2話完結
継ぎ目の奥に宿るもの (1/2話)
ぼんやりと目を開けると──
視界のすぐそこに、あの灰色の毛並みがあった。
やや黄ばんで色褪せたそれは、
かつてのふわふわをすっかり手放してしまっていて、
今はただ、くったりとした手触りだけが残っている。
湿気を吸った布地に、日なたの匂いと、洗剤が混ざったような香りがほのかに漂う。
押し入れの奥に眠る古いセーターみたいな。
冬の朝、くるまった毛布の端のような――
あたたかくて、ほんの少し切ない匂いだった。
「……おはよう、ギンちゃん」
声に出すと、胸の奥に小さく波紋が広がった。
くたりとした身体が、私の腕の中にぴたりと収まる。
抱きしめた肘から先に、自然に重みが流れ込んで、
私はただ、そのぬくもりに身をゆだねた。
ギンちゃんは、私のすぐ目の前──ちょうど顔に頬を寄せられる位置にいる。
その周りを囲むように、ほかのぬいぐるみたちが身体に寄り添っている。
腕の内側に、小さなネコの足。
足元には、まるまったクマの背中。
背中のあたりには、羽をたたんだコウモリがそっと寄りかかっていて、
……まるで布団のように、私は彼らにくるまれて眠っていた。
自分のベッドの上は、ほとんどぬいぐるみで埋まっている。
でも、それが私にとっての「ちょうどいい」だった。
かつて、母がいない時間が多かったあの頃、
寂しさの隣でずっと寄り添ってくれていたのが、彼らだった。
この子たちは、私の家族だ。
ギンちゃんだけじゃない。
ここにはたくさんの“家族”がいて、
私を静かに支えてくれていた。
あれから、ずっといっしょにいる。
高校生になった今も、それは変わらない。
くたびれて、ところどころ縫い目の糸が緩んできて、毛並みも薄くなったけれど──
それこそが、共に過ごした年月の“かたち”だった。
母は今日も帰りが遅い。
家の中は静かで、少し空っぽだ。
だけど私は、寂しくない。
抱きしめるたび、胸の奥に溜まっていた何かが、ふっとほどけていく。
この子たちの体に染みこんだ記憶の匂いが、息をするたびに胸に満ちて、
それだけで、何も言わずに慰められているような気がした。
夜に沈んでいた感情が、朝の光でゆっくり撹拌されて、
ひとしずくずつ、心に溶けていく。
「……うーん、そろそろ、お手入れの時期かも」
自分にしか聞こえないくらいの声で、私はつぶやいた。
ギンちゃんは何も言わない。
でも、くたびれたその体が、どこか誇らしげに見えた。
色褪せも、匂い移りも、やわらかすぎる手触りも。
すべてが、共に歩いてきた証なのだと、私の指先が知っていた。
*
風鈴が、ひとつ鳴った。
かすかな余韻を残して、ご主人さまの足音が遠くに消えていく。
空気が、そっと息をつく。
静寂のなかで、時間が柔らかくほどけはじめる。
ベッドの端で、最初にクマが身を起こした。
『まーたギン先輩だけ、抱っこされてた件についてー』
白いネコが、ふにゃりと転がって手を挙げる。
『ずるいずるい、昨日はボクの番だったのに!』
『ウチなんか、ずっと背中のほうだよ……』
みんなの声が重なるたび、空気がやさしく波打つ。
この声たちは、ご主人さまにも届けられるはずだ。
もしも、伝えようとすれば。
でも、言葉にしてしまったら、ほどけてしまう気がした。
だから今日も、そっと。
静かな演技を続ける。
『はいはい。じゃあ、今日のぶんを、おすそ分けね』
ボク──オオカミのぬいぐるみは、両の手をひらく。
コウモリの羽をそっと包み、怪獣の爪をふんわりと握り、
色あせたライオンのたてがみをすくように指を添えて。
ご主人さまの手のぬくもりと、朝の吐息の匂いと、
洗剤と日なたの混ざったやさしい香りが、
部屋の隅々へと染みていく。
ほんのり涙の味がした気がした。
『……ふふ。あったかいね』
『あーん、泣いちゃう……』
綿に染みた言葉にならない想い。
抱きしめられた夜の匂い。
それらが、誰に言われるでもなく、
ひとつずつ、受け渡されていく。
『ご主人さま、また宿題さぼってたぞ』
『寝言で「やばい」って言ってたー』
『最後に名前呼ばれてたの、ボクだったよね?』
『あたしじゃない?』
わっと笑い声がはじける。
それは、陽だまりの中で舞う埃みたいに、
小さくて、あたたかくて、やさしかった。
『……そーいえば、ご主人さま、“お手入れ”って言ってたん……』
その一言に、ボクは少しだけ目を細めて、静かにうなずいた。
『うん。掃除が終わったら、またよろしくね』
『今日も、がんばろっか』
誰も声に出さなかったけれど。
その言葉の意味を、みんながちゃんとわかっていた。
今日もまた、小さな営みがはじまる。
誰にも気づかれないように。
*
午後の陽が、教室の窓から斜めに差し込んでいた。
机の上に広がった光の中で、うっすらと埃が舞っているのが見える。
「そういえばさ、駅前にメロンパン屋できたんだって。ムギちゃんも行こうよ」
クラスメイトの明るい声が、陽だまりのように軽やかに広がる。
その誘いに、私は少しだけ首を振った。
「……手芸店、寄らなきゃいけなくて」
「また今日もぬいぐるみのお医者さん?もー、そんなに中綿って潰れる?」
隣の席の子が、机に肘をついたまま、にやりと笑う。
「むーぎー……あんたイケナイことしてるんでしょ?」
「ちーちゃん!?」
予想外のからかいに、私は思わず立ち上がった。
ぱっと頬が熱くなって、言葉がしどろもどろになる。
「あはは!やば、ツムギ顔真っ赤!」
「将来はぬいぐるみ外科医とか?ウチのも頼むわー」
笑い声が波のように広がる。
でも、その笑いの中には、ちゃんとぬるま湯みたいなやさしさがあった。
彼女たちは知っている。
私が母子家庭で育ったことも。
小さい頃、ぬいぐるみに囲まれて過ごしていたことも。
だから私は、それを隠さずに話せた。
この子たちは、ただのぬいぐるみじゃない。
小さな頃から、私の隣で支えてくれていた――家族だ。
放課後のざわめきの中で、チャイムが鳴る。
みんながそれぞれの席へと戻っていく。
私は鞄の中の糸と針を確かめるように、そっと手を添えた。
指先がすこしだけ緊張していた。
*
日が傾いて、部屋の空気が淡く色づいていく。
レースのカーテン越しに射す陽の名残が、床にやわらかな影を描いていた。
小さな手が、ぬいぐるみたちのあいだで、せわしなく動いている。
ネコは窓辺で、小さな布を器用に振り回してガラスの隅を拭い、
クマは足元のホコリを集めて、まあるくまとめている。
コウモリは天井を見上げながら、ほこりが舞い降りぬように、そっと羽根で空気をなでるように動かしていた。
……その行動は、まるで恩返しのように見えた。
ご主人さまの暮らす場所を、少しでもきれいに保つために。
誰かに褒められたくてでも、頼まれたからでもない。
ただ、そうしたかったから。
そして、掃除が一段落すると、今度は自分たちの準備へと移る。
背中を向け合いながら並び、小さな手で毛並みを撫で、
粘着ローラーを手に取って、ころころと転がす。
『ちょっと、それ、くすぐったいの!』
『あんだよ、こっちだって真剣なんだぞー』
そんな声がころころと跳ねても、
ぬいぐるみたちの目には、どこか静かな気配が宿っていた。
これは、ただの掃除じゃない。
ご主人さまのベッドに戻る前に、心を整えるためのおまじないだった。
誰かがふと、ぽつりとつぶやく。
『ご主人さま、そろそろ帰ってくるかも』
空気が、そっと張りつめる。
ボクはゆっくりと両の腕をひろげた。
大切な準備のために。
『……じゃあ、またね』
ぬいぐるみたちが、ひとりずつ抱きしめてくる。
朝のぬくもりは、コウモリの羽へ。
夢の匂いは、ライオンのたてがみへ。
染みこんだ小さな涙のあとは、ネコの手のひらへ。
それらすべてを、少しずつ、みんなに預けていく。
声にならない想いが、すこしずつ解かれ、
みんなの中に、やさしい色のように染み込んでいく。
そして。
最後のひとりが離れた瞬間――
オオカミのぬいぐるみは、動かなくなった。
ぬいぐるみたちは、その身体をベッドの中央にそっと戻した。
ご主人さまに、あの日からずっと寄り添い続けた、大切な仲間を讃えるように。
誰も言葉にはしなかった。
でも皆、知っていた。
これから、想いが還っていく。
他のぬいぐるみたちも、ベッドの上にすとんと座り、風鈴の音が終わりを告げる。
やわらかな時間は、夕暮れの影の中へ消えていった。
─
「まぁ家族との時間なら、しゃーないっしょー」
「ムギちゃんち、大家族だもんね」
「大切にしたモンには"魂"が宿るって言うじゃない?」
「ウチの子もお願いしてみよっかなあ」
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