第八章 通り雨に光る地平線 第一幕 穢れを流す雨

――――――2024年6月5日17時45分57秒


<<江北駅>>


 少し早いが着いた。雨に見舞われた江北駅周辺では、急な雨にカバンを傘代わりに走る者もいれば、誰かに電話をかけて迎えに来てもらおうとする部活帰りの高校生もいる。


「ちゃんと来てくれたね。」


 背後からささやくような声が聞こえ、振り返る。


「なんだ、綾乃か……。」


 綾乃はため息をついて、目を閉じる。


「なに。私じゃないほうがよかった?」


「いや。集合時刻よりも早いから、明花さんが来たのかなって。」


 そして、サッカーのことばかりで忘れていた約束を思い出させられる。


「結局二人とも遅刻しなかったね。」


 そういう意味で不満そうにしていたのか。


「つまり、何もお願いは聞かなくていいと。」


 契約の解除条項みたいなものだな。


「いや、あくまでお願いを聞かなくていいってだけだよ。」


 ”も”ってなんだ。


「私のお願い――気にならないの?」


 綾乃が聞いてほしそうに、俺の目の前に回り込み、俺と無理やりにでも目を合わせようとしてくる。


「まぁ。どうせくだらないお願いだろうしね。」


 必死に目を背けて、西の晴れ間を見つめる。


「うわぁ。そういうこと言うんだー。心外だなー。」


 棒読みで言い、文字通り、目も棒になる綾乃。


「はいはい。何ですか綾乃さん?聞くならいいですよ。」


「いや、絶対興味ないじゃん。興味ない人には教えてあ~げない。」


 はぁ。この空気のまま明花さんが来ては、また勘違いされかねない。


「おい。誰かにこんなやり取り見つかったら、まずいんじゃないか?」


 昨日の夜も警戒したこと。


「別に大丈夫だよ。前々からSNSには彼氏とのインスタは最小限にしてて、昨日全部消したからね。知ってるのはごく一部の人だけだよ。」


 抜かりのなさは昔から変わっていないようだ。


「ん?つまり……?」


「つまり……どうしたの?」


 綾乃がいたずらっぽく笑いながら俺の言葉を反芻する。




――「こんばんは。昨日ぶりですね。」




 雨に差す一縷の光のような透き通った声の主を探す。


「こんばんはー!昨日ぶりだねー!」


 綾乃が女性に近づいていく……。


「明花さんか。」


 なるほど……普段眼鏡の女性が眼鏡をはずした時のギャップというのはこういうことなのかもしれない。


「そうですよ?誰だと思ったのですか?」


 ここは正直に伝えるべきか迷うが……。


「いえ。雰囲気が違うので別人かと疑ってしまっていただけです。」


 水たまりは濁っている。


「慎一。もっとはっきり言ってあげたら?」


 綾乃に促されるが……。


「大丈夫ですよ、綾乃さん。私にも慎一さんのお気持ちはなんとなく理解できますから。」


 俺はそんなに顔に出るタイプではないはずなのだが……。


「だってさ~慎一。高校生の時みたいなポーカーフェイスは、どうやらできなくなっちゃったみたいだね。」


 綾乃に言われ気づく。でもきっと――――みんなの良い影響だろう。


「じゃあ、逆張りして無表情で行こうか。」


「えぇ~。それはやめてよ。」


「それについては綾乃さんに同感です。慎一さんは表情が豊かな方が良いと思いますよ。」


 その言葉を明花さんから聞くことになるとは思っていなかったが……。


「個人的には、慎一の笑う時のしわが好きなんだよね~。」


「俺としてはあんまり好きじゃないポイントなんだけどね。」


「そうなんですか?慎一さんって、笑いじわと鼻の横にあるほくろがチャーミングポイントだと思ってましたが……。」


 確かに笑いじわとほくろはあるが……中学の時はコンプレックスだったが、今それをほめられるのは、”今”を肯定されている気がして、悪くない。


「チャーミングポイントだってさ。よかったじゃん。」


 そういえば見た目について綾乃と明花さんとはあまり話していなかった。


「個人的には、眼鏡をかけていない明花さんすごくきれいだと思いますよ。」


 あえて話を明花さんに向ける。しかし、


「え?慎一、ナンパしてんの?」


「そういうことじゃないわ。ありのままのことを言ったまでだよ。というか、明花さんもよく言われるんじゃない?」


 固まっている明花さんを動かそうとする。


「いえ……今、はじめて言われました。」


 明花さんは瞬きを繰り返し、自分のことなのかわからないような反応だ。


「慎一、そういう所じゃない?変なタイミングでそういうこと言うから、女性も少し勘違いしちゃうこともあるんだよ。」


「それを言ったら綾乃だって――」


 言いかけると、綾乃は両手をあわせ、


「そんなことないでーす。はい、おしまい。そろそろ18時だからあいつも来るでしょ。」


 そしてしばしの沈黙が訪れる。

――しかし、これだけ喋っていても肝心の奴が来ないじゃないか……。そう思って沈黙を自ら破る。


「あいつは?」


「最後通牒出しましたよ。今日来なかったら、あんたの家押し掛けるって。」


 明花さんの目は、昨日よりも落ち着いた色をしているが、それでも煮えたぎる憎悪をどこかに隠しているような口ぶりである。


「まぁ、18時まで待とう。それぐらいの心の準備があいつにもあっていいんじゃないかな。」


 綾乃も明花さんと同じような口ぶりだ。さっきまでの雰囲気が変わると同時に、雨が強くなる。


「急な雨で、駅前に人たまってるからある意味、”チャンス”じゃない?」


 見渡すと、駅前のロータリーには迎え待ちの人であふれかえっていた。


「そうね。」


 綾乃はそれだけ言うと、雨粒を通して輝く西日を見つめる。



――――――18時まであと10分……。



「昨日も聞いた気がするんですけど……。」


 明花さんがしどろもどろに話し始める。


「綾乃さんと慎一さんは――――本当にお付き合いされていないのですか?」


――――ザァーー………………。


 おいおい。何なんだこの沈黙は……。綾乃がすぐに否定する流れじゃないのか。


「慎一が答えてくれるでしょ。」


 きっと俺がナレーションだったら、ここで点点をいくつか入れるだろう。


「え。いや、付き合うっていうのが、男女の交際という意味なら、付き合ってないってことになるんじゃないかな?」


「そういうことなんでしょうか。ですが、二人からはただならぬ、恋愛を超えた信頼関係があるように感じられるのです……。」


 この明花さんの返事に、何と答えるべきなのかわからず、綾乃を見る。


「私に答えさせるなんて、慎一は本当に性格悪いね。」


 いやいや。それよりも即否定せずに、俺になんの合図もなく、俺に答えさせようとする方も問題だろ。


「なるほど。お二人とも、お互いが交際してるかと聞かれたら、相手がすぐに否定してくれるだろうという信頼があるわけですね。」


 勝手な解釈をしているようだが、あながち間違っていないので否定もできない。


「そうだねぇー。」


 綾乃は漫然と、明花さんの言葉に相槌を飛ばす。


「やっぱりそうですよねっ!」


 と目をきらめかせて合掌する明花さん。


「昨日も含めて、異常なぐらい自然で……疑ってしまいました。」


 少し申し訳なさそうにするが、綾乃はそれに構わず、


「まぁ。そうだね。信頼関係、普通の人よりはあるんじゃないかな、慎一とは。」


 雨音をかき分ける、刹那の稲光、雷鳴。そして――――人々の視線が駅に集まる。

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