第2話 同じ時間に

春分の日とはいえ、まだ少し肌寒い午後。

図書館の丘に吹く風には、冷たい花の香りが混じっていた。


今日は祝日だからか、来館者が多く、リリカはいつもよりも忙しく立ち働いていた。

返却本の山、子どもたちの笑い声、春の絵本の特集棚――

せわしない空気のなかで、彼女の心の一部だけが、どこか遠くを見つめていた。


(今日は……来るのかな)


ふとした拍子に、思ってしまう自分がいた。

先週、手がふれたわけでも、言葉を交わしたわけでもない。

ただ同じ空間にいたというだけ。


それだけのはずなのに。




午後三時すぎ、丘を下りて、いつものカフェに足を向ける。

ドアの向こうに漂う、木とコーヒーと、あたたかいバターの香り。

チリン――と鈴の音が鳴り、リリカの一歩が、やさしく空間に溶けていく。


「やあ、リリカちゃん。寒かっただろ?」


カウンターから、シノさんが笑顔で手を挙げる。


「うん……今日は風、つめたいですね。アールグレイ、お願いします」


「了解。レモン入れる?」


「今日は、なしで」


トレイに紅茶と、焼きたてのクッキーが一枚だけそっと添えられる。

それを手に、ふと視線をカフェの奥へ向けたとき――

リリカの胸が、わずかに高鳴った。


いた。


いつもの席。窓際。光の差す壁際。

彼はすでにそこにいて、本のページをめくっていた。




彼の横顔は、静かだった。

何も求めていないようで、何かを深く抱えているようにも見える。


黒髪は光を弾かず、むしろ吸い込むように滑らかで、

目元は伏せられているのに、まるで何かを見透かしているような雰囲気がある。

彼はページをめくる指先までもが落ち着いていて、

カップに口をつける仕草すら、妙に色気を帯びていた。


その手の動き――

なんでもないのに、視線を奪う。

そして、自分がそれを“見てしまっている”ことにすら、気づいてしまう。


(……何をしているんだろう、わたし)


リリカは自分に問いかけながら、カップに口をつけた。

アールグレイの香りが、胸の奥にあるざわつきを包み込んでくれる気がした。




しばらくして、カウンターの方から、聞き慣れた低い声が響いた。


「コーヒー、おかわりを」


その声を聞いた瞬間、リリカの指先がわずかに震えた。

振り向かなくてもわかる――あの人の声だ。


低く、静かで、少し掠れたような響き。

耳元を撫でるような柔らかさと、喉奥の振動が混ざりあった声だった。


名前も、何をしている人なのかも知らない。

それなのに、彼の「気配」が、カフェの空気ごと変えてしまうのを感じた。




(いつも……同じ時間、同じ場所)


(わたし、こんなふうに、誰かを気にするつもりじゃなかったのに)




その日も、言葉は交わさなかった。

でも、たしかにリリカの中には、何かが積もっていた。


彼の声、仕草、目の動き――

「関わっていないはずの人」が、なぜこんなに心を占めているのだろう。


紅茶が冷めていくのも忘れて、彼の背中を、ただ静かに目で追っていた。


そして、彼を見るとき、なぜか“誰かに見られている”ような薄いざわめきが胸に走る。

その理由を知るのは、もっとずっと先のことになる。

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