第四章 プリマヴェーラ【5】
ロンがメモリア号に戻ってくると、アリスはまだ床に就いておらず、それどころかブリッジでうろうろしていた。
おまけに主電源が入れられている。
「おまえ、何してる」
問いかけると、アリスは恥ずかしそうに身をくねらせた。
「リサイクラー、壊れてる」
「水の、か?」
「そう」
急にふてぶてしい口調になった。
「おじさん、お風呂入ってお祈りして寝ろ、って言ったから、お風呂入ろうと思ったら、シャワー、出ない」
ロンはしぶしぶ主操縦席につき、船内の居住区画の各回路をサーチした。
別に異常はない。
「壊れてないぞ」
「だって、壊れてたもん」
アリスはインタラプターを指で示す。故障の〈音〉を聞いた、という意味だろう。
「見てやる」
ロンは先に立ってブリッジを出た。アリスもすぐに続く。
エレベーターの中でロンは噛んで含めるように言った。
「もし壊れてたとしても、ブリッジに電源なんか入れたって、リサイクラーは直せやしないぞ」
「あ、そうなの」
アリスは興味なさそうに答えた。
船室に入って点検してみたが、リサイクラーはどこも故障していなかった。ちゃんとシャワーも出る。
「壊れてないぞ」
「ヘンだなあ」
ぶつぶつ言いながらインタラプターのコントローラーをいじる。そして唐突に、
「あ、ゴメン、おじさん。聞き間違いだった」
あっさりとそう言った。
「人騒がせなヤツだな。さっさと寝ろ。子どもはもう寝る時間だぞ」
「はいはぁい」
おどけて答えると、いきなりワンピースの背中に手を回してボタンを外しはじめた。
「出てってよ、おじさん。着替えるの」
「あ、こりゃ悪い」
ロンは体よく追い出された。
船に戻ったときは、何も変わったことはなかったか、と聞こうと思っていたのだが、すっかり忘れてしまっていた。まあいい。あの調子なら何ごともなかったのは一目瞭然だ。
ブリッジに戻り、主操縦席に座った。
シートのリクライニングをいっぱいに倒し、目を閉じた。
閉じた途端、緊急通信のコールサインで叩き起こされた。
ロンは目をこすりながら通信機に向かった。ソクラテスだろうか。そういえばホテルをキャンセルしたことを伝え忘れていた。連絡がつかないので、心配してメモリア号を呼んだのかもしれない。
「こちら〈ヘレネ〉所属……」
言いかけて時計を見た。目を閉じた途端と思ったのは勘違いで、あれからすでに何時間か経過していて、その間すっかり眠っていたのだと知った。今は深夜というより明け方に近い。ソクラテスがこんな時間に連絡してくるとは考えにくい。
まさか、と思って、発信元をチェックしてみた。見覚えのないコールサインだが、間接モードを使っているから遠距離通信だ。
念のため、決めたばかりの偽名を使ってみることにした。
「……ウィンストン号。そちらは?」
通信の相手は、しばし沈黙した。こちらの出方を探っているのか、何も言わない。
これはいよいよ軍関係か、とロンが思いはじめた時だ。
『そちらはメモリア号、キャプテン・シーカーではありませんか?』
ひどい雑音の奥から、甲高い男の声がそう問いかけてきた。
もちろん、ソクラテスの声ではない。ロンは通信機相手に身構えた。しかし、少なくとも敵意のある声ではないように感じられる。
「そっちは、誰だ」
感情を気取られないよう、硬い声で問い返す。
『ヒルベルト・ローゼンバーグと言います』
それを聞いて目が覚めた。
「アリスの?」
反射的に小さく叫んでいた。
『突然、ご連絡をさしあげて恐縮です。驚かれるのも無理はありません。事態は緊急を要するものですから』
リクライニングを戻す。いったい何があったというのだろう。いや、その前に。
「どうして俺のことがわかった?」
『この世に分からないことなどありませんよ。調べる、考える、それですべて分かります』
やけに嬉しそうにヒルベルトが言う。
「すまんが、謎かけをする気はないんだ。事情を説明してもらえないか」
『承知しました。ひとつ確認させてください。周囲にデオラ宇宙軍と思われる人物が監視している気配はありますか?』
ロンは、ちょっとだけ考えた。
「確証はないが、大丈夫だと思う。俺も注意しているし、それにもし監視されていれば、あの子が感づく可能性が高い」
『超覚のことをお聞きになっているのですね。それなら話は早いです』
ようやくヒルベルトは本題に入った。
彼は、軍の秘密通信をハッキングして、コンスエロシティ宇宙港やデオラⅣ軌道での事件を知ったらしい。
それに先だって、特殊教育センターからアリスが逃げ出したことも、すでに察知していたのだという。
『どうやって知ったのかを説明している時間はありません』
ヒルベルトは、ロンの機先を制するようにそう言った。ロンもそれで納得した。軍の極秘通信をハッキングできるような人間だ。他に何ができても不思議ではない。
――調べる、考える、それですべて分かります。
その言葉は嘘でも誇張でもなく、ヒルベルト・ローゼンバーグ教授にとってはごく当たり前のことなのだろう。
『ともかく、危険が迫っています。今すぐそこを発って、ここへ来てください』
「ここ、とは?」
『デオラⅨですよ』
正確には、デオラⅨの人工衛星軌道上にある、ヒルベルトのプライベートステーションのことだった。
「なんだ。てっきり、近くまで迎えに来てくれてるのかと思ったよ。あんたは遠距離通信には出ない、とあの子から聞いたんだがな」
『この通信は、軍にも解析できない暗号を使っています。ですから、こちら側からの発信で間接モードを使うのは、何ら問題ないのです』
彼が言うには、デオラ宇宙軍内部の造反分子がクーデターを企てており、アリスはそれに利用されようとしているらしい。そして、星系内にまもなく探査網が張られるのだ。
「待ってくれ。俺の会社のエージェントは、そんなこと一つも言ってなかったぞ」
ロンの疑問に対し、ヒルベルトは淡々とした口調で答える。
『失礼ですが、運送会社のエージェントの情報網は、デキのいい情報屋ていどでしかありません。宇宙軍、それも決死の覚悟でクーデターを企むような連中が、そう簡単に情報を漏洩するわけがありませんよ』
そう言われれば、返す言葉もない。ロンは引き下がり、話の続きを促した。
『それから、いまアリスがプリマヴェーラにいることも、間もなく突き止められるでしょう。自治区だからうかつに手は出せませんから、おそらく何らかの手を使って、あなたとアリスをそこから燻し出そうとするはずです。今のうちに脱出してください』
「しかし、そっちへ向かったら、わざわざ罠の中に飛び込んでいくようなもんだろう」
『まだ大丈夫です。より正確には、大丈夫になりました。あなたのおかげです』
「俺の?」
『はい。アリスが直接、デオラⅨに向かわなかったことで、彼らは混乱しました。アリスが逃げ帰る先はこのステーションしかあり得ない、と彼らは思っていましたからね。最初はここを警戒していましたが、デオラⅣ軌道であなたが虎口を脱してからは、事実上ノーマークになりました」
デオラ星系外への運送を予定していたメモリア号に密航したことは、アリスにとっては思いのほか僥倖だったらしい。
「とは言え、今から張られる網は、それこそ虫一匹逃げ出せないほどの綿密なものです。可能性があろうがなかろうが、すべてのポイントが監視されます。そうなる前に、ここへアリスを連れて来ていただきたいのです』
早口だが、言葉は明晰で滑舌もいいから、聞き取りにくいことはない。それにしても雑音がひどい。デオラストームが間近に迫っているせいだろうか。
「あの子は、デオラⅨに行きたいと駄々をこねたけどな。俺が頼みを聞かなかったのは、単に仕事を優先しただけだ」
『それが良かったのですよ、結果的には。それで、実は私のほうで逃避行の手配をしました。協力してくれる同志も幾人かはいますのでね。デオラの手が届かない、どこか遠くの星系でしばらく身を隠すことにします』
「俺が直接、逃亡先へあの子を連れて行こうか? そのほうが速いし、安全だろう」
『時間的なメリットはありますが、いかんせん逃亡先は現時点では未確定です。それに、少しでも早く、あの子の無事な姿を見たいのですよ』
ロンの背後でシュン、と音がした。ブリッジの扉が開く音だ。
「先生でしょ?」
振り向くと、アリスが駆け込んできた。
「ちょっと待ってくれ、あの子が起きてきた」
ロンは通信機に向かって告げ、アリスを振り返った。
「よくわかったな。聞こえたのか?」
アリスはものすごい勢いでロンのそばまで走ってきた。
「ううん。聞こえたのは、何か通信が入ってるってことだけ。電波じゃ、声まではわかんない。でも、きっと先生だって思った」
「勘ってやつか」
「うん」
アリスは通信機に覆い被さるように身を乗り出した。
「先生?」
『アリスかい』
「はい」
『心配したんですよ。元気ですか』
「はい。心配かけてごめんなさい」
ロンは苦笑した。アリスがこんなしおらしい態度を見せるなんて、初めてのことだ。
『君がいなくなったと知って、ほんとうに寿命が縮まる思いだったのですよ』
「ホントにごめんなさい。もう夢中で飛び出しちゃって、先生に連絡する方法もなかったし……」
『そうですね。それについては、会ってからたっぷり叱ることにしましょう。とにかく今は、無事でいてくれてよかった。本当によかった』
ヒルベルトは涙声になった。アリスも、心なしか目が潤んでいるようだ。
互いの顔も見えず、音質の悪い遠距離通信を介した声だけの会話だが、二人の間には確かに通い合うものがあるのだろう。
ロンは何も言えなかった。自分の船の自分の操縦席に座っているというのに、堪えようもなく居心地が悪かった。
「おじさんが、守ってくれたから」
アリスが嬉しそうに報告している。
「もぐり込んだのがおじさんの船じゃなかったら、きっと連れ戻されてた」
『すまないことをしてしまいましたね、教育センターにそんな連中が目をつけていたとは思わなかったのですよ……キャプテン・シーカー?』
不意にヒルベルトが呼びかけてきた。アリスが小さく「キャプテンだって」と笑った。
「なんだ?」
『あらためて、礼を申します。よく今まで、アリスを守ってくださいました』
守ってくださいました、か。
俺の役目は終わりだ。安心しきったようなアリスを見て、ロンはそう思った。この子には、ちゃんと守ってくれる人がいる。
「礼などいらん。とにかく、あんたのステーションまで連れて行けばいいんだな」
ことさらぶっきらぼうにロンは言った。
『ええ。お願いいたします。一刻を争うのです。あなただけが頼りです。十六時間以内にデオラⅨまで来られますか?』
頭の中で計算した。プリマヴェーラから指定されたLIPまで航行するだけでも十八時間かかる。逆立ちしても間に合わない。しかも、今すぐ出港しての話だ。出港許可やLIP使用許可の手続きを取ることを考えれば、さらに時間はかかる。
ロンは、その事情を説明した。
「必死でぶっ飛ばすが、難しいと思う」
『ご心配にはおよびません。確かプリマヴェーラには、四対のLPがあったはずです。最寄のLIPまでなら、三時間で着けるでしょう。許可局のネットワークに介入して、あなたの船にLIPの経由許可を付与するようにデータ改竄しましょう。デオラ側のLOPについても同様です。あなたは、宇宙港の出港許可だけ取ってください』
それなら、ヘレネのオフィスが開けばすぐにでも出発できる。HLAはほとんど時間を要しないし、デオラ星系唯一のLOPから公転軌道上のデオラⅨの現在位置までは四時間程度の距離だ。充分に間に合うだろう。
ヒルベルトは、アリスと合流でき次第、同志の仕立ててくれた船でデオラを脱出するつもりだと言う。
『実は、脱出のタイムリミットが十六時間以内なのです』
「何か理由があるのか?」
『デオラストームが来ます。予報では、十六時間後にはストーム本体がデオラⅨをまともに通過します。そうすると、ストームがやむまで、このステーションは通信が使えなくなります』
通信が使えなければ、メモリア号がステーションとランデブーするのが困難になる。逃亡用の宇宙船の発着も厄介だろう。
『ですから、なんとしてもその時間以内においで願いたいのです』
「引き受けた。安心して待っててくれ」
ロンは大きく頷いた。ヒルベルトには見えるはずもないと知りつつ。
『よろしくお願いします。そうそう、できる限りのお礼はいたします。あなたは次の仕事をフイになさるわけですからね。こちらには、いささか資金もありますから』
「いいさ。気持ちだけ受け取っておくよ」
ロンが真面目くさって言うと、アリスが横で茶化した。
「おじさん、どういう風の吹き回し? 素寒貧のくせに」
「うるさい。俺は別に金の亡者じゃないぞ」
言いながらロンは、なぜこんなに善人ぶるのか、自分で自分が可笑しくなった。
『それでは、くれぐれも軍にはお気をつけて。デオラⅨ宙域までおいでになれば、こちらから誘導します』
「わかった」
『アリスは、まだいますか?』
「いる」
『出してくださいませんか』
ロンは席を立った。
「座れ」
「いいの?」
「通信機の切り方はわかるな?」
それだけ言い置くと、その場を離れた。
「ありがと、おじさん」
本当に嬉しそうにアリスが言い、飛びつくように主操縦席に座るのを、ロンは背中で聞いていた。
ブリッジを出た。エンジンの点検をするつもりだった。
万に一つの間違いもなく、少しでも早く、安全に、確実に、送り届ける。なんてことはない、運送業者として当たり前のことをやるだけだ。そのための出港前点検だ。ヘレネとの契約規則にも定められていることだ。第十二条第一項、貨物船の運行責任者は安全確実な運行のために誠意を持って船の管理を行わなくてはならない。第二項、これに伴い運行責任者は別に定める施行細則に基づく出港前点検を義務付けられるものとする。第三項……。
堅苦しい条文を頭の中で必死に唱えながら、ロンは機関部の区画へと降りて行った。
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