。
幼い頃からの、二人だけの秘密。
河川敷で交わした、他愛もない約束。
そして、律だけが知る、陽太の優しい眼差し。
その全てを、音符と、言葉に託した。
魂を込めて、歌い上げる。
ボーカロイドの透明な声が、律の心を代弁するように響く。
まるで、律自身の声が、陽太に語りかけているようだ。
完成した曲を、律は「ココロノオト」に投稿した。
投稿ボタンを押す指に、熱がこもる。
これで、陽太に聴いてもらえるかもしれない。
この歌が、君に届きますように。
強く願う。
期待と不安が、胸の中で波のように押し寄せた。
まるで、嵐の前の静けさのように。
律は、完成した曲のQRコードを、プリンターで印刷した。
一枚の、小さな紙切れ。
それは、律にとっての、陽太への「本気のラブレター」だった。
これを、どうやって渡そうか。
直接手渡す勇気は、まだなかった。
でも、きっと、陽太なら、この歌に込められた律の想いに気づいてくれるはず。
そう、信じたかった。
小さな紙切れが、律の手の中で、じんわりと温かい。
翌日の放課後。
律は意を決して、そのQRコードを、ポケットに忍ばせていた。
心臓が、いつもより早く脈打つ。
陽太が部活を終え、昇降口でリュックを背負っている。
彼の顔には、練習で流した汗が光っている。
律は彼の少し後ろを歩く。
陽太が靴を履き替えるために、屈んだ瞬間を狙った。
素早く、まるで忍者のように、彼のリュックのサイドポケットに、そっとQRコードを滑り込ませた。
指先が、陽太のリュックの生地に触れる。
その瞬間、律の意識が揺らぐ。
まるで数年前の屋上での、「誰かの悲鳴」や、
「落ちていく制服の裾の幻影」が、
一瞬、脳裏をよぎるような、強いデジャヴに襲われる。
心臓が喉まで飛び出してくるような、律の鼓動が、全身に響き渡る。
手が震えた。
自販機前で触れ合いそうになった、彼の指先が、今も熱を帯びているように感じる。
一瞬の出来事だった。
しかし、律の心には、その一瞬が永遠のように刻まれた。
陽太は何も気づかず、靴を履き終えると、律に笑顔で話しかけた。
「律、どうした?顔色悪いぞ?もしかして、夏バテか?」
律は慌てて笑顔を作った。
「ううん、なんでもない!ちょっと、暑かっただけだよ。陽太も、練習お疲れ様」
陽太は不思議そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
律は、陽太のリュックにQRコードが収まっていることを確認すると、安堵と、そして微かな後悔が入り混じった複雑な感情に包まれた。
これでよかったのか。
本当に、この方法で、想いは届くのだろうか。
この小さな一歩が、陽太との関係に、そして律自身の心に、どんな変化をもたらすのだろうか。
律の心は、不安と期待の間で、大きく揺れ動いていた。
陽太のリュックが、校門へと遠ざかる。
その中に、律の秘めた想いが、確かに息づいている。
きっと、この想いは届くはずだ。
律は、夕焼けに染まる空を見上げ、静かにそう願った。
明日からの日々が、少しだけ、色鮮やかに変わるような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます