第3話:再燃する夢、私の献身

雄太の再挑戦の噂は、

あっという間に会社中に広まった。

最初は「田中がまた野球を始めるらしいぞ」と、

どこか冷ややかな、好奇の目に晒されているようだった。


「どうせ、またすぐ諦めるだろ」

「一度肩を壊した奴が、今さら何ができるんだ」


そんな陰口が、私の耳にも届いた。

私はそのたびに、胸が締め付けられる思いだった。

雄太は、そんな言葉を気にする素振りも見せず、

ただひたすらに、目の前の練習に打ち込んでいた。


けれど、雄太が昼休みに会社の裏で素振りをしたり、

終業後に公園に向かう姿を見せたりするうちに、

その目は少しずつ、期待と応援の光を帯びていくように

感じた。

彼のひたむきな姿は、周りの人たちの心を、

少しずつ動かしているようだった。


特に、山下先輩は雄太に辛辣な言葉を

投げかけることが多かった。

「おい、田中。いい加減、夢見んのやめろよ。

お前もう若くねぇんだぞ」

そう言われた時、私は思わず雄太をかばおうとしたけれど、

雄太は何も言わず、ただ静かに頭を下げていた。

それが、私には辛かった。

彼のプライドが、どれほど傷ついているか。

私には痛いほど分かった。

でも、彼は何も言い返さなかった。

ただ、黙って耐えていた。

その姿に、私は彼の覚悟を感じた。


そんなある日のことだった。

取引先の企業との打ち合わせで、

雄太が席を外している間に、

私は彼の名刺入れを借りてメモを取っていた。

その中に、一枚だけ、見慣れない名刺が

入っているのを見つけた。


「佐々木 賢一。元プロ野球選手。現:少年野球コーチ」


私は思わず息をのんだ。

雄太が、プロの野球選手と会った?

しかも、元プロ。

これは、ただの草野球とは違う。

彼の本気が、私に伝わってくる。

私の心臓が、ドクンと大きく鳴った。


雄太が戻ってきてから、私は名刺のことに触れなかった。

彼がいつか話してくれるのを待とうと決めた。

彼の口から、直接聞きたかった。

彼の夢が、どれだけ本気なのかを。


そしてその夜、雄太はいつになく興奮した様子で、

私に佐々木さんとの出会いを話してくれた。

「佐々木さんが、俺の球を見てくれたんだ!

『君にはまだ可能性がある』って言ってくれたんだ!」

彼の声は弾んでいて、まるで子供のように

目を輝かせていた。

その眩しい笑顔に、私はまた、

目頭が熱くなった。

彼の夢が、本当に、動き出している。

その事実が、私には何よりも嬉しかった。


雄太が佐々木さんの指導のもと、

二人三脚で練習を始めた。

佐々木さんの指導は、科学的で合理的だったと、

雄太は興奮気味に話していた。

肩への負担を最小限に抑えつつ、

最大限のパフォーマンスを引き出すための練習メニュー。

私は、雄太がもう二度と、あの時のように

体を壊すことがないようにと、ただ祈っていた。

彼の肩の古傷。

その傷が、また彼の体を蝕むのではないか。

そんな恐怖が、私の心をよぎるたびに、

私は佐々木さんの言葉を思い出す。

「大丈夫だ。俺が、彼の肩を守る」

その言葉に、私はどれほど救われただろう。


佐々木さんがいることで、雄太の練習はより専門的になり、

私も少し安心した。

彼の夢が、私だけの問題ではなく、

信頼できる第三者が加わったことで、

より確かなものになっていくような気がした。

彼の成長を見るたび、私の心は喜びと期待でいっぱいになった。


雄太の練習は、日を追うごとに厳しさを増していった。

朝早く起きて、佐々木さんの指導のもと、

ランニングや体幹トレーニング。

仕事が終わってからは、バッティングセンターに通い、

夜遅くまで素振りを繰り返す。

彼の体は、日に日に引き締まり、

まるでアスリートのようになっていく。


私は、彼の隣で、彼のためにできることを

全てやろうと決めた。

食事は、栄養バランスを考え、

高タンパクで低カロリーなものを中心に。

練習で疲れた彼の体を癒やすために、

マッサージの仕方を本で勉強した。


彼の硬く張った筋肉を、私の指先でゆっくりと解していく。

その奥に、熱が籠っていて、

そこから彼の命の音が伝わってくるようだった。

彼の息遣いが、私の耳元に届く。

その全てが、私にはたまらなく愛おしかった。


「美咲、本当にありがとうな」


マッサージ中に、雄太がぽつりと呟いた。

彼の声は、疲れているけれど、どこか満ち足りていた。

その言葉に、私の心は満たされた。

彼の夢を支えることが、私の生きがいになっていた。

私なんかで、彼の夢を支えられるのだろうか。

そんな不安が、時折、胸をよぎるけれど、

彼の「ありがとう」という言葉が、

私を奮い立たせる。


ある日の夜、雄太が練習から帰ってくると、

彼のユニフォームから、いつもとは違う匂いがした。

土と汗の匂いに混じって、

どこか懐かしい、青い芝生の匂い。

「今日、球場で練習させてもらったんだ」

彼の言葉に、私は息をのんだ。

プロの選手が使う、あの大きな球場。

雄太の夢が、少しずつ、形になっていく。

その事実が、私には何よりも嬉しかった。


彼の野球道具も、少しずつ増えていった。

新しいスパイク、バッティンググローブ、

そして、彼の肩をサポートするための

特別なサポーター。

一つ一つが、彼の夢への階段を

示しているようだった。


私は、彼の隣で、彼の夢が大きくなっていくのを

感じていた。

それは喜ばしいことだったけれど、同時に、

大きな不安も私の中に芽生え始めていた。

世間の期待が高まれば高まるほど、

彼にかかるプレッシャーも大きくなるだろう。

もし、また挫折してしまったら……?

彼の肩の古傷。

その傷が、また彼の体を蝕むのではないか。

そんな恐怖が、私の心をよぎるたびに、

私はそっと、彼の背中に手を伸ばす。

彼の温かい体温が、私に彼の存在を教えてくれる。


それでも、私はその不安を振り払う。

大丈夫。彼なら、きっとできる。

私には、そう確信できるだけの

雄太の努力を知っていたから。

そして、彼の隣には、私がいる。

私が、彼を支え続ける。

それが、私の使命だと思った。


彼の夢は、もう彼の夢だけじゃない。

私と、そして彼の周りの大切な人たちの夢になっていた。

彼の挑戦は、私にとっても、

人生を賭けた挑戦だった。

この先に何が待っていようと、

私は彼と共に、この道を歩んでいく。

そう、心に誓った。

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