第5話


 自分の中にも郷愁というものが存在することが、彼には不思議だった。

 それは悲惨な末路を辿った同胞を弔いたいとか、失われた記憶を取り戻したいとか、そういうはっきりした思いではなかった。

 だが何となくこの地に来たのだから、訪れなければという根拠のない、だが突き動かすような気持ちが湧いて来たのだ。


 ――そう、それこそが『郷愁』だった。


 逸る気持ちはメリクを風のように歩ませた。

 なだらかな山道を上がり、そして下る。

 やがて平らな草原に出て足元を枯れ草が覆うようになると、その腰まで埋めるような柔らかい草の感覚を、自分は知っているような気がした。


 風が吹く。

 山間の平原に吹き下ろす。


 一瞬、自分の脇を楽しげに笑い声を上げて駆けて行く、子供達の幻を見た気がした。

 その、少年達の一番後ろを置いて行かれまいと必死についていく栗色の髪の少年。



 ――――ザァ…………ッ



 緩い丘を登り切る。

 目の前に緑の平原が現われた。

 そこだけは草が若く、それは丁度一つの小さな村落ほどの領域を覆い尽くしていた。


 十五年の歳月。


 十五年の空白に導かれるようにメリクは丘をゆっくり下りて行った。

 所々に残る石壁の残骸。

 家だったのだろうそこに、根を張った樹の上でフクロウが鳴いている。


 風の音。

 ……水の音。


 草に埋もれた井戸。

 やはり呼び覚まされるものはない。

 呼び覚まされるものはないのに、知っていると思う自分が不思議だった。

 村はずれに外壁だけが残った場所があった。

 屋根などはなく外枠だけがうっすらと残り建物の大きさを表わしている。

 僅かに残る聖なる魔力の気配。


 メリクが魔術師でなかったら気付かなかったもの。

 ここは信仰の集まる場所だった。


 ……教会だったのだ。


 アミアは確か、教会の奥でメリクを見つけたと言っていた。

 一応は入り口と思われる方向から入ってみた。


 そして彼はハッと一瞬息を飲んで立ち止まった。


 明るい月の光に照らされ一つ、ぽつりと長い影が落ちている。

 顔半分から上半身を大きく抉られた女神像だ。

 身体に植物の蔦が絡み付き、失われた顔の半分を隠すように白い花を咲かせていた。

 慈悲を宿す優しい片目が伏せて地上を見下ろしている。


 メリクはゆっくりと近づいて行った。

 胸に組んだ、手首を失った女神の腕にそっと触れてみる。


 ……何故か彼女の手が、メリクには温かく感じられた。



 終焉の地。

 だが自分だけはここから全てが始まった。

 あの時自分を生かしたものがなんだったのか、エドアルト・サンクロワとの出会いによって察した運命の轍はあるものの、メリクの心の内ではまだ一つだけ明らかになっていないことがある。


 それは。



「……何故『俺』だったのですか?」



 メリクは呟いた。

 慈悲を与える女神は静かな表情で沈黙している。

 自分の意志も心も関わりないのだとしたら、

 それはメリクでなくともよかったはずだった。


 この村で燃え尽きた他の者、親、兄弟、誰でも良かった。


 なぜ自分だったのか。

 それだけが分からず、メリクの心にずっと影を落としている。


 問いかけても神はやはり答えなかった。

 メリクは小さく息をついて振り返った。

 教会跡地を出ようとしたその時。


 確かに『視えた』。


 白い光を帯びた子供の影が教会の前を通り過ぎて行った。

 メリクは歩き出す。


 風が彼とは逆の方向に吹いた。


 ぽつりぽつりと生い茂る草の間から不思議な光が浮かび上がる。

 導かれるようにそれを辿って行くと、更に教会の奥に崩れた尖塔と鐘の残骸が残っていた。

 そこに子供達の姿があった。


 鐘の上に並んで座って月に向って手を差し出している少女。

 笑いながら鐘の周りを元気よく走っている少年。

 魔力を帯びるメリクの翡翠の瞳は確かにそれを映していた。

 その、唇が微かに笑みを象った。


 あれも浮遊霊だ。


 時の劣化を受けず、月の美しい夜に――大地の寝床から蘇り、ああして遊んでいるのだろう。


 大人の姿は一人もない。

 子供の純粋な魂と魔力だけがそれを許したのだ。


 メリクはゆっくりとしゃがみ込んで大地を手の平で触った。


 ……魔力だ。


 確かに感じた。

 この大地には魔力の強い流れが水脈のように出来ている。

 小さな辺境の村だがここは魔力の集まる地なのだ。

 辺境の村の子供にしては強い魔力を持つと、サンゴールでは随分不審がられ警戒されたが、この地にはメリクという器を生み出すだけの力が確かにある。

 ここに来て、そのことを初めて理解した。

 当時この地にいた時は知る由もないことだ。

 この村の大人たちでさえ、この地は特別魔力が強く大地に宿る土地などということは知らなかったかもしれない。魔術師となってこの地を再訪した自分だからこそ感じ取れたのだ。


「……そうだったのか」


 メリクはそのまま前のめりに地に額をつけて倒れ込んだ。

 柔らかい大地に伏せ目を閉じる。

 自分はこの地に生まれたというだけで、特別な何かだったわけではない。


 彼らが自分であったかもしれないし、

 自分が彼らであったかもしれなかった。


 激しい炎で焼き尽くされ、どんなに辛かっただろう。

 ……だがこの地を離れた自分もサンゴールで苦しみ抜いて来た。


 メリクは伏せたまま、遠くで遊ぶ子供達の姿をぼんやりと見ていた。


 彼らは間違いなく自分の同胞だ。

 ここは自分の故郷なのだ。


 はっきりとそれを感じた。



「……あんなに楽しそうに……」



 メリクは微笑んだ。


 よかった。

 少なくとも彼らは今はもう、苦しんではいない。


 気持ちのいい風が通り過ぎる。

 メリクは仰向けに大地に寝そべって朝へと傾いて行く月を見上げていた。


 ……初めて感じる。

 自分の居場所だ、ということを。


 いや、初めてではない……。

 幼い頃リュティスの側でもそれを感じることがあった。


 ごく僅かな時間ではあったけれど、そこは自分の居場所でそこにいれば何も不安もなく、何があっても守ってもらえるという、言いようの無い安心感をあの第二王子には感じていた。

 だがそれが思い違いであったことを知り、事実を受け入れたあとは、メリクの居場所はどこにもなくなった。


 リュティスとの間に埋めきれない亀裂が出来、忌み嫌われ遠ざけられるようになって以後、メリクはどんな場所にも、どんな人にもそれを感じることが出来なくなった。



 でも今は。


 リュティスを失って以来初めてその感覚を感じた。




「…………ここにいようかなぁ…………」




 ここにいればもう、違うと思わないでいい。

 何も探さなくていい。

 誰も自分を責めないし、受け入れてくれる。

 もう誰も傷つけないでいいし、

 ……傷つけられることもない。



 メリクは目を閉じた。

 このままこの安堵感の中で眠ってしまいたかった。



 ――――ピィ。



 小さな声がした。

 ふと自分の腰に下げた小さな鞄から顔を出しているものがあった。

 バットだ。

 首に紐をつけているのだが、よく抜け出すことがある。

 いつの間にかここにもついてきたのだろう。全然気付かなかった。

 メリクが鞄を開けると外に出て来た。


「……君も好きな所に行っていいよ」


 メリクは言った。

 バットは出て来たものの、月夜に目を輝かせたまま、メリクの側に座り込んだ。


 縛るものはないのに、逃げようともしない。

 人の手に慣れすぎたのだろう。

 毒性も弱らせてある。

 本能で悟っているのだ。もう自分が人の手で世話をしてもらわないと生きていけなくなっていることを。


 そう思った時メリクは噛み付かれながら、この蝙蝠の世話をしている少年の顔を初めて思い出した。


 ゆっくりと身を起こす。


「確かに……、一度引き受けた命は投げ出してはいけないね」


 バットが翼を広げパタパタと浮遊すると、メリクの肩に留まった。


 彼は立ち上がる。


 草を掻き分けるようにして歩き出した。

 丘を登って行き、一度村の方を振り返った。


 一面の草原。


 埋もれた廃墟。


 そこには風だけが吹いていた。



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