第2話

「昨日は、翼さんが来てたみたいだね」


筋肉質で、短髪。

爽やかなナイスガイ。

僕の弟。陸というらしい。


「はい。来てましたよ」


「今でも慣れないなぁ。その敬語」


陸は、ぽりぽりと困ったように頭をかいた。


「陸さんと翼さんは、知り合いだったんですね」


「知り合いも何も、兄貴の紹介だけどね。

 同じ大学──凌星(りょうせい)大学。勉強教えてもらうために、翼さんを紹介してくれたんだ」


凌星大学?

日本で三本の指に入る、名門私立大学じゃないか。


僕の弟と元カノは、そんなすごい人だったんだ。


「あの人はすごいよ。高校からの内部生なんだけど──あそこの高校入試、下手すりゃ大学より難しいからね。

 内部進学はさすがに楽だけど、それでも成績上位じゃないと上がれないし」


「頭がいいんですね、二人とも」


「俺なんか足元にも及ばないよ。あの人、超人だよ。

 国際学部で文系しか使わないのに、数学の方が点取れるからって理系で受験してたし。

 片手間でやってる数学が、俺よりできてるんだから」


僕は大した勉強ができない。それだけは、なぜか覚えている。


弟は頭がいい。

翼さんは、そのさらに上を行ってる。


オセロみたいに、頭のいい人に挟まれたら──僕もちょっとは良くなったりしないかな?


……まあ、ないだろう。


頭のいい人は、生まれつきかもしれない。

でもそれ以上に、たぶん──

僕がしない努力を、ちゃんと続けてきた人たちだ。


そんな適当な相乗りで、点数が取れるわけがない。


「自信、なくなっちゃうな」


「それでも、翼さんは兄貴を選んだんだよ。それなのに……」


「いや、なんでもない」


陸はニカっと笑った。


「なにか思い出せそうになった?」


「いいや。まだ何もわかりません」


「そう。ゆっくりでいいよ」


「これ、兄貴の口癖だから。一緒に映画を見た時も、上映時間始まってるのにこんなこと言うんだから。困った兄貴だよ。でも、すごい兄貴だよ。だから、ゆっくりでいいよ」


「ありがとう、ございます」


僕はどうやらマイペースな人間らしい。


「そうだ。陸さん。僕の家の机にある日記をとって来てくれませんか?」


「鍵かかってるよ」


「番号はたしか、0726です」


陸さんが、いたずらそうに笑った。


「……中身、見ていいの?」


「……えーと、多分困るというか。中身覚えてないからなんともというか」


「ごめん、冗談!もちろんみない!次きたときに忘れず持ってくるよ」



俺は人より、勉強はできた。

兄貴はそうでもない。


むしろ、できない方だ。

赤点の兄貴に勉強を教えたことは一度や二度ではない。

2個下の弟だけど、勉強は嫌いじゃなかったしどんどん先に進んでいた。平気に教えられていた。


俺は人より、運動もできた。

幼い頃からリレーの選手にならないことはなかった。

兄貴は悪くないけど、よくもない。

特段スポーツで目立ったことはないだろう。


それでも。兄貴には敵わない。

例えるならば、誰もが立ち寄りたくなる憩いの場のような人。


いるだけで、気が休まる。そんなヒト。

これはもう、ノートや教科書で賄い切れない天性のモノ。


人格から滲み出る暖かさだ。

誰かを想わずにはいられないヒト。

だから、誰もに想われているヒト。


大学に入るまで彼女ができなかったことが不思議だ。


いや、振ってたらしいけど。


兄貴の恋愛観はよくわからない。


誰かと話すときは、決まって兄貴の真似をしてしまう。


この人にとって、優しい答えになるように。

間違いでも、安らぐ答えであるように。


そんな兄貴に彼女ができたことを、本当に嬉しく思っていた。


でも、会ってはいけなかった。


兄貴の紹介で、勉強を教えてもらえることとなった。

どんな人かは知らなかったが、いい人間か見定めなければとも思った。

教えを乞う立場であるが、嫌な奴だったら兄を守らねばならない。

だが、杞憂だった。

そもそも兄に人を見る目がないわけがなかった。


「えーと。三次方程式が苦手なんだっけ?まずはこのプリントをやってみて」


数字は複雑じゃない。きわめてわかりやすい。けれども、仕組みをわかっていなければ解けない。そんな問題であった。


「解きました」


「途中式は?」


「恥ずかしながらごちゃごちゃですが」


「いいわ。私普段から宇宙人と会話してるから。ふふ。あなたの兄よ」


「のろけないでくださいよ、もう」


茶化したように笑った。


「のろけてないわよ。まったく困っちゃうんだから」


書き殴った途中式を赤で書き足す。

どの問題のものか記述していないので、順番がバラバラだ。


でも、的確に赤を入れる。

次からはきれいにかこう。


「なるほど。多分、ここがわかってないわね」


「すごくいいプリントですね。段階的に間違えた箇所がわかるようになってる。どこのサイトのやつですか?俺も自分で解きたいです」


空白。一瞬時が止まった。


「あ、これ私が作ったのよ。変なところなくて安心したわ」


少し恥ずかしそうに頬をかいた。かわいらしい人だ。


別日にはこんなこともあった。


「あそこの解説の件、一度時間をくれるかしら?」


「いえ、もう大丈夫ですよ。ほら!」


赤丸だらけのノートを掲げる。途中式や式に至るまで整列している。


「実際わからなかった問題は解けるようになってましたし」


それでも彼女の表情は険しい。


「でも、君が言ってくれたように応用では使えない解き方よ」


「私自身が納得してないの。だから、調べる時間をちょうだい。テキトーな仕事をしたら、彼に合わせる顔がないもの」


「……兄貴はそんなの気にしませんよ」


靴下だって平気に柄違いを履くような男だ。


「ふふ。それもそうね。でも、私が勝手にやるわ」


こんな風に、翼さんの指導は続いた。

正直、お金をとってでも彼女の授業を受ける価値はある。

むしろ、払いたいまである。

俺の成績は凌星レベルではなかった。

一段、二段階くらい引き上げてもらったおかげで合格できた。


でも。

ここまでしてもらっても何か見返りを求めたりなんてしなかった。

というより、そんなことなんてはなから考えてない人間だ。

彼女はきっとどんなことも全力で、やるのだ。

それへの努力も見せず。

それへの見返りを求めず。


そんな彼女に惹かれてしまうのは、もはや不可抗力だった。


尊敬する兄。魅力的な兄の彼女。


お互いが足らないものを埋め合っていた。

性格はまるきり違う。

けれども、お似合いの二人だ。


その均衡が崩れることはなかったから、納得していた。

あきらめられていたのに。


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