第八章 第二幕 心清め洗い祓い給へ
――「あ、きましたよ。」
駅の改札から降りてくるのは、スーツを身にまとい、ネクタイを締め、髪をセットした会社員だった。湿気のせいか、少し髪が崩れている。
「申し訳ありません。仕事が長びいてしまっ……」
「はいはい。言い訳はいいから、さっさと始めるよ。」
綾乃が先陣を切って、駅前ロータリーに向って歩き始める。
「じゃあ、慎一さんはこの人をしっかり見ていてください。」
それだけ言うと、明花さんは綾乃の横へ行く。
「慎一はその人から変なこと学ばないでね。」
綾乃が振り向く。
「いや、そもそも俺は浮気するほどモテないから。」
「そうだったー。ごめんごめん。」
綾乃はこのやり取りを想定していたのか、満足して明花さんと仲良く話し始める。
――そもそも俺はこいつと話すこともないし、接点もない。だからできることといったら、こいつが自らの過ちを正すのを促すことぐらいだ。
「あの……。」
彼は恐る恐るといった表情と、手振りで俺に話しかける。
「なんでしょう。」
あくまで気丈な振る舞いで、深入りするつもりはない姿勢を前面に押し出す。
「恐れ多いのですが、貴方は一体何者なんですか?」
自分が何者か。そんなこと自分が一番よくわかっている。
「何者でもないですよ。ただの人間。それ以上でもそれ以下でもありません。」
まだ何かに成れていないのだから。そう答えて当然。
「いえ。そういうことではなく……。」
彼の質問の意図にそぐわなかったようだ。
「じゃあ、何ですか?」
あからさまに彼を見ると、さらに委縮する。
「い……いえ。何でもありません……。」
はぁ。こういう奴は都合のいいときは大言壮語。都合が悪くなると自己保身。
――「よし。じゃあ、このあたりでやってもらおうかな。」
綾乃が振り向き、口元が上がる。
「ここで……。」
彼は言葉を失って、棒立ちになっている。
そこは、選挙の際によく使われる場所、ロータリーの時計台前で最も目立つ場所だった。
「それじゃあ。この文章を丸暗記してもらって。これはかならず言ってほしいこと。」
綾乃が俺に紙を渡し、彼に渡すよう目配せしてくる。
「はいはい。」
頷いて彼に渡す。彼の眼が大きく見開かれる。
「本気ですか?」
「だいぶ優しいほうだと思うけどな。三十分のうち、時間をどうやって使うかは、勝手にしてほしいけど、もしその中で、一つでも言わなかったことがあったら、もう三十分やってもらうからね。」
と綾乃の語気が強まる。
「ちなみに、それ以外でも言わないといけないことがあると思うけど、それを言うかどうかは、自分自身の反省次第。反省ができていないのであれば、きっと、これが終わったとしても、一生、その罪がお前の肩を掴んで離さないから。」
明花さんは、彼に向って諫める口調と、一切動かない表情筋で彼を追い詰める。
「わ、わかりました。」
その意図が伝わったのか、彼も逡巡とした態度を改める。
「ほら、慎一も、時間計っておいて。」
慌ててスマホをポケットから取り出す。
「おっけ。準備できたよ。」
綾乃と明花さんはあっという間に、ロータリーの迎え待ちの人ごみに紛れる。
「じゃあ、始めてください。」
「わかりました。」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ギリ間に合うか?」
「18時まであと5分……!」
慎一から、18時に江北駅で”あれ”をやると聞いた。
「ほんとにこの雨の中やるんか?」
フロントガラスに打ち付ける雨に不平を垂れる。
「いいから憲弘は運転に集中しろ。」
綾乃も絡んでいることだ。決まったことは最後までやり抜く。初志貫徹っていう言葉そのものみたいな女性だからな……。
「駅みえてきた。」
ロータリーには車であふれかえっている。
「止める場所なくない?」
「近くにコンビニあるから、たばこ買うついでに止めるか。」
本当はよくないのだが……。
「三十分だしな。」
――駐車場に斜めに止まる白の軽を残して、傘を差し、駅に向かう。
パシャッパシャ――
水たまりを避けても、濡れる靴。
「あれじゃないか?」
憲弘の差す方向を見ると、慎一の隣にスーツを着た昨日の男が立っている。そして、今にも何かを話そうとしていた――。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『私は二人の女性を大きく傷つけてしまいました。』
最初の一言目。周りの視線が一気に集まる。
『私は、女性の心を弄び、自分がモテる男だと錯覚し、浮気をしていました。』
二言目に、周囲の人々の視線が、蔑むような痛々しい視線に様変わりする。
『一人には、婚約とも思えるような品を送り、一人には同棲の話をし、どっちつかずの態度を取り続け、1年近く、彼女たちを騙していました。』
三言もすれば、スマホを手に持ち、カメラを回し始める者も出てきた。
『そうして、最終的に、一人の女性には元々付き合ってなんかいないとはっきり言い、もう一人にはいまだに好きなのはあなただけです。とほざき、同時に二人の女性を傷つけました。』
明確に事実を告げる。
『私は最低な男で、人として許されない行為をしました。』
そして、注がれるは冷たい雨。
『この場にいる方々には、無関係ではありますが、どうかこの哀れな男を蔑み、虐げ、屈辱を与えてください。』
――最後まで読んだ。今までの俺が観衆だったら、カメラを回していたかもしれない。
しかし、綾乃から渡された紙の最後まで、彼は読み切った。その瞬間に周りを見渡すと、冷たい視線が降る雨を雹にでも変えそうな雰囲気だ。
一方、彼にとっての謝罪演説はまだ終わっていない。彼自身の反省の色が顕れるはずだ。
「本当に申し訳ありませんでした。」
その言葉は昨日とは違う。体側にそろえられた両手は、指先まで真っすぐに正され、腰から、90度まで頭を下げる。
「俺は……本当に好きだった。けど、自分を好いてくれる人を無碍にはできなかった。だから、ずっとどっちつかずのまま時が過ぎ、いつの間にか1年が経ってしまっていた。」
俯く彼の表情は、苦心に満ちた、けれど謝罪の念の堪えない、複雑なものになっている。
「付き合っていないと言ってしまった女性には、特に、それらしい素振りばかり見せ、彼氏ずらをしていたことも、当時はわかっていながら、何気ない日常のフリをしていた。」
彼には彼の事情があることも、理解できないことはない。しかし、それと浮気とは話が異なる。
「逆にその日常が、彼女をより傷つけてしまったこともわかってる。だから、本当に、ごめんなさい。」
カメラを向けていた者は、彼の心からの謝意を感ずると、スマホをおろし、耳を傾け始める。
「そして、付き合っていた女性には、本当に申し訳なく思っている。それを知ることで彼女にも傷ついてほしくなかったから、その証拠になりそうなことは全部消してきた。だから、このままなら大丈夫だって、思って、言うことができなかった。」
綾乃がどこにいるか探してみると、タクシー乗り場の近くの柱にもたれかかって、腕を組んでいる。
「俺は結局、二人の女性と話している自分に酔いしれていた道化に過ぎないんだと悟った。」
雷は収まり、雨は次第に弱くなる。
「だから俺は、ここに誓う。」
彼のドラマ性を強調するわけにはいかないと思ったのか、西日は雲に隠れる。
「二度と、女性とはお付き合いしないと。」
――想定外の宣誓に周囲はどよめく。誰にとってもどうでもいいはずの謝罪演説は、奇妙と驚嘆で幕を閉じる。
俺があいつの立場だったら、どうしただろうか。少なくとも、彼にとっての贖罪と覚悟は、その方法しかないと考えたのだろう。
「今日から、女性とはお付き合いせず、まずは自分自身をよく見つめなおそうと思います。」
雲に隠れた彼方の夕日に告げる。
「それはいい心がけだとは思いますが、自分を見つめなおすのであれば、周りからの意見も大事ですよ。」
結局、自分を見つめなおすというのは、一人ではできないのだから。きっと、この言葉が言えるのも、みんなのおかげ。
「わかりました。そのお言葉、しかと心に刻み付けます。」
彼は目を閉じ、自分の過ちを正している。
「30分終わったね。」
綾乃が時間を確認してくる。
「あぁ。」
そして、
「お二人とも、本当に申し訳ありませんでした。」
改めて謝罪する彼の目はきつく閉じられている。
「もういいよ。あんたがちゃんと反省して、明花さんが許してくれているならね。」
綾乃は簡単に返して、駅に向かう。
「私も、貴方から十分な謝罪の言葉と、心を聞き取りました。許してなんかいませんが、きっと貴方が変われた日から、私はあなたを許せると思います。それでは。」
雲から這い出た夕日は、明花さんを照らし、伸びた影が彼を覆い、そして離れていく。
――二人の関係と、この特殊で不思議な劇を、天はずっと見守っていた。
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