第12話:新たな舞台、二人の物語の始まり

育成契約でのプロ入りを決意してからの数週間は、

本当に怒濤のように過ぎていった。

雄太のプロ入りが正式に発表されると、

会社では改めてお祝いムードが巻き起こった。

私の部署でも、雄太の活躍を祝う

ささやかな壮行会が開かれた。


山下先輩が、少し照れたような顔で、

グラスを掲げながら言った。

「おい、田中。お前がプロのユニフォーム着てるところ、

見に行くからな。いつでも、このデスクは

空けて待ってるから、安心しろよ」

その言葉に、雄太は「ありがとうございます!」と

深々と頭を下げた。

山下先輩の不器用な優しさが、

私には何よりも心強かった。

みんなの温かい祝福が、

雄太の背中を、そして私の心を、

そっと押してくれているようだった。


引っ越しは、想像以上に大変だった。

これまで住んでいたアパートを引き払い、

球団の寮に近い、新しい街へ。

慣れない土地での生活は、

新鮮な驚きと、少しの戸惑いの連続だった。

新しい部屋のカーテンを選んだり、

家具の配置を考えたり。

二人で話し合いながら、

少しずつ「私たちの家」を作っていく。

その時間が、私には何よりも幸せだった。


雄太は、プロとしての自覚を

日に日に強くしていくようだった。

彼の目は、もう過去の挫折を見ていない。

ただ、真っ直ぐに、未来を見据えている。

夜、自主練習から帰ってくると、

彼のユニフォームからは、

これまで以上に濃い、土と汗の匂いがした。

その匂いは、彼の努力の結晶。

私は、その全てを愛おしく感じた。


新しい生活が始まり、

雄太はプロとして、二軍の練習に合流した。

プロとしての最初の舞台は、

華やかな一軍とは異なる二軍グラウンド。

テレビ中継もなければ、大勢の観客もいない。

けれど、私にはそれが、

希望に満ちた場所に見えた。

まだ何もない場所で、

雄太がこれから夢を育んでいく。

その隣に私がいる。

その事実が、私を奮い立たせた。


彼の練習は、想像以上に厳しかった。

朝早く家を出て、夜遅くに帰ってくる。

プロの練習メニューは、

これまでの比ではないと、雄太は話していた。

時には、疲労で眉間にシワが寄ることもあった。

それでも、彼が毎日、野球ができる喜びで

目を輝かせているのを見ると、

そんな小さな不満は、すぐにどこかへ

吹き飛んでしまう。

彼のひたむきな姿を見るたびに、

私の胸は、誇らしさでいっぱいになった。


私の役割は、彼の体を休ませ、

心を癒やすこと。

食事は、栄養バランスを考えた

高タンパクなメニューを中心に。

彼の好きなものも、忘れずに作る。

疲れて帰ってきた彼が、

私の作った料理を美味しそうに食べる姿を見るたびに、

私の中に、じんわりとした温かい幸福感が広がっていく。


夜のマッサージは、日課になっていた。

彼の硬く張った筋肉を、私の指先でゆっくりと解していく。

その奥に、熱が籠っていて、

そこから彼の命の音が伝わってくるようだった。

彼の息遣いが、私の耳元に届く。

その全てが、私にはたまらなく愛おしかった。

彼が、安心して眠りにつけるように。

そう願いながら、私は彼の隣に寄り添った。


プロの世界での生活は、想像以上に厳しかった。

育成選手は、支配下登録されなければ、

シーズン途中で解雇されることもある。

それは、雄太が日々直面している現実だった。

時折、彼が夜中にうなされていることがある。

小さく「くそ……」と呟く声が聞こえてくるたびに、

私はそっと彼の隣に寄り添い、その手を握った。

彼の小さな吐息と体温が、

私に彼の不安を教えてくれた。

大丈夫。

心の中でそう呟きながら、

私は彼の夢を守り続けようと、改めて心に誓う。

彼が野球に集中できるよう、

私は彼の生活の全てを支えたい。

それが、彼の隣にいる私の使命だと思った。


雄太は、野球に没頭していたけれど、

私との時間も大切にしてくれた。

オフの日には、二人で近所の公園を散歩したり、

少し遠出して海を見に行ったりもした。

新しい街で、新しい思い出を一つずつ作っていく。

その一つ一つが、私たちの大切な宝物になっていく。


ある日、公園で二人でベンチに座っていると、

雄太がふいに私の手を握った。

「美咲がいるから、頑張れるんだ」

彼の言葉に、私は顔が熱くなるのを感じた。

「私だって、雄太がいるから頑張れるんだよ」

そう言うと、雄太は優しく微笑んだ。

私たちはお互いに支え合いながら、

この新しい生活を歩み始めていた。

彼の手の温かさが、私の心を包み込む。

この温かさが、ずっと続けばいいのに。


二軍の練習場は、華やかさとは無縁だった。

けれど、そこには、夢を追う者たちの

熱い息遣いと、ひたむきな努力があった。

雄太は、同期の若手選手たちとも切磋琢磨していた。

年齢による経験値の差も彼にとってはプラスに働き、

若手から学ぶこともあれば、

自身の経験を伝えることもあるようだった。

彼の野球ノートは、毎日びっしりと書き込まれていく。

練習内容、自分の体の状態、課題、

そして、小さな目標。

私はそれを読むのが好きだった。

彼の野球への情熱と葛藤が、

そこには全て詰まっていたから。

彼の夢が、一歩ずつ、確実に

前へ進んでいるのを感じた。


「ここから、また二人で最高の物語を作ろうね」

私がそっと呟いた言葉に、雄太は深く頷いた。

彼の目には、未来への希望が満ちていた。

彼の夢は、もう彼の夢だけじゃない。

私と、そして彼の周りの大切な人たちの夢になっていた。

彼の挑戦は、私にとっても、

人生を賭けた挑戦だった。

この先に何が待っていようと、

私は彼と共に、この道を歩んでいく。

そう、心に誓った。

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