不滅の存在証明

@UtaXD

第1話 夢を見るにはまだ早い

――今よりはるか先。

人が産まれて、老いて死ぬ。

そのサイクルが何度も、何度も繰り返されるくらい遠くの未来。


ある隕石が地球に流れ落ちた。

そして、地球の環境を総て創り変えてしまった。


大陸の形、気候、生物の姿まで。

何から何まで、すべてが変わり果てた。


隕石を引き金として大国の間で起こった戦争は、それまで生きていた人類の6割を虐殺した。

大量の兵器が使われた。爆弾、サイバー、生物兵器、核兵器まで――。


やがて片方の降伏で戦争は終わった。

だが、人類の傷跡は癒えなかった。

戦争の惨禍に巻き込まれた土地は放棄され、

戦争の炎は燻るように続いた。


残った4割の人類は、お互いに殺し合った。


数少ない食料と、安心して暮らせる土地を求めて。

汚染されていない水、まともに呼吸できる空気。

それらを奪い合い、醜く争った。


やがて、人々は気づいた。

このままでは、自分たちの手で自分たちを滅ぼしてしまう、と。

しかし、自ら起こした火を消す術を、彼らは持ち合わせていなかった


そのとき、自らを「預言者」と称する男が現れた。

彼は隕石衝突を「神の裁き」と説き、

「この世界は贖罪と服従によってのみ救われる」と布教した。


そして、その言葉は絶望の中で人々にすがる希望となった。

全てが変わってしまった世界で、かつての世界の宗教の力は失われつつある中、やがて彼を信奉する者が増え、

彼は”カタクリスモス”――新たな宗教を立ち上げた。


カタクリスモスは瞬く間に勢力を拡大し、人類の生き残りを一つにまとめ、

ついに”新生国家ユダール”を築き上げた。


この壊れた世界での、唯一の理想郷。

そのはずだった。


——————————————————


陽光はガラス張りの空を淡く染め、

整えられた街並みに影一つなく注がれていた。


舗装された歩道を、白い制服の子どもたちが静かに歩く。

人工樹の根元には一輪の青い花。

きちんと保たれた静けさ。整然と、管理された朝。


「導きの園、今日も開門します」


音声案内が頭上を通過し、施設のゲートが開く。

それまで年相応の話を繰り広げていた子供たちは、ゲートが開いたことを受け、一斉に祈りの動作をとる。

動作は機械のように揃い、誰一人として遅れる者はいなかった。


施設内は白と金を基調とした柔らかな照明に包まれ、

整列した机と、祭壇を模した教壇。

壁にはかつての裁きを模した絵画と、教団の象徴たる印が飾られている。


ほどなくして、教師が教室に入ってきた。

ダークグレーのスーツに身を包み、タブレット端末と教典を手にしている。

ただ一つ異様なのは、襟元に輝く金属製の聖印バッジだった。

それはどこか、歪んだ鉱石のような不規則な形をしており、

そこに刻まれた記号は、人の言語とは異なる、意味を持たない「祈り」のようにも見えた。


「おはようございます。皆さん、今日も導きの一日を始めましょう」


「「はい、先生」」


声が重なり、静かに広がる。


教師は端末を操作しながら、教典の一節を示した。

光のパネルに映し出される、神の裁きと救済の記述。


「地上に降りし神の鉄槌。それは我々への罰であり、赦しでもある。

我々はこの星の再生を許された、選ばれし者である――」


生徒たちは口を揃えて復唱する。

その言葉は、暗記ではなく、呼吸のように自然だった。


机の端に埋め込まれた鉱石型センサーが、共鳴するように淡く光る。

タブレット端末には教典アプリが起動しているが、そこからの引用・保存は一切できない仕様。

全ての情報は、閲覧するだけ。記憶に刻み、記録を残さない。それがこの世界の常識だった。


そのとき、小さな手がひとつ上がる。

教室の隅、窓際の席。少年の表情は曇りなく、ただ、素朴な疑問を携えていた。


「先生。……教典にはこうありますが、でも、もしその“鉄槌”が……自然の現象だったとしたら?」


一瞬、空気が止まった。


教師は笑顔のまま、ゆっくりとその方へ歩み寄る。

背後の壁に埋め込まれた神像の目が、かすかに赤く点滅した。


「面白い発想ですね。ですが、私たちは“真理”を学ぶ場にいます」


教師は穏やかにそう言いながら、生徒の机の端に手を置いた。


「真理は揺らぎません。ゆえに、解釈もまた揺らいではならないのです」


少年は小さくうなずいた。

他の生徒たちは、なにもなかったかのように視線を教典へ戻した。


しばらくして、教室のドアが音もなく開いた。


白衣を着た男が二人、無言のまま入ってくる。

歩みは静かで、規則的だった。まるで決められた手順をなぞるように。


少年の隣に立った彼らは、何も言わずに腕をとった。

優しげに、けれど決して逃げられぬ強さで。


「せんせ……」


彼が何かを言いかけたが、声はか細く、途中で途切れた。

教師はその視線に応えず、ただ次のスライドに手を伸ばす。


他の生徒たちは、その場面を見ないふりをして教典に視線を落とした。

一人、また一人とページをめくる音が重なり、教室は再び静寂に戻る。


少年は引かれるように立ち上がり、声をあげることも無く連れて行かれた。

ドアが閉まったとき、誰もその席を見なかった。


その日、授業は何事もなかったかのように終わった。

ただ一つ、空いた席が、いつまでも埋まることはなかった。


信仰は疑いの対象ではなかった。

教えは呼吸のように在り、空気のように染みついていた。

疑うという行為そのものが、既に“異常”だった。

だから誰も、何も、疑わなかった。


「全ては神の、愚かな我々人類に対する制裁なのです。しかし、神はそれでも我々を見捨てなかった」


教師は窓の外を見やる。

浄化装置から吐き出される淡い蒸気と、整然と整備された道路。

その景色を指さして、微笑む。


「かつての人類は、奢りと欲望にまみれ、この星を貪った。

だからこそ神は奇跡を起こし、我々に――」


「この暗黒郷(ディストピア)を理想郷(ユートピア)へと作り変えるという試練を与えられたのです」


子どもたちは真剣な眼差しで教師を見つめる。

その瞳には疑いは微塵もない。

生まれたときから、彼らはこの教えと共に育ってきたのだから。

疑うことのないように教育される。

これまで生きてきた先人たちも、そうされてきた。


――それが、この国の「日常」だった。

――――――――


そして、そんな日常が今日も広がっている街の外れの森。

一人の男が、光を求め空に向かってぐんと伸びる大樹に寄りかかって座っていた。


「……」


緑の葉の隙間から刺す光に目を細める。

いつも変わらず照りつけるその光にうんざりして、ポケットに手を突っ込んだ。


――カチッ


拳銃を取り出した。

小さな金属音が響く。錆が着き、使い込まれた跡がある。

弾倉を確認。

4発。

ゆっくりと、銃口を眉間に押し付けた。


――バンバンバンバンッ!!


銃声が静かな森に響く。

鳥が羽撃く。風が葉を揺らす。

彼の体は横に倒れ込んだ。


血が溢れる。

色とりどりの草花を朱く濡らす。


……しかし、それはすぐに止まった。


傷口はゆっくりと塞がり、砕けた骨と脳は、元通りに再生されていく。


倒れたまま、横目で空を見上げた。

その瞳は、生気の光が灯っていなかった。


「……やっぱり無駄か」


額から流れる血を拭いながら、上半身を起き上がらせる。


生きてる。

また、生きてる。


その事実を、苦虫を食い潰したような気持で嚙み締めた。


「何発も眉間に撃ち込んだら、再生が止まるかと思ったけど……」


普通に痛いだけで、体は無情にも再生仕切ってしまっていた。

今や血が服にこびり付いているだけで、傷の跡はすでに消えている。


「あーあ、洗うの大変だな……これ」


カサ……


小さな足音が響いた。

その方向を見やる。


「……来た」


視線の先に見えたのは、

白い戦闘服と黒い防弾ヘルムに身を包んだ兵士たち。

カタクリスモスの追跡部隊だ。


目の端にかかった血を拭いながら、ゆっくりと起き上がる。


5人――いや、それ以上。

彼らは森に溶け込むように静かに包囲していた。


「お勤めご苦労様。わざわざこんな外れまで探しに来てくれるなんて、まるでパパラッチに追われるスターになった気分だね」


教団兵は静かに銃を向ける。

統制の取れた隊列で、ゆっくりと円を狭め、にじり寄ってきた。


「神は貴様を許さない、もう逃がさんぞ。”不死者”」


低く告げた。

その声を合図に、歩みの速度が上がる。


「……神様、ねえ」


その瞬間、

兵士たちが一斉に引き金を引いた。


――バババババッ!!


銃弾が昼間の穏やかな空気を一変させる。

銃弾が体を貫く。

胸、腹、腕。

血しぶきが舞い、

彼の体はいとも簡単に蜂の巣にされた。


だが、

彼は倒れすらしなかった。


「そいつがいるなら、さっさと僕を殺してよ」


さらに血に塗れた顔で、彼は静かに呟いた。

弾を撃ち切った拳銃を捨て、ナイフをポケットから取り出す。


「20……30人くらい?このまま都合良く逃げてあげるわけないでしょ」


喚声が喚き立った。


——殺す。殺される。生き返る。そしてまた殺し……恐らくは夢を見る。

それが、この壊れた世界での、彼の日常だった


——————————————————



夜の帳が街を包み、空は怒れる獣のように唸りを上げていた。降り注ぐ雨は冷たい牙となり、ひび割れたアスファルトを穿つ。

路地裏は時を忘れた箱庭のように静まり返り、打ち捨てられたコンテナは水に濡れ、光も失って、沈黙を守っていた。



街灯の光の残滓と輪郭のぼやけた月が照らす濡れた路面は、返り血に塗れて汚れた彼の姿を映す。

錆びた鉄の匂いが混じる空気は重く、濁流は命のように足元を流れ去り、ただひとり、世界に取り残された影が、その場にただ蹲っていた。


その影は、もはや人の形を成していなかった。

欠けた腹の肉、欠損した指、穴だらけの足。

体中の至る所から噴き出した血が、泥と汗で汚れた服を赤色に染める。


髪を伝って一滴、また一滴と落ちる水滴を感じながら、青年は目を閉じた。


——いつからだろう。


いつから、僕はこうなった?


思い出せない。

何をしていたのか、誰といたのか。

どこに住んでいて、どんな声で笑っていたのか。


全部、抜け落ちてる。

白紙みたいな記憶だけが、ずっと頭に張りついてる。


気づいたときには、空は燃えていた。地は唸っていた。

何かが落ちてきて、世界の輪郭が溶けて、気がつけば、僕だけが残っていた。


——名前も、家族も、声もなかった。


誰かが呼んだ気がするけど、それが誰なのかも、今は思い出せない。


何度も死のうとした。

崖から落ちた。凍えた。首を吊った。

銃を使ったのは、昼ので何回目だろう。


でも、駄目だった。

砕けた骨は勝手に繋がり、失われた血はまた、心臓へと戻っていく。


痛みだけは、ちゃんと残った。

皮膚が裂ける。骨がきしむ。喉が潰れる。


それでも、生き返る。

否応なく、何度でも。


死ぬ理由はあった。

でも、生きる理由は、どこにもなかった。


「……もういいでしょ」


雨に紛れた声は、自分のものだったかも分からない。

目を閉じたまま、身体は冷えていく。

痛みが遠ざかっていく感覚に、少しだけ安堵した。


せめて、夢でも見られればいい。

何も思い出せないんだから、何かを夢見ることくらい――


......そう願いながら、少年は泥よりも深い眠りについた


雨は容赦なく打ちつける。

記憶を奪い、温もりを奪い。

それでも影は、そこに存在し続けた。

まるで、生まれ変わる瞬間を待つ蛹のように。


——————————————————


闇の奥で、何かが揺れていた。

重く、深く、色のない夢の底。

名もない誰かの声が、遠くから響いている気がした。


一瞬、熱。

誰かの笑い声。

けれど、それが過去の記憶なのか、夢の断片なのかすら、分からなかった。


水に沈んだ記憶のように、それらは指の隙間をすり抜けていった。


――何かを、忘れている。

――何かを、思い出せない。


自分の中で自分たらしめていたものが抜け落ちた感覚は、とても気持ちがいいものではない。

もう、消えることの無い命以外は残っていなかった。



ふと、まぶたの裏がわずかに明るくなる。


ゆっくりと、目を開けた。

最初に映ったのは、白。


無機質な天井。

蛍光灯の光がぼやけ、無数の小さな残光が視界ににじむ。


時間の感覚はなかった。

それでも、耳に届いたのはただ一つ。


──カチ、カチ、と。


どこかで、時計が時間を刻んでいた。

その音だけが、この空間に確かに存在していた。


呼吸は浅く、身体は鉛のように重い。

けれど、痛みはなかった。

ついさっきまで感じていたはずの激痛が、まるで幻だったかのように消えている。


……また、生きている。


視線をゆっくり横にやると、壁の向こうに棚や機材が並んでいた。

ガラス越しに見える無人の椅子には、白衣だけがかかっている。


ここがどこかは分からない。

誰が自分をここへ運んだのかも。


けれど、何となく思った。


――ここは、死に損なった何かが、息をしている場所だ、と。


喉が渇いていた。

身体はまだ、眠りに縋ろうとしていた。

それでも、ほんのわずかに身を起こす。


冷たいシーツが肌に触れる。

目の奥に、まだ夢の欠片が残っていた。


――夢の中、誰かが言った気がする。

誰かの名前を


微かに覚えているモノですら、こんなにざっくりとしたカタチをしている。

……それが誰だったのか、何と呼んだのかも、もう思い出せなかった。


何度か瞬きをして、ようやく光に慣れてきた頃だった。

気配に気づいたのは、視線を戻したその時だった。


「お目覚め、ですか」


淡く響いた声は、驚くほど静かだった。

ひどく遠く、それでいて確かに耳の奥に残る。


少し低めの、乾いた音。

抑揚も感情もない。ただ、正確に言葉を組み上げているだけの声。


視線を動かす。

ガラスの扉の向こうに、白いコートをまとった女が立っていた。


肩までの淡金の髪。

無表情のまま、蛍光灯の光の下に静かに佇んでいる。


「意識を取り戻すまで、六十二時間と三十一分。……予想よりも早かったですね」


そう言いながら、彼女はゆっくりと歩み寄る。

床が音を飲み込んでいく。足音が一つも残らない。


「痛みは? 吐き気、震え、呼吸の乱れなどはありますか」


表情は、終始変わらなかった。

ただ、淡いアメジストの瞳だけが、じっとこちらを見ていた。


いや、見ているというより——測っていた。

まるで、化学者が新しい試薬を見下ろすときのような目。


青年は何も言わず、ただその姿を見つめ返した。

言葉を発するには、思考がまだ濁りの中にあった。


女は、小さく首を傾ける。


「……喉が渇いていらっしゃる?」


それは問いではなかった。

事実を告げるだけの確認作業のようだった。


彼女は後ろの台に手を伸ばし、銀色のカップを差し出す。


「どうぞ。無味ですが、必要な電解質と糖分は含まれています。

回復促進に有効です」


差し出されたカップはわずかに温かく、金属の匂いがした。

唇をつけると、甘さのない液体がゆっくりと喉を落ちていく。


ほんの少しだけ、意識が地上へ引き戻されるのを感じた。


「……名前は?」


ようやく、声が出た。

擦れたような、掠れたような音。


「……私の、ですか?」

「他に誰が居るのさ」


女は一拍だけ間を置き、それから、変わらぬ調子で応じた。


「アシュラフ・アル=ナジル。それが私の名前です」


アシュラフ・アル=ナジル。


初めて聞く名前だった。

それなのに、どこか冷たい響きが、胸の奥に沈むように残った。


彼女の目には、感情らしきものがなかった。

年齢もわからない。

ただ、その場に立っているだけで、空気の流れが変わるような——そんな存在。


「ご質問があれば、どうぞ。必要なことだけ、答えます」


今度は完全にこちらに向き直る。


その目に、自分はどう映っているのか。

人間か。

研究対象か。

あるいは……それ以外の、何かか。


わからなかった。


「……あんた、何者?」


アシュラフは一瞬だけまばたきをして、そして丁寧に言葉を継いだ。


「アシュラフ・アル=ナジル。組織内では『アッシュ』と呼ばれています。もっとも、それは仲間内での呼び方ですが。貴方には、好きなように呼んでいただいて構いません」


「……組織?」


「ええ、そうですね。“理想郷”とやらに反旗を翻す、愚かで無鉄砲な人間の集まりです。名は、シザーズ」


彼女の口調は静かだった。皮肉や揶揄の気配はあっても、それを感情として乗せることを、彼女はどこかで拒んでいるようにすら見えた。


「あなたは、当面そこで保護されることになります。もっとも……『保護』という表現が適切かどうかは、まだ判断しかねますが」


男はスープのカップを手に取った。熱が指先に触れる。そこには、確かに温もりがあった。


”理想郷”に反旗を翻す、愚かで無鉄砲な人間の集まり――

彼女はそう言った。

あまりにもあっさりと、まるで自分自身の存在すら客観視しているかのように。


その“集まり”に、自分は保護されている。

いや、保護されている“らしい”。


スープの温度が、指先にじんわりと残っている。

けれど、それは今のところ唯一の温もりだった。


「……変なの」


男はそう呟いた。


この世界では……死なないことが異常で、

助けられることは――もっと異常だ。


何者でもない自分を拾って、名前すら知らぬまま、生かしている。


「……カイン」


男は呟いた。その忌々しい名前を。


「……それが、貴方の名前ですか」

「教団の奴らはそうやって呼ぶのさ。本当の名前はもう随分前に忘れたよ」

「彼らのやりそうな事ですね」

死なない呪われた人間にとっては、これ以上ない名前だと思うけど」


カインの声には、笑いも怒りもなかった。

ただ、呟くように、過去を遠ざけるように。


アシュラフはそれを聞いても、何も言わなかった。

何も問わず、何も肯定しない。

その沈黙が、彼女の答えだった。


「……それでも」


ふいに、彼女が口を開いた。


「それでも、名を持つことには意味があります」


淡く、しかしはっきりとそう告げる。


「今の貴方が何者かを定めるには、記憶ではなく――言葉が必要です」

「言葉?」

「人間は、未知の物に名前を与えることで、それが何たるかを定義する生き物です。忘れられた名前にすがるか、その名前に呪い以外の意味を与えるか――選ぶのは、貴方です」


男は目を伏せたまま、手の中のスープに視線を落とした。


名を持つことに意味がある、と彼女は言った。

記憶ではなく、言葉で自分を定義するのだと。


その理屈は、どこか遠くに感じた。

だが否定はしなかった。できなかった。


やがて、しばらくの沈黙のあと。

「……で、僕は」


掠れた声が、静かに空気を切った。


「何のためにここに連れてこられたの?」


「記憶も無い、戦える力も無い、ただ教団に追われてるだけの厄介者を引き込んでも、君たちには何の得もないでしょ」


「より教団のやつらは躍起になって君たちを殺しにくるだろうね」


返す間も与えず、続けて言う。

そこには、万物への不信、諦観。そして、静かな怒りが込められていた。


アシュラフは一度だけまばたきをし、ほんのわずかに視線を落とした。


「理由は、いくつかあります」


静かにそう告げた彼女は、言葉を選ぶように間を置いてから続けた。


「ひとつは――貴方が“無視できない存在”だからです」


「……無視?」


「教団は貴方を抹消しようとしていました。見つければ殺す、姿を見た者には口止めを。

それは単なる異端者への処理ではありません。“存在そのものを消そうとする”類の対応です」


アシュラフは、机の端に手を置いたまま、こちらを見据えて言った。


「つまり、彼らにとって貴方は“あってはならない存在”です。

私たちはそれを、逆に“持っておくべき存在”だと考えた」


「……おもちゃみたいな言い方だね」

「言い方の問題ではありません。

“価値がある”ということです。教団が隠したい真実を、貴方はその身に抱えている」


男は息を吐いた。


「僕を利用したいってこと?」


「言い方を変えるなら、“貴方を手放せない”ということです」


静かな言葉だったが、そこに迷いはなかった。


男は短く笑った。


「……一生追われるよりは、ましかな」


「そうでしょうね」


「でも、たぶん、どこかで――それを嫌がってる自分もいる」


アシュラフは少しだけ目を細めた。

表情の変化はごくわずかだったが、確かに何かが動いた気がした。

それが感情の表れか、ただの表情の微細な変化かは、分からなかった。


「いずれにせよ、休んでください。回復が優先です。貴方の心は、まだ死んでいるままです」


背を向けたアシュラフが、扉に向かって歩き始める。


「言っておきますが、私は貴方の味方ではありません。敵でもありません。ただ――」


「壊れなかったから、でしょ?」


その背に、静かな声が追いかけた。


アシュラフは一瞬だけ立ち止まり、けれど振り返ることなく答えた。


「……ええ。ですから、貴方は“ここにいる”のです」


部屋に残されたのは、男と、時計の音だけだった。


コツ、コツ、と。

何かが進んでいる音。


それが、時の音なのか、終わりの始まりなのかは、まだ誰にも分からない。


ただ男は、ベッドの上で目を閉じた。

夢を見るには、まだ早いらしい。

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