第九章 来る朝の七彩

――――――2024年6月6日07時00分10秒


「ふわぁぁ~」


 アゴが外れそうなぐらいのあくびをして起きる。ずっと朝に寝て昼に起きる生活をしていた人間でも、ちゃんとアラームをかければ起きられるということを証明する瞬間だった。


「えぇと。家については管理人さんに連絡してあるし、荷物もある程度リュックとトートバッグに詰めたし。問題ないかな。」


 冷蔵庫から水を取り出す。

――コップの七割まで注ぎ、飲み干す。


「よしっ。本当に今日、行くんだな。」


 自室の出窓から差し込む朝日が、俺の背中を明るく照らしていく。


「楽しみだな。」


 言葉にすると、実感がわいてくる。それと同時に不安も。

――けれど、この不安はこの先に待っている、楽しい出来事を色鮮やかにしてくれると信じている。


 服を着替える。洗濯しなおして、いい匂いになった服。今までをきれいに洗い去ったわけじゃないけど、一緒にいてくれる、ほんの少しだけの楽しい記憶とうれしい時間を身にまとう。


 窓を開ける。昨日の雨で冷めた空気が部屋になだれ込む。今まで檻に閉じ込められていた、過去という空気が、心地よいものに変わっていく。


「何も変わっていないわけじゃないんだ。」


 変わろうと思って動き出したその日にはもう、前の自分とは違うんだ。


――ドアノブに触れる。


――――ガチャッ



 扉を開ける。光が舞い込んでくる。


「それじゃあ、予定より早いけど……」



――――「いってきます。」



 スニーカーの弾む音、蒸発する水たまりの香り。朝鳥のさえずり。祝福の旭。




<<東秋駅>>

――――――7時半ごろ



 最寄りにつくと、そこにいたのは誠也でも憲弘でもなかった。


「どうして、ここに?」


 昨日の別れで最後だと思っていたからこそ、驚きと喜びと、少しの疑問で喉が動く。


「慎一さ。」


 その姿は、朝だからこそサラサラに手入れされた髪と、身に纏うは美しい布地。


「うん。」


「昨日書いたあの言葉。私はずっと思ってるからね。」


 喉の震えは少しずつ、揺らいでいく。


「慎一にとって、私がどんな存在なのかわからない。けど……私にとって慎一は、いつまでも色あせることのない、」


 綾乃の目にはキラキラと、朝露のような美しい涙が留まっている。


「大切な思い出で、大切な時間で、」


 旭は後光となって二人を照らす。 




――――「大切な人。」




 頬に伝う涙。綾乃の気持ちが……俺と綾乃を彩る全てに祝福の水滴を注ぐ。


 綾乃の思いを、直接、心の声そのままで聞くことができる。その瞬間が、うれしい。そのうれし涙なのかもしれない。もしかしたら綾乃とはもう会えないかもしれないという、淋しさからくる涙かもしれない。けれど確かなこと……


――綾乃の言葉に、俺は救われている。


 大事な時いつも、綾乃が言葉をくれる。俺にはのせることのできない重さと、大切さと、希望をのせた言葉を。


「だからね、慎一のこと。ずっと好きだよ。」


 『好き』の二文字がどんな意味を表しているか、考える間もなく、口にしていた。


「俺も綾乃のこと、好きだよ。」



 二人そろって気持ちを伝えた瞬間、あでやかな髪が風に舞う。



「ふふっ。」


 綾乃は涙を拭いながら笑顔を浮かべる。


「なんだか、朝から愛の告白シーンって、ドラマみたいだねっ?」


 その笑顔は屈託もなく、待ち受ける希望を夢見る少女のように、真っすぐで、爛漫で、くすぐったい。


「ドラマみたい、というか、もはやドラマだね――ほら。」


 俺が朝日に照らされた街を指をさす。


「わぁ~!虹じゃんっ!」


 その瞳に輝く虹が一番きれいだと思った。


「ほら!なんで虹見ないで私ばっか見てるの?」


 見透かされそうで、でも見え透いた答えを当ててほしくて。


「虹よりも、大切な人を見ていたいと思ったから。」


 綾乃は微笑む。


「私はね、あの虹みたいに。慎一とまた、偶然会えたらいいなって思ってたんだよ。」


 何かを願うように、お互いがお互いを思いあう。その温かい感情に、ゆっくりと浸る。


「偶然じゃなくても、会えたら俺はうれしいかな。」


 綾乃は俺の頬をつつく。


「そういうところっ!」


――――そうして流れる朝の美しい時間が、鳥のさえずりと共に朗らかになる。


「おはよーって、綾乃もいるじゃん!なんでっ?」


「慎一の居場所、よくわかったね。」


 綾乃はしたり顔で、


「当然でしょ?慎一のことなんかわかりやすくて、全部お見通しだから。」


 綾乃は閉じた目の片方だけを、少し開けて、口元を緩める。


「まじかぁ。慎一の正妻候補一人増えたじゃん~。」


 憲弘は朝から絶好調だ。


「なに?憲弘も慎一狙ってんの?」


 憲弘のボケにしっかり乗る綾乃。


「もっとさ、感動的な別れにしようと思わないのかな……。」


 と誠也は苦笑するが、内心は楽しそうなのがその頬の動きでわかる。


「二人が来たら感動とか無いでしょー。」


「いやいや、感動の塊でしょ!」


「中臣鎌足みたいに言うな。」


「じゃあ、俺、中大兄皇子やん。」


「もういいって。慎一もいつ行こうか困ってるじゃん。」


 綾乃が目配せをして「もう行っちゃうの?」と口を動かす。

――うん。


 永遠に続いてほしいと思う一瞬も、一瞬であるが故に輝く。


「それでは、慎一の最高の旅路を祈願してーっ」


「「いってらっしゃい!」」


「いってらっしゃい。」


――――そうして四人で笑いあって、一人旅立つ朝は、眩しくて、暖かくて。


「いってきます。」







 この一瞬は――――未来へのPresentになる。

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