第五章 第三幕 贈り物
「それじゃ…なんで死にたいなんて思ったの?」
こんな人生続けたくない。そう思ったこともあった。けれど、そうじゃなくて。
―――ただ、やり直したいだけだった。
「どうにかしたかったんだ。この最悪な状態を。」
「そう…」
綾乃は後ろで手を組んで、遠くの橋を見つめている。俺には見えない未来でも見ているのだろうか。
―――「それで…どうしたいの?逃げてばっかで、立ち向かわないでいると、自分ですら見失って、本当に死ぬよ。」
黙る俺を見かねて言う。都合が悪くなるとダンマリするのも、いつものことだ。
――「人間として死ぬよ。」
その一言が、俺の自閉性を掻き出す。
「おいおい…大丈夫か。」
憲弘は、口が裂けそうなほど歯を食いしばる俺を心配する。
そんな状態が数秒続き、ようやく出た言葉は、何かを恐れるように自己否定に満ちていた。
「もう死んでるも同然だろ。こんな人間。結局口先だけの。虚勢ばかり張る役立たずだ。だから……
―――最初から生きてなんてないんだよ。」
過ぎた時は取り戻せない。何もしてこなかったという事実は変えようもない。人として生きていないこの生は、一体何のために授かったのか…
――あるいは罰なのか。考えれば考えるほどに、自分の存在の無価値に気付かされるばかりだった。
――しかし…
「慎一。後悔してるかわからないって、言ってたよね。」
綾乃が、優しい口調でいう。
「きっとそういう時は後悔してるんだと思う。どっちをとっても後悔する。そういうものだと思う。」
綾乃は、服の裾を強く握りしめて言う。
「後悔っていうのは、後から振り返るからできるものでさ。なんて言えばいいのかわからないけど……前のことを振り返るなってことじゃなくて。もちろん…過去を無視し続けて…。前だけ向いて歩き続けようと思えば、できなくはない。」
今までずっと逃げ続けてきた、過去…。向き合っていたようで、向き合っていなかった綾乃との過去。
「けど―――。」
それだけじゃない。勉強も、人間関係も、何もかも。過去を捨てて、ただ前を見ている気がしていた。
――綾乃が目を閉じて。ゆっくりと空を見上げて。
「過去は、あなたからの、あなたへの――」
――曇りのない、満天に輝く星のような笑顔で。差し伸べられる手があなたへと呼びかける。
「”贈り物”だよ。」
――――風のない、蒸し暑かったはずの6月の夜…。涼やかな声が、刹那の瞬きに夜を変える。
―――「あなたは……賢いの。」
否定したい過去が、色鮮やかに甦ってくる。
「誰よりも、人の心を感じ取りやすくて、いつも先回りしてる。」
――綾乃は両手を胸に重ね、目を閉じる。
「それは、あなたが優しいから。誰かを傷つけないように、ずっと気にしてくれてる。」
――花が咲き、少しづつ、世界が色づいていく。
「誰にも自分の弱さを見せずに、周りに心配させないように。」
もう…綾乃の顔が見えない。見たくても……ぼやける。
「それを、ずっと……一人で抱え込んで。みんなを安心させてくれてた。」
――涙に濡れた地面の土が…少しずつ固まる。
「だから、受け入れてもらえるって思った時にしか、言葉にしなかった。」
そして、綾乃の声が震える。
「慎一の本音……っ。もっと前に聞いてたんだね。」
涙が綾乃の頬から零れ落ち、嗚咽する……。
――「ごめんね。」
その涙は純粋で、煌めく宝石のようで。
「あの時……っ。慎一のことをもっと知…って、もっとわかってあげられたらよかった。」
後悔の涙が流れ落ちていく。
「でも、今……。時間が経って、っ…。前より慎一のこと、わかってあげたい。」
そう伝えられて…。何重にもかけられた鍵が、一つずつ開けられる。
―――「俺は……。ずっと避けてきた…。過去と向き合っても、いやな記憶しか甦ってこなくて。」
それでも。
「綾乃と過ごした日々、勉強に明け暮れた日々…。全部……全部が、今の俺を形作ってくれている。」
胸に咲いた華は花海となる。
「だから……。俺は…今の俺を肯定したい。」
――涙を拭き、綾乃は少しずつ笑顔になる…。
「うんっ。そうだよ……。慎一の過去は……慎一のためのものだから…大切にしてあげて……ね。」
心に咲いた華を、優しく、強く抱きしめて。
そう言って、綾乃は近くのブランコに目を向ける。ふと見える横顔に宿る儚さに、胸が締めつけられる。
「そっかぁー。慎一は私との思い出、ずっと無視し続けてたんだねー。」
街灯に照らされた、ブランコに乗っている野良のサビ猫をみている。猫もこちらを見ている。
「私はたまにアルバム見返したりして、懐かしんでたんだけどなぁ。」
綾乃は嫌味で言っているわけじゃない。それがわかるくらい、笑顔の頬には涙の跡がある。
「だって……さ。アルバムって、悲しいことを思い出すためじゃなくて…。悲しかったことも吹き飛ばせるぐらい、楽しかったなって思ったことをまた楽しんで…。」
きっと綾乃は、思い出をずっと大切にしてきたんだろう。思い出を大切にしながら、前を向いて生きている。
それは―――
「過去のことを大切にできるから、今のことも大切にできて、過去を楽しめるから、今を楽しめるんだよ。」
綾乃の言葉と俺の思考が重なる。それを言葉にできる力がない俺に、そっと添えてくれる。
「だから、これからもし…。慎一が……苦しい今を、楽しい今にしたいって思ったなら――、」
一歩ずつ、自然と地面の砂に足跡がついて。俺の顔を覗き込むと……両手を広げて、
「私との思い出、誠也との思い出、憲弘との思い出、先生との思い出……サッカー部の友達との思い出。そのほかにも……授業後に夜まで学校で勉強したこと。慎一にあるたくさんの思い出を――。
一緒に楽しんでくれる人がいることも思い出して!」
綾乃の後ろにいた先生、誠也、憲弘が、腕を組んだり、拳を心臓に当てる仕草をしたり、仁王立ちして、みんながそう言ってくれているようだ。
「あなたの思い出はあなただけのもの……。だけど…!それを一緒に楽しんで、みんなで今をもっと楽しもう?」
綾乃は後ろで手を結んで、体を横に傾けて俺を覗き込みながら、楽しい笑顔で語りかけてくれる……。
―――
「俺は……。ずっと思い出とひとりぼっちだったんだな…。」
心から溢れ出た本音が、綾乃に助けられて変わってゆく……。
「だからこそ……。これからは、みんなとの思い出を、楽しみたい。一緒に……。いいかな…?」
まだ自信のない俺に、屈託のない笑みで応える。
「楽しもぉー!」
綾乃が握った拳を天に掲げる。
「「「おぉーー!!」」」
誠也たちが楽しそうに掛け声をする様子に、みんなで笑いあう。
「なんだよ、おぉっーって!」
「いや、人のこと言えないだろぉ?」
「私も、お願いなんてしてないのにねっ?」
笑いかけてくれる綾乃、一緒に楽しんでくれる誠也、憲弘、楽しい方向に導いてくれる先生。
――また楽しい思い出、楽しくなれる思い出が一つ増えた。
眩しい夜の街に、負けじと細々と輝く星々。そこに一つ……
一等星が増える。
夜空を満天に輝かせたい、そう願う心に星が流れる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます