灯の箱庭 (単話)
これは、誰かが望んだ灯の物語。
雪の降る夜だった。
世界がまるごと、深い毛布の中で息をひそめているようだった。
足元を踏みしめると、白がふわりと宙を舞う。
遠くの景色は、もう夢の中にあるようにぼやけていた。
薄く霞んだ空には、まだ太陽の名残があったが、それももうすぐ夜の色に呑まれてしまうだろう。
ボクはひとり、ランタンを手に歩いていた。
通りと呼べるほど広くはない小道の脇に、ぽつん、ぽつんと立ち並ぶ古びた街灯。
そのひとつに近づき、足を止める。
雪に覆われた金属の支柱の下に腰を落とすと、ボクはランタンを静かに地に置き、背丈ほどもある長いトーチを背から下ろした。
その先端にランタンの火を移し、ゆらめく灯を街灯へと分け与える。
白い雪の膜の中から、ぼんやりと優しい光が滲み出て、辺りの影をそっと溶かす。
ランタンを再び手に取り、次の灯を求めて歩き出す。
空はすでに夜の衣をまとい始めていた。
やがて、完全に闇が降りる頃──
灯された街灯が、空中を漂う雪の粒を照らし出す。
橙色の光がふわふわと空を駆け、世界を仄かに明るく染め上げていた。
夜がすっかり空を包み込んだ頃、道の端にぽつんと一人の影が立っていた。
大きな耳が、しょんぼりと垂れ、雪をかぶった尾が揺れていた。
震えている。凍えている。
それでも目だけは、懸命にこの場所に希望を探していた。
「宿をお探しですか?」
トーチを背中にかけ直し、彼女の前に立つと、不安の色に染まった顔が、ぱっと咲くように明るくなった。
「あぁ……よかった! 本当に、誰もいなくて……!」
声が震えていた。
隣町からはかなり距離がある。
天候の悪化に重ねて、この場所に辿り着いた不安は、想像に難くない。
「それは寒かったでしょう。宜しかったら、ウチにおいで下さい」
そう言って、ボクたちは歩き出した。
二人分の足音が、また雪に攫われて消えていった。
家の扉を開けると、ひんやりとした空気が迎える。
ボクはランタンをテーブルに置き、燭台に灯りを分ける。
何もなかった暗い部屋に、ふわりと炎が揺らめき、色を取り戻した家に影と温かさが戻る。
「広くはないですが、ゆっくりしていって下さい」
「ありがとう、本当に助かりました」
そう答えた彼女は、自分に積もった雪を遠慮がちに払いながら、家の中へと足を踏み入れた。
まだ肩に荷物を背負ったまま、彼女はずっとボクの姿を目で追っていた。
どこか、不思議そうに。
火打石の音とともに、薪もない暖炉に火が灯る。
空気を吸い込むようにゆらめき、やがて、部屋中にやさしい香りを放った。
「どうぞお掛けになって下さい。荷物はどこでもご自由に」
案内に従って、彼女はソファの傍に荷物を置き、肩をなでおろすように腰を下ろす。
そして不思議そうに、先ほどの暖炉の火をじっと見つめていた。
「お茶を淹れるには時間がかかりますね。お酒の方が温まるでしょうか」
ボクはグラスを二つ用意し、一方に水、もう一方には蜂蜜酒を注いだ。
彼女は迷いなく酒を手に取り、そっと口に含むと、彼女の頬に薄紅が差した。
その動作が、どこか必死で、あたたかいものにすがるようだった。
「すみません、いろいろとお世話になって……」
客室の支度をしていたボクに、扉のほうから遠慮がちな声が掛かる。
彼女は荷物を抱えた姿は、出会った時の不安げな様子と、どこか重なった。
「趣味のようなものですよ。湯加減はいかがでしたか」
「おかげさまで、ぽかぽかのふわふわです!」
さっきまでしょんぼりしていた耳が、いまはぴんと立っている。
尻尾もふわふわと揺れ、先ほどまでの不安が、すっかりほぐれているのが見て取れる。
その様子に思わず笑みがこぼれた。
「それは良かったです。軽食で宜しければ、何か苦手な食べ物はありますか?」
「……無いですが、あの、そこまでしていただかなくても……」
彼女の耳が、再び垂れていく。
「趣味のようなものですよ」
ランタンを手に、ボクは静かに部屋を出た。
その灯が、彼女の背中にそっと影を落とした。
トントン、と、扉を四度、優しく叩く。
木製のトレイに載せたのは、木の実を練りこんだ小さなパンと、湯気の立つ琥珀色のスープ。
部屋の暖かさは十分とは言い難い。
鍋から移したスープは白く天井に向かって筋を描き、野菜の香りだけを雪空にそっと溶かしていく。
扉の向こうから元気な返事が返ってくる。
開かれた扉の隙間からは、スープとは別の甘くやわらかな香りが漂っていた。
「あの、宜しければ……一緒に食べませんか」
彼女の微笑みに、ボクもふわりと頷いた。
誰かと食事をするのは、どれほど久しぶりだろう。
「では、自分の分を取ってまいります」
そう言って一度部屋を離れ、残ったスープを小さな器に注ぎ直し、鍋には水を張る。
ほんのり温かい香りが、空気の中に、音もなく広がっていった。
部屋に満ちる空気は、穏やかで、それでいてほんの少し、ぎこちない。
焚火のような温かさの中に、互いの距離を計るような静けさがある。
だがその中にある静けさが、心地よくもあった。
ランタンが足元でやさしく揺れ、スープの香りがそれを包み込む。
ボクは話の聞き手に回り、彼女の声に耳を傾けながらスプーンを口に運んでいた。
彼女の前にあった一人分のパン。
それを気にしていた彼女も、今ではすっかり自然な表情を見せている。
やがて、彼女がぽつりと問う。
「この街の皆さんは……どこにいるんですか?」
「居ませんよ。誰も」
空気が、すっと、冷えたように感じた。
「ここは街ではありませんし、誰も住んでおりません」
ランタンの火が、ゆらりと揺れた。
その揺らぎが生んだ影が、彼女の不安を映し出すように、壁に淡く伸びていく。
ふわふわだった耳が、そっと沈んでいく。
「……あの」
「ごめんなさい。ボクにも分かりません」
琥珀色のスープが静かに冷めてゆくのを見つめながら。
ボクは、自分のことを話し始めた。
ボクが目を覚ますのは、いつも夕暮れの少し前。
決まって、雪や雨が降っている。
ボクはこのランタンを持ち、灯をつけて回る。
どこかに必ず、宿を探す誰かがいて、
家に迎え、食事と寝床を用意してあげる。
そして翌日の食事を整えてから、また眠る。
ボクらは灯。道を照らすためのもの──それ以上でも、それ以下でもない。
たとえば、寂しさの中で“誰か”が願ったぬくもりの残像。
あるいは、もう帰れぬ誰かの記憶が作り出した、一夜限りの夢。
それがどちらなのか、ボクにも分からないけれど……
冷えたスープと、ランタンを手に立ち上がる。
その足元に、誰にでもそこにあるべきはずの、影が、無い──
彼女の視線が、耳が、尻尾が、不安を訴えている。
気味が悪い。得体が知れない。怖い。
それでも、ボクはただ、静かに告げる。
「明日は軽い朝食をご用意しておきます。どうか、お忘れ物だけはご注意ください」
自分の器とランタンを彼女のトレイに載せ、ボクは扉へと向かう。
「──お、お世話になりましたっ!」
背中から届いたその声に、ボクはふっと笑みを零した。
「はい。安全な旅路をお祈りしております」
振り返ることなく、そっと扉を閉じた。
代わりに、ランタンの灯だけが、静かに手を振っていた。
─
翌朝。
目が覚めたとき、テーブルの上には、朝食のパンがひとつ置かれていた。
冷たくなってはいたが、口に含めばほんのりとした甘さが広がり、心が少しずつ温まっていく。
荷を背負い、家の中をそっと見て回る。
気配も感じられない。物音も聞こえない。
ただ、ただランタンの灯がひとつ、静かに揺れていた。
玄関を開けると、外は晴れていた。
雪はきらきらと光を跳ね返し、一瞬だけ視界が白に染まる。
目を細め、もう一度見開くと、そこに──
家も、街灯も、あの箱庭すべてが、影も形もなくなっていた。
ただ、ひとつ。
雪の中に、小さな石像が顔を覗かせていた。
雪を払い、その姿を見たとき、私は思わず息を呑んだ。
片手にランタンを、背に長いトーチを背負ったその姿は。
あの晩、一緒に食事をしたあの人に似ていた。
「……いってきます」
深く、深く、頭を下げる。
足を踏み出す。雪を踏む音だけが、静かに後に続く。
石像の顔は、どこか微笑んでいるように見えた。
──安全な旅路をお祈りしております。
─
天候にさえ見放された旅人の前に現れる、不思議な異界。
冷えた身体を包む温もりと、穏やかな声。
そこは、旅人たちの願いが灯す、一夜限りの箱庭。
それを知るのは、通り過ぎた旅人だけ。
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